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西ケ原

日本 > 東京都 > 北区 > 西ケ原

西ケ原(にしがはら)は、東京都北区町名。現行行政地名は西ケ原一丁目から西ケ原四丁目。住居表示実施地域。郵便番号は114-0024[2]

西ケ原
西ケ原
西ケ原の位置
北緯35度44分45.25秒 東経139度44分32.29秒 / 北緯35.7459028度 東経139.7423028度 / 35.7459028; 139.7423028
日本
都道府県 東京都
特別区 北区
地区 滝野川地区
面積
 • 合計 0.988 km2
人口
2017年(平成29年)12月1日現在)[1]
 • 合計 17,633人
 • 密度 18,000人/km2
等時帯 (日本標準時)
郵便番号
114-0024[2]
市外局番 03[3]
ナンバープレート 練馬
※座標は西ケ原駅付近

地理

東京都北区の南西端部の武蔵野台地に位置し、豊島区との区境を成すかつての山の手の住宅街である。北区内屈指の良好な住宅地として知られる。地区の北を王子滝野川および豊島区西巣鴨、東を栄町および上中里、南を中里、西を豊島区駒込および巣鴨と接する。地区の中央を南北に本郷通りが縦走する。

地価

住宅地の地価は2017年平成29年)の公示地価によれば西ケ原3-40-12の地点で43万1000円/m2となっている。

歴史

縄文時代前期(約5500年前)当地周辺の台地上に大規模な集落が現れた。海岸線から貝を採取したり、魚をとったと推測される。中期後半頃(約4200年前)から西ヶ原貝塚が形成されている。弥生時代には大規模な環濠集落が造られた。古墳時代後期には飛鳥山に古墳群が形成された。

古代には東海道が通っており、675年頃に現・滝野川公園辺りに武蔵国豊島郡郡衙が造成され始め、715年頃大規模に改造された。 平安時代の末期ごろから平塚郷の一部として豊島氏の支配下となり、居城である平塚城が築かれたと伝えられる。 七社神社から平塚神社の周辺で城に関連する遺構が多数発見されたものの、城郭の実態は明らかになっていない。

江戸時代日本橋から日光まで将軍が日光東照宮に参拝するために整備された日光御成道一里塚が設置されていた[4]1641年に将軍の鷹狩の拠点として御殿が現・滝野川公園辺り、のちに御殿山と呼ばれる場所に設置されたと考えられ、同年に徳川家光が鷹狩りに訪れている。1716年徳川吉宗が鷹場を再置し度々訪れている。日光御門主下屋鋪や植木屋仁兵衛の屋敷(西ヶ原牡丹屋敷)、西ヶ原村と上中里村との入会地に御用屋敷があった他、武家屋敷が点在する江戸御府内近在の農村であった。

1868年明治元年)江戸から東京への改称時に、西ヶ原村が東京府に属した。陸奥宗光渋沢栄一をはじめ、元勲華族実業家文化人らが居を構えた。これらの邸宅の一部は庭園として残されている。明治から昭和にかけて林業蚕業農業研究所学校が存在した。農事試験場跡の石碑には「農業技術研究発祥之地」と刻まれている。かつて存在した二つの学校はのちにそれぞれ現・東京大学農学部と現・東京農工大学となった。1911年(明治44年)王子電気軌道大塚線(大塚 - 飛鳥山上)が、1923年大正12年)東京市電飛鳥山線(駒込駅前 - 飛鳥山)が開通した。市電の工事にあたって渋沢栄一、野木滝野川町長らによる一里塚の保存運動があり、線路は一里塚を避けるように敷かれた。滝野川区役所は西ヶ原町(現・北区立滝野川会館の地)にあった。古石神井川のかつての河道を流れていた谷田川は昭和に入って暗渠化され、暗渠上に霜降銀座等の商店街が形成された。1931年(昭和6年)に国立印刷局滝野川工場(現・東京工場)が建設された。1944年(昭和19年)に東京外国語大学(当時は東京外事専門学校)が一ツ橋から海軍下瀬火薬製造所跡地に移転し、2000年平成12年)まで西ヶ原キャンパスがあった。1991年(平成3年)に南北線が開通し西ケ原駅が設置された。

地名の由来

地域の中心であり平塚神社のある上中里中里に対する西にある原の意味だと思われる。 中世小田原北条氏の家臣江戸衆の平塚藤右衛門の所領に「二十貫文 江戸平塚内西原」とある。

町名の変遷

現在の西ケ原の始祖は1889年明治22年)の町村制施行時点における北豊島郡滝野川村(1913年に町制施行し滝野川町へ)大字西ヶ原である。滝野川町は1932年(昭和7年)に東京市へ編入され滝野川区へ移行し、大字西ヶ原は西ヶ原町となる。1947年(昭和22年)に滝野川区は王子区と合併し北区が成立。その後1953年(昭和28年)に町名整理により西ヶ原町の一部が西ケ原一丁目~四丁目となった。

1965年、この西ケ原一丁目~四丁目をそのまま継承する形で住居表示を施行、1976年には住居表示未実施であった西ヶ原町の残部にも住居表示が行われ一丁目へ編入(一部は中里二丁目へ編入)。これをもって西ヶ原町は廃止された。

実施後 実施年月日 実施前
西ケ原一丁目 1965年(昭和40年)7月1日
(旧西ヶ原町の追加編入は1976年5月1日)
西ケ原一丁目、西ヶ原町
西ケ原二丁目 西ケ原二丁目
西ケ原三丁目 西ケ原三丁目
西ケ原四丁目 西ケ原四丁目

史跡・歴史文化財

  • 西ヶ原一里塚
  • 西ヶ原貝塚
  • 二本榎保存の碑
  • 旧一本杉神明宮社地
  • 御殿前遺跡 (豊島郡衙跡)
  • 七社神社前遺跡
  • 東谷戸遺跡
  • 旧古河氏庭園
  • 旧渋沢家飛鳥山邸 晩香廬・青淵文庫
  • 飛鳥山1号墳

世帯数と人口

 
シャレール西ヶ原

2017年(平成29年)12月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]

丁目 世帯数 人口
西ケ原一丁目 3,182世帯 5,457人
西ケ原二丁目 1,411世帯 2,545人
西ケ原三丁目 2,379世帯 4,632人
西ケ原四丁目 2,669世帯 4,999人
9,641世帯 17,633人

小・中学校の学区

区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[5][6]

丁目 番地 小学校 中学校
西ケ原一丁目 全域 北区立滝野川小学校 北区立飛鳥中学校
西ケ原二丁目 1〜16番
20〜26番
31〜35番
38〜46番
その他 (北区立西ケ原小学校)
西ケ原三丁目 15〜19番
21〜24番
27〜64番
その他 北区立滝野川小学校
西ケ原四丁目 全域 北区立西ケ原小学校

交通

 
都電西ヶ原四丁目停留場

下記のうち地下鉄南北線と本郷通りは同一経路上を走行している。

鉄道

バス

西ケ原地内の本郷通り上を通過する系統として北区コミュニティバス(Kバス)王子・駒込ルートが運行されている[7]。西ケ原地域内の停留所としては「滝野川小学校」「旧古河庭園」「花と森の東京病院」「一里塚」の4つが設置されている。

道路

施設

 
旧古河庭園

かつて存在した施設

出身人物・ゆかりのある人物

出身者

居住者

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ a b c “世帯と人口”. 北区 (2017年12月10日). 2017年12月19日閲覧。
  2. ^ a b “郵便番号”. 日本郵便. 2017年12月19日閲覧。
  3. ^ “市外局番の一覧”. 総務省. 2017年12月19日閲覧。
  4. ^ 国史跡西ヶ原一里塚 北区
  5. ^ “小学校通学区域一覧”. 北区 (2017年11月7日). 2017年12月19日閲覧。
  6. ^ “中学校通学区域一覧”. 北区 (2017年4月1日). 2017年12月19日閲覧。
  7. ^ 北区コミュニティバス《愛称名「Kバス」》のご案内 北区

関連項目

外部リンク

  • 北区
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