» www.Giftbox.Az - Bir birindən gözəl hədiyyə satışı
ウィキペディアランダム
毎日カテゴリ
共有: WhatsappFacebookTwitterVK

福岡県立修猷館高等学校

福岡県立修猷館高等学校(ふくおかけんりつしゅうゆうかんこうとうがっこう、: Fukuoka Prefectural Shuyukan High School)は、福岡県福岡市早良区西新六丁目にある公立高等学校。略称「修猷館(しゅうゆうかん)」「修猷(しゅうゆう)」。

福岡県立修猷館高等学校
校舎南門側
北緯33度35分02秒 東経130度21分24秒 / 北緯33.58389度 東経130.35667度 / 33.58389; 130.35667座標: 北緯33度35分02秒 東経130度21分24秒 / 北緯33.58389度 東経130.35667度 / 33.58389; 130.35667
過去の名称 東学問稽古所修猷館
福岡県立英語専修修猷館
福岡県立尋常中学修猷館
福岡県中学修猷館
福岡県立中学修猷館
福岡県立高等学校修猷館
国公私立の別 公立学校
設置者  福岡県
学区 福岡県第6学区[1](旧第7学区)
設立年月日 藩校
1784年
福岡県立英語専修修猷館
1885年
創立記念日 5月30日
共学・別学 男女共学
課程 全日制課程
単位制・学年制 学年制
設置学科 普通科
学期 2学期制
学校コード D140213000164
高校コード 40142A
所在地 814-8510
外部リンク 公式ウェブサイト
(ウィキポータル 教育)
ウィキプロジェクト 学校
(テンプレートを表示)

1784年天明4年)開館の福岡藩藩校甘棠館西学問稽古所)、同修猷館東学問稽古所)に起源を持つ伝統校。

概要

組織

かつては定時制通信制も存在した[2]が、現在は全日制普通科のみ。募集定員は11クラス440名。教室設備の都合上、3年に一度は定員を10クラス400名とし、全校で32クラス計1280名の生徒が通う。

2年次から文系・理系のクラスに分かれる。文系・理系普通クラスのほかに、文系英数クラス・理系英数クラス(通称英数)・医学部進学クラス(通称医進)が設置されている。文系英数クラスには東大京大一橋大を、理系英数クラスには東大・京大を志望する生徒が在籍している。

かつては補習科(福岡県立高校におかれた既卒生のためのクラス)を前身とする予備校、修猷学館が存在し、他校卒生も入学することができた。学校の裏手にある西南学院大学に隣接し、教員や模試も高校と共通であったため、「修猷は四年制高校」とも揶揄された。九大をはじめ国立大学医学部へ卒業生を多数輩出したが1995年に閉校となり、跡地は西南学院大学により図書館の敷地の一部として買収された。

校名

修猷館の名は『尚書(書経)』「微子之命」の章句「踐脩厥猷(せんしゅうけつゆう)」から取られた[3]。「微子之命」はの黄金時代を築いたとされる成王(在位 紀元前1042年-1021年)がの王族である微子啓に殷王室の後継者となることを命じた文章である。「踐脩厥猷」は「厥(そ)の猷(みち)を踐(ふ)み脩(おさ)む」と書き下し、「その湯王の偉大な道を実践し修める」ということを意味する[4]。典拠となった一篇は以下の通り。

嗚呼 乃祖成湯 克斉聖広淵 皇天眷佑 誕受厥命 撫民以寛 除其邪虐 功加于時 徳垂後裔 爾惟踐脩厥猷 旧有令聞 — 『尚書』微子之命
書き下し文:嗚呼、乃(なんぢ)の祖成湯、克(よ)く斉聖広淵(せいせいこうえん)なり。皇天眷佑(こうてんけんゆう)し、誕(おおい)に厥の命を受く。民を撫するに寛を以てし、其の邪虐を除く。功時に加はり、徳後裔(こうえい)に垂る。爾(なんぢ) 惟(こ)れ厥の猷を踐み脩め、旧(ひさ)しく令聞あり。
現代語訳:ああ、汝の祖である湯王は慎み深く賢明で度量は広く物事に通じていた。そこで大いなる天はそれを助け、(成王は)天命を受けた。民を寛大な政治によって治め、(桀の)悪虐を除いた。功業は時にいや増し徳は後世の子孫にまで及んだ。汝はその成王の偉大な道を実践し修めており、久しく立派な評判がある。

藩校が廃藩置県で閉鎖された後、県立中学として再興されようとした際に、文部大臣から「旧藩校時代の校名は不適切」との理由で校名の変更を迫られたが、旧藩士はこれに猛反発し[5]、旧福岡藩主黒田長溥が「学校経費は全て黒田家が出すから館名を残せ」と決意したことにより館名は守られた[6]。実際に学校の財政は1893年まで黒田家が全額負担しており、黒田家の援助から離れて完全に県費負担となるのは1900年のことである[6]

さらに、学制改革に伴い、県立高等学校として再編されようとした際には、GHQから「修猷館」という名が封建的であるとして改名を示唆されたが、修猷館OBの粘り強い努力によって館名は守られた(修猷館の南門(2008年までの正門)の門柱にある「福岡縣立修猷館髙等學校」の文字は緒方竹虎の揮毫によるものであり、現正門にも継承されている)。

このように、藩校設立から現在に至るまで幾度となく改名の危機にさらされながらも、230年もの歴史の中で一貫して校名に「修猷館」を掲げている。

また、生徒を「館生」、校長を「館長」、校歌を「館歌」、校旗を「館旗」と称するなど、「館」にちなんだ呼称が広く浸透している。

校風

自由な校風で知られ、校則などを定めず、生徒に学校運営を大きく委ねる自治が認められている。学校の定めた校訓などはないものの、「質朴剛健」「不羈独立」「自由闊達」といった言葉が気風として現在まで連綿と受け継がれている[5]。修猷館をもじった「Sure, you can!」という言葉もよく用いられる。

徽章

 
六光星


六芒星の形をした徽章は「六光星(ろっこうせい)」と呼ばれている。1894年(明治27年)12月、当時の館長隈本有尚によって、朱舜水の「楠公賛」の冒頭の句「日月麗乎天」をもとに制定された[4]。教室棟生徒昇降口(南棟側)の傍の柱には六光星の由来が記された石板がはめ込まれている。内容は以下の通り。

六光星の由来
伝統に輝く六光星の徽章は明治二十八年、日清戦争直後の興隆する国運を背景に制定された。その由来は朱舜水の「楠公賛」の冒頭の句「日月麗乎天」によるものであって、月日と輝きを同じくする星の光に将来を担う若き青年の希望を託したものである。
なおこの星は、北極星をかたどったものであり、永久にゆるがぬ人生の指針をこの星に仰ぐという意味がこめられているとも言われている。
ここに全校の職員、生徒ならびに同窓生一同の拠金により、新たに徽章が鋳造されるにあたって由来を述べ、あわせて後進の諸君の健闘をうながしたいと思う。
昭和五十五年五月三十日
 
六光星の由来を記した石板

六光星は、上下逆転させた2つの正三角形を重ねた形((等辺六芒星))が正式な形であり、各頂点の内角は60°である。制定者の隈本有尚は、昭和9年に当時の館長古賀毅への書簡において六光星の由来を記しており、その中でデザインについて、「技術上(下絵製作上)にも等辺三角形を重ねるのであれば職人に於て手落あるまじく」と述べている[7]。なお、一部の古い旗や制帽では六芒星の各頂点の内角が60°より小さく、鋭くなっているものがある。このようなデザインは校内のデザインやステッカー、刊行物にもしばしば見られる。

また、明治27年には初めて制帽の徽章に六光星が用いられた[8]。(制帽のデザインとしては3代目にあたる[8]。)現在では学帽は廃止されているが、校章や学生服ボタンセーラー服の襟など、様々なところにその姿を見ることができる。

   
修猷館高校の校章(左)と学生服のボタン(右)

孔子聖像

 
孔子聖像

1784年(天明4年)2月6日に行われた藩校修猷館開校の儀式の際に掲げられた[4]狩野典信によって描かれ、開校にあたり時の家老大音伊織が藩へ差し出したものである[4]

現在でも入学式などの式典の際には掲げられる。

館旗

 
館旗

紫紺の地の中央に2本の横線と六光星が白く抜かれたデザインとなっている。館旗は1935年(昭和10年)の創立50周年に先立ち、1934年(昭和9年)年9月17日に制定された[9]。9月17日午後1時から館庭で館旗制定式が行われ、古賀毅館長の訓話ののち館旗に対して分列式を行った[5]

なお、現在資料館にて保存されている旧館旗は、福岡市麴屋町の中牟田喜兵衛から寄贈されたものである。現在は創立200周年の際に同窓会より寄贈された館旗が使用されている[9]

南棟屋上にある掲揚台には国旗と県旗、そしてこの館旗がはためく。

館歌

  (館歌)[ヘルプ/ファイル] (指揮:荒谷俊治 管弦楽:九州交響楽団

  • 館歌-修猷讃歌カンタータ
  • 1923年(大正12年)制定
  • 作詞:藤沢雄一郎(中学修猷館教諭)
  • 校閲:八波則吉
  • 再閲:武島羽衣
  • 作曲:横田三郎(中学修猷館教諭)


1916年(大正5年)中学修猷館は設立から30年を過ぎ、校歌を必要とする機運が高まった。そこで、生徒に校歌の歌詞を応募したところ、優秀作2作が入選した。しかし、当時は唱歌(現在の音楽)の授業もなく作曲まではされなかった[10]

1922年(大正11年)に県立中学校学則が改訂され、導入を先送りにしていた唱歌が授業として採用されたことで、翌1923年に旋律を持った正式な館歌が制定され、3月5日の第35回卒業式で初めて発表された。作詞・作曲は中学修猷館教諭であった藤沢雄一郎、横田三郎(横田は福岡女子専門学校教授も兼任)がそれぞれ担当した。校閲は1895年(明治28年)卒業の第五高等学校教授、八波則吉に依頼され、さらに宮内省御歌所寄人、武島羽衣が再閲を行った[10]

1922年(大正11年)7月には館歌制定を祝い、当時では大変貴重だったグランドピアノが卒業生3人より寄贈され、この年に寄宿舎の食堂を改築して建てられた講堂に設置された[10]

1978年(昭和53年)11月15日には館歌や後述の応援歌など、修猷館に伝わる歌の数々を収録した『修猷歌集』が発行された。楽譜・歌詞の検討、校正は修猷館教諭の花田嘉博、佐藤忠邦が行った。また、2012年(平成24年)には音源映像付き歌集として再編集され、毎年新入生へと送られている。

応援歌

音楽の授業も十分でなかった時代に、部活の試合など学校の名誉をかけて他校に対峙する際に口伝えで伝承されていった歌が応援歌の始まりである[11]。長い歴史の中で数々の応援歌やエールが誕生し、應援團が中心となって生徒に指導を行ったり行事で指揮を取ったりしてその伝承に努めてきた[11]。戦後、高校になってからは、大運動会において部活動紹介の後、全校生徒による全体応援が行われるようになった。そこで、主要応援歌と館歌が披露され、運動部の1年間の健闘を称え、部活動生全員にエールを送るのが伝統として定着した[11]。代表的な応援歌は以下の通り。

  (夫れ北筑)[ヘルプ/ファイル]

「北筑」は修猷館の所在する筑前国の北部を指す。この歌が作られた時代は正確には分からないが、日露戦争後であると考えられている[12]

玄南の海

  • 作詞:内海拾楼
原曲の『アムール川の流血や』は旧制第一高等学校の寮歌のひとつで、作詞は塩田環、作曲は栗林宇一とされ、1901年(明治34年)に制作された。正式名称は「第11回紀念祭東寮寮歌」だが、冒頭の歌詞の一節から取られたタイトルで知られている。
『玄南の海』を歌い終わった後は「ダッシュ ダッシュ 修猷フレー」の掛け声とともに選手を試合へと送り出す[13]

彼の群小

「彼の群小」は「やつら雑魚ども」を格調高く表現したもの。雑魚を蹴散らして深紅の優勝旗を勝ち取った、溢れんばかりの喜びを歌にしている[14]

  (輿望は重し)[ヘルプ/ファイル]

この歌には、「臥薪嘗胆の時代」と呼ばれた、1895年三国干渉から1905年の日露戦争勝利までの10年間における国民精神が反映されている[15]。衆望を一身に担う選手たちがこの歌で次回の勝利を誓った。


「夫れ北筑」で志気を高め、続けて「玄南の海」で選手たちを送り出し、試合後には選手たちの健闘を称えるために、勝った時は「彼の群小」で勝利を祝福し、負けた時は「輿望は重し」で次回の勝利を期した[11]。現在でも部活動の試合や壮行会、試合後の祝勝会などでこれらの応援歌が歌われている。

このほかにも「行く手を照らす」、「フレー フレー 修猷の健児」、「立てや修猷」など、様々な応援歌が存在する。

應援團

 
昭和50年頃の應援團

修猷館應援團は1958年(昭和33年)、執行部内に応援局として発足した[16]。このときから、それまで上級生が主導してきた館歌や応援歌の歌唱指導を應援團が行うようになった[16]。発足後は、旧制高校や大学などの様々な応援スタイルを取り入れ、独自のスタイルを整えていった[16]。代表的なものが全校生徒が拍手をして行う「エール」である。

修猷と福高

福岡県立福岡高等学校とは、その前身である旧制福岡中学が1917年に修猷館の寄宿舎の一部を借りて開校したことや、1927年の火災で福岡中学校舎が全焼した際、福中復興支援を全校で行ったこともあり特別に関係が深い。

また、武士の町・福岡の代表としての修猷館高校と、対する商人の町・博多の代表としての福岡高校という良きライバル関係を互いに受け継いでいる。ラグビー部では毎年天皇誕生日に福高定期戦を行っているほか、バスケット部、バレーボール部、剣道部も福岡高校と、現役選手およびOBを交えた定期戦を行っている。

さらに、東京修猷会の周年行事やラグビー部・野球部などの長い伝統を持つ部の周年行事には良きライバル校として福岡高校の関係者も招待することが慣行である[17]。福岡高校100周年の春には、春日公園にて記念試合を行い、両校とも雨の中全校で応援に向かった。

沿革

藩校時代

 
創建を命じた黒田斉隆

修猷館と甘棠館

修猷館が上級武士を対象に幕藩体制を支える理論重視の朱子学を講じたのに対し、甘棠館は下級武士や町人らを対象に朱子学に批判的な実践重視の(徂徠学)を講じており、前者の系譜は東学、後者の系譜は西学と呼ばれた。

1790年(寛政2年)、江戸幕府老中松平定信寛政の改革で行った寛政異学の禁による、朱子学以外の学問に対する厳しい圧迫が地方にも及び、藩の上層部は1792年(寛政4年)に亀井南冥を甘棠館館長から罷免し、長男の亀井昭陽が家督を継いだ。

しかし、1798年(寛政10年)甘棠館校舎は焼失し、遂には再興もならず閉校が決定された。西学は亀井昭陽が開いた私塾 亀井塾としてその命脈を保ち、日田の広瀬淡窓や秋月の原古処、そして博多興志塾を開いた高場乱などを輩出した。興志塾は後に玄洋社を興す頭山満箱田六輔なども輩出している。

断絶期

再興

 
初代館長 隈本有尚
 
3代館長 黒田長成
 
8代館長 小松倍一
 
9代館長 白坂栄彦
  • 1885年(明治18年)5月30日 - 福岡県令より、福岡県立英語専修修猷館 の設置が告示される。(同日を創立記念日としている。)
  • 1885年(明治18年)9月10日 - 福岡県立英語専修修猷館を開館し、開館式を行う。初代館長は隈本有尚。黒田家の寄付により藤雲館の校舎・什器一切を引き継ぐ。
  • 1887年(明治20年)3月26日 - 原因不明の出火により全焼。一時的に旧警固小学校跡に移転。
  • 1889年(明治22年)3月13日 - 福岡県立尋常中学修猷館と改称。
  • 1889年(明治22年)3月15日 - 隈本有尚館長、金子堅太郎、栗野慎一郎らの尽力により旧藩校修猷館跡である大名町堀端(現・中央区赤坂1丁目)に再建・移転。
  • 1891年(明治24年)3月24日 - 投石事件が起こる。

投石事件

修猷館の校庭から何者かによって投げられた瓦の破片が、通りを進んでいた歩兵第24連隊の隊列の兵士の小銃に当たったことに端を発し、ついには陸軍省文部省の対立にまで発展した事件。当時の尾崎臻館長が辞任、佐藤正連隊長が更迭されるに至った。佐藤連隊長は、後に陸軍少将まで昇進し、退役後は広島市長や修道中学校総理(理事長)などを務めている。

戦後

  • 1948年(昭和23年)
    • 4月1日 - 学制改革に伴い、新年度より福岡県立高等学校修猷館と改称。
    • 4月20日 - 新年度より男女共学となり、初めての男女共同入学式を実施。
  • 1949年(昭和24年)8月31日 - 福岡県立修猷館高等学校と改称。
  • 1985年(昭和60年) - 創立200周年記念事業開始( - 1987年) 同年3月26日、菁莪記念館[注釈 1])竣工。
  • 1998年平成10年)3月 - 新校舎建設事業開始。卒業式を待ち、まず最初に講堂が解体される。
  • 2000年(平成12年) - 第一期工事(教室棟)完了。
  • 2002年(平成14年)
  • 2003年(平成15年) - 第三期工事(新体育館)完了。
  • 2005年(平成17年) - 第四期工事(プール、弓道場、ヨット部艇庫)完了。
  • 2008年(平成20年) - 第五期工事(新講堂、新正門)完了。これにより10年にわたる新校舎建設事業が全て完了する。
  • 2013年(平成25年)3月18日 - 旧正門が福岡市登録文化財に登録される
  • 2019年(平成31年/令和元年)
    • 3月 - 耐震基準に適合していなかった敷地西側の煉瓦塀・東側のブロック塀が取り壊され、新たに鉄筋コンクリート造の塀が完成。
    • 4月 - 男女混合名簿を採用。菁莪記念館の大規模改修工事が完了。講堂正面の壁面に新たに六光星の徽章を取り付ける。
    • 9月10日 - グラウンドの全面人工芝化工事に着手し、西半分を占める野球コートが閉鎖される。
    • 9月30日 - レンガ造だった南門の鉄筋コンクリート造への置き換え工事が完了。(外観はそのまま)
  • 2020年(令和2年)8月 - グラウンドの全面人工芝化が完了。

歴代館長

藩校時代は「総受持(そううけもち)」[22]、再興後は「館長」[23]が正しい呼称である。

藩校時代

歴代総受持 就任年 備考
01 たけだ さだよし/竹田定良 ばいろ/梅廬 1783年(天明3年) 福岡藩の藩儒竹田家の第4代当主。
02 たけだ さだのり/竹田定矩 ふくさい/復斎 1796年(寛政8年) 福岡藩の藩儒竹田家の第5代当主。
03 たけだ さだお/竹田定夫 ごてい/梧亭 1807年(文化4年) 福岡藩の藩儒竹田家の第6代当主。
04 たけだ さだひろ/竹田定簡 しょういん/蕭韵 1840年(天保11年) 福岡藩の藩儒竹田家の第8代当主。
05 たけだ さだより/竹田定猗 けんそう/謙窓 1867年(慶應3年) 福岡藩の藩儒竹田家の第9代当主。

再興〜現在

歴代館長 就任年 備考
01 隈本有尚 1885年(明治18年) 前・東京大学理学部准助教授、東京大学予備門教諭(夏目漱石正岡子規の師)。隈本は、夏目漱石の小説「坊つちやん」に出てくる数学教師・山嵐(堀田)のモデルとされており、1897年(明治30年)には、当時旧制第五高等学校教授であった漱石が英語授業の視察で修猷館を訪れ、隈本との面会を果たしている。
02 尾崎臻 1889年(明治22年) 光雲神社宮司、玄洋社社員。
03 黒田長成 1892年(明治25年) (黒田家)13代目当主、福岡藩最後の藩主黒田長知の長男、貴族院副議長・議員、枢密顧問官議定官侯爵
04 隈本有尚 1894年(明治27年) 再任。後・長崎高等商業学校初代校長、朝鮮総督府中学校(現・ソウル高等学校)初代校長。
05 小寺甲子二 1901年(明治34年) 前・札幌農学校助教、後・福岡県立東筑中学校(現・福岡県立東筑高等学校)校長、長野県立長野中学校(現・長野県長野高等学校)校長、朝鮮総督府中学校校長。
06 西村謙三 1905年(明治38年) 前・福井県武生中学校(現・福井県立武生高等学校)初代校長、滋賀県立第一中学校(現・滋賀県立彦根東高等学校)校長、後・長崎県立長崎中学校(現・長崎県立長崎西高等学校)校長、(成美高等女学校)校長、佐賀徴古館初代館長。
07 柴崎鉄吉 1911年(明治44年) 前・岐阜県大垣中学校(現・岐阜県立大垣北高等学校)校長、京都府師範学校校長、大阪府立天王寺中学校(現・大阪府立天王寺高等学校)校長、後・朝鮮総督府中学校校長。
08 小松倍一 1913年(大正2年) 前・静岡県立掛川中学校(現・静岡県立掛川西高等学校)校長、後・旧制松江高等学校初代校長、第六高等学校校長、第四高等学校校長。
09 白坂栄彦 1913年(大正2年) 前・私立岡山実科女学校(現・就実学園)発起人(岡山県(視学官))・初代校長、後・福岡県教育会長、帝国教育会理事。
010 古賀毅 1930年(昭和5年) 前・鹿児島県立第二鹿児島中学校(現・鹿児島県立甲南高等学校)校長、後・福岡県女子専門学校(現・福岡女子大学)校長。
011 隈部以忠 1937年(昭和12年) 前・山梨県立甲府中学校(現・山梨県立甲府第一高等学校)校長、後・京都府立京都第一中学校(現・京都府立洛北高等学校・附属中学校)校長、甲南中学校・高等学校校長(新制初代)。
012 大内覚之助 1941年(昭和16年) 前・旧制福岡高等学校教授、後・久留米大学附設中学校・高等学校校長、熊本女子大学(現・熊本県立大学)文家政学部長・名誉教授。
013 井上孝太郎 1949年(昭和24年) 後・常盤高等学校校長、純真女子高等学校(現・純真高等学校)校長、純真女子短期大学(現・純真短期大学)学長、福岡県教育委員長。
014 山田茂 1958年(昭和33年)
015 重藤市之丞 1961年(昭和36年) 後・東海大学第五高等学校校長。
016 石橋茂 1968年(昭和43年)
017 樗木昇一 1971年(昭和46年)
018 佐村和春 1975年(昭和50年)
019 湊博文 1978年(昭和53年)
020 原岡鐵二 1982年(昭和57年) 後・福岡雙葉中学校・高等学校校長、東和大学附属東和高等学校・東和大学附属中学校校長。
021 亀谷陽三 1989年(平成元年)
022 吉田秀男 1990年(平成2年)
023 船津正明 1993年(平成5年) 修猷館高校出身館長。
024 前川昭治 1999年(平成11年)
025 末永照元 2002年(平成14年)
026 古田智信 2004年(平成16年) 後・久留米大学附設中学校・高等学校校長。
027 中嶋利昭 2006年(平成18年)
028 亀岡靖 2010年(平成22年)
029 中嶋利昭 2011年(平成23年) 再任。後・筑紫女学園中学校・高等学校校長。
030 奥山訓近 2012年(平成24年)
031 江口善雄 2015年(平成27年)
032 高島孝一 2018年(平成30年)
033 岡本圭吾 2021年(令和3年) 修猷館高校出身館長。
034 中神智文 2023年(令和5年) 現任。前・福岡県立朝倉高等学校教諭、前・福岡県立武蔵台高等学校校長。

修猷館200年記念事業

修猷館200年記念事業は、1981年(昭和56年)2月の幹事会で図書館の改築・菁莪記念館の建設が了承され、具体化への一歩を踏み出した[24] 。その後、記念事業委員会結成大会を経て、学校・同窓会・父母教師会・修猷協会が一体となって進められた[24]。そして、藩校設立から創立200年を経た1985年(昭和60年)に記念式典や音楽会をはじめとする様々な行事が催され、在校生や同窓生の多くが出席した。200年の歴史をまとめた『修猷館二百年史』も刊行。記念式典の様子は新聞に掲載され、西日本新聞朝日新聞読売新聞では、連載記事が組まれた[24]

 
修猷館貳百年記念碑

日程

  • 3月 - 菁莪記念館竣工。落成式挙行。
  • 5月29日
    • 13:00~13:30 - 前庭にて記念碑除幕式挙行。修猷館貳百年記念碑が除幕される。
    • 14:00~15:00 - 菁莪記念館にて慰霊祭挙行。
  • 5月30日
    • 9:00~11:00 - 講堂にて記念式典挙行。箏曲演奏や記念講話が行われる。
    • 11:10~11:20 - 前庭にて記念植樹が行われる。
    • 11:30~13:00 - 第一体育館にて祝賀会挙行。
    • 13:00~17:30 - 福岡サンパレスにて音楽会挙行。
    • 18:00~ - 福岡国際センターにて大同窓会挙行。
  • 5月30日~6月3日 - 岩田屋7階特設会場にて展覧会が催される。
  • 5月~7月 - 野球部や剣道部などで招待試合が行われる。

菁莪記念館

 
菁莪記念館

200年記念事業の大きな目玉として、菁莪記念館が建設された。1984年(昭和59年)8月に着工、翌年3月に竣工した。福岡県の後援もあり、老朽化した菁莪堂は、鉄筋コンクリート造三階建て・延べ1731.31平方メートルの菁莪記念館へと生まれ変わった。同年3月には安全祈願祭や落成式も執り行われた[24]

記念音楽会

音楽会「カンタータ・修猷讃歌―はるかなる時間の輝きのために―」は2度公演され、在校生全員が参加し、一般公開もされた。九州交響楽団と合唱団により演奏され、指揮は1948年(昭和23年)卒の荒谷俊治が務めた。そのほかにも多くの卒業生が公演に参加した。また、創立200周年を祝して新たな歌も作られた。「修猷館200年讃歌」は来嶋靖生が作詞、荒谷俊治が作曲し、新応援歌「燃えよ修猷」は来嶋靖生が作詞、佐藤忠邦が作曲したものである[24]

校内

 
管理棟1階に設置されている案内板
  • 正門・旧正門(市登録文化財)- 正門のそばにある旧正門は1900年の西新移転当初からあり、福岡市から文化財として登録されているが、現在は使用されていない。当時の構造であるレンガ塀や門柱が耐震基準に適合していなかったため、2018年冬から2019年秋にかけて新しい鉄筋コンクリート塀が建設された。
 
旧正門
  • 黒松門(自動車用)・桜門(運搬車両用) - 黒松門・桜門の名は、江戸時代からの防砂林の名残であるクロマツの保存樹や、かつて国道沿いに咲き誇った桜並木に由来している。
  • 南門(元正門)・北門 - 昭和を通じて正門であった現南門には西鉄バス修猷館前停留所が位置し、印象的なソテツのロータリーや図書館の正面入口、修猷タワーと呼ばれる教室棟の塔屋に面するなど、今も修猷の顔としての機能を担っている。なお、北門は現在閉鎖されている。
  • 修猷資料館 - 南門そばの雑木林の中にはレンガ造りの修猷資料館があり、修猷200年来の資料を数多く収蔵している。当時の同窓会長江浦重成の寄贈により1976年に竣工した。
 
修猷資料館
  • 菁莪記念館 - 創立200年を祝して建てられた菁莪記念館には、1階に視聴覚室・映写室、2階に図書室、3階に講演堂(菁莪堂)があり、授業や行事のほか、吹奏楽部や放送部の活動にも使われている。8万冊以上[25]もの蔵書を抱える図書館は読書だけでなく自習にも供される。図書館内には修猷館に関する資料や同校出身者の伝記・著作などをまとめた「修猷館コーナー」が存在する[25]。白血病に倒れた生徒の遺族がミロのヴィーナスの石膏像を寄贈し、いまも図書館に展示されている。
 
菁莪記念館
  • 管理棟 - ロの字の校舎が日本風の築庭を取り囲み、その中を竹が突き抜けるように植わっている。1階には館長室、事務室、会議室といった校務のための施設のほか、保健室もある。2階には職員室、進路指導室、相談室、国語・数学・英語それぞれの教科センターなどがあり、3階には物理・化学・生物それぞれの実験室、4階には社会科講義室や書道教室などがある。5階には和作法室や一部文化部の部室などが所在している[26]
  • 教室棟(南棟・中棟・北棟)- コの字の校舎のうち、南北棟の2階から4階までが、それぞれ3学年から1学年のHR教室となっており、南北それぞれにホールと呼ばれる自習スペースが設けられている。中棟は2階が大講義室、3階が階段教室、4階がパソコン教室となっている。教室棟5階には美術室、音楽室、被服室、調理室、家庭科講義室、LL教室がある[26]。コの字型の校舎に囲まれた芝生の広場(中庭)では全校集会などが行われる。
  • 食堂・売店 - 南棟の1階は食堂と売店になっている。食堂「Delight」では、「ピり唐揚げ丼」や「願かけうどん」、「勝つ丼」などを食べることができる。売店では「おにから」(おにぎり唐揚げのセット)などを購入する事ができ、昼休みだけでなく放課後も生徒でにぎわう。
  • 文化部棟 - 北棟の1階は文化部棟と呼ばれており、11の文化部の部室があり、文化部の活動の場となっている。
  • プール棟 - グラウンドの北側にはプール棟があり、プールが1学年の体育の授業や水泳部の活動で使われるほか、運動部の部室もある。
  • 艇庫棟・弓道場 - ヨット部の艇庫・部室、應援団室、山岳部室、弓道部室が一体になっているのが艇庫棟である。プール棟、艇庫棟、弓道場、講堂は敷地の北側にあって隣接しており、辺りを多くの部活動生が行き交う。
 
弓道場
  • 講堂 - 収納式階段状座席を備えた多目的講堂。式典や集会、公講演の際はホールとして、体育の授業や部活動の際はアリーナとして使用される。
 
講堂
  • 体育館 - 講堂とは別のスポーツ専用の施設で、1階は柔道場、剣道場、多目的ホール(卓球場)となっており、柔道部や剣道部の部室もここにある。2階はトレーニングスペースも設けたアリーナとなっている[26]
  • グラウンド・テニスコート・陸上走路 - グラウンドは西側がラグビー場、東側が野球場になっており、プール棟の横にはテニスコートがある[26]。グラウンドは2020年春に大規模な人工芝化の工事が終了し、全面人工芝となった。また、グラウンドの周囲にはタータン製の陸上走路が張り巡らされており、陸上部を中心に、様々な運動部のランニング練習の場となっている。
  • 生徒会倉庫(運営プレハブ) - 体育館横に建つ2階建てのプレハブ小屋で、大運動会・大文化祭の運営委員会の倉庫や作業場として供される。修猷館の自治精神が強く反映された建物で、入口には「生徒以外立ち入るべからず」と書かれており、教職員でさえ中に入ることはできない。
 
生徒会倉庫
  • 駐輪場 - 菁莪記念館の南側に位置し[26]、自転車通学をする生徒の自転車が並ぶ。
 
駐輪場

このほか校内にはアイザック・ニュートンのリンゴの木の子孫や太宰府天満宮の飛梅が植えられていたり、ユーカリクスの大木があったりと、街中ながら緑豊かな学校である。なお、ザクロレモンサクランボなど果樹も多く植えられている。 闘魂碑、創立記念碑、卒業紀念碑などの石碑や、「母子像」「想い」「みち」「RYU」などのアート作品が敷地内に点在しているのも修猷館の魅力の一つである。

ギャラリー

学校生活

ルール

自主自立の精神と反骨的な校風が受け継がれていることから特に校訓・校則を定めず、生徒による大幅な自治が認められている。生徒心得[27]という明文化されたルールはあるものの、校則とは呼ばれず、風紀検査も行われない。生徒手帳が配布されない代わりにカードサイズの生徒証明書が発行される。

校内での携帯電話の所持・使用は各自の裁量に任せるなど規則は緩やかであるが、私服登校やオートバイ通学は原則認められていない[27]。1985年頃まではオートバイでの通学は許可されていたが、PTAによるオートバイの三ない運動の影響によって廃止された。

制服

男子の冬服は一般的な黒色の学生服に学生ズボン。襟に校章をつける。学生服を脱いで中間服にする場合は(カッターシャツ)を着用する[27]

男子の夏服は半袖のカッターシャツに学生ズボン。シャツのポケットに校章をつける。ベルトの色や形、インナーなどは自由[27]

女子の冬服は紺色のセーラー服に紺色のジャンパースカート。襟に白い3本線の縁取りがあり、左右の角には六光星の白い刺繍が入っている。襟かポケットに校章をつける[27]

女子の夏服は白のセーラー服に紺色の吊りスカート。襟に3本線の縁取りがあり、左右の角には六光星の青い刺繍が入っている。襟かポケットに校章をつける。スカーフは冬服・夏服のどちらも紺色[27]

男女とも靴下体操着の指定はない。また、セーターカーディガンなども着用できる。

時制

2022年度より下記の時間割に変更された[28]。火曜日7限に「総合的な探求の時間」、水曜日7限に「ホームルーム活動」を行う。なお、定期考査・実力考査の実施日は、SHR開始時刻を08:40、Ⅰ限開始時刻を09:00とする[28]

時限 時間
08:10-09:00
朝読書 09:10-09:20
SHR 09:20-09:30
09:30-10:20
10:30-11:20
一昼 11:20-12:00
12:00-12:50
13:00-13:50
二昼 13:50-14:10
14:10-15:00
15:10-16:00

掃除は上記時制に組み込まれていないが、各クラスに割り振られた場所を放課後に掃除する。

2つの昼休みをそれぞれ一昼(いちひる)・二昼(にひる)と呼ぶ。生徒総会などがあるときには一昼と二昼の時間が入れ替わる。

夏季休業・冬季休業中には夏季・冬季補習がそれぞれ実施されるほか、3年次には選択科目に準じて放課後課外が実施される。なお、自習スペースとして放課後の教室、大講義室、南北棟ホール、教科センター前などが供される。

修猷二大行事

外部に広く公開される大規模な学校行事は年に2回開催される。いずれも企画立案段階から各行事における生徒運営委員会が設置され、生徒主体の運営が行われる。また、これらの行事の直前期には、授業時制が大幅に短縮されて50分授業×6限から40分授業×4限になり、午後は作業・練習の時間となる。

修猷大運動会

毎年9月上旬の日曜日に開催され、例年一般公開されている。全校生徒が赤・青・黄・白の4ブロックに分かれて競う。各競技部門と全体のそれぞれで優勝が発表される。なお、運営委員会のカラーは緑である。

競技

修猷大運動会で行われる競技には以下のようなものがある[29]

  • タンブリング - 各ブロックの男子全員で行われる組体操。各ブロックのテーマを7段の人間ピラミッド(通称7ピラ)や4段の人間円塔(通称4タワー)などの技を組み合わせて表現する。
  • 創作ダンス - 各ブロックの女子全員で行われる。ダンスの動きや構成を各ブロックが独自に考え、披露される。
  • 応援コンテスト - 通称応コン。各ブロック全員で行われるマスゲームである。応援歌に乗せて、パネルを使って様々な言葉や絵を表現する。
  • エール - エーラーと呼ばれる者が太鼓の音頭に合わせて演舞を行ったり、エールっこと呼ばれる者がチアダンスを披露したりする。
  • 騎馬戦 - 各ブロック計16騎の騎馬(1騎あたり5名で構成される)どうしがぶつかり合い、大将騎落馬を目指す。
  • 綱引き - 各ブロックの男女80名と綱の最後尾を担うアンカーマン1名で綱を引き合う。
  • 棒引き - 12本の棒を自陣に引き合う競技。
  • 大帽走 - 10人11脚で走り、縄跳びをするリレー競技。 バトンの代わりに帽子を使うことからこの名がついた。
  • 陸上α・β・γ - α・βはそれぞれ大運動会の幕開け・締め括りに行われるリレー競技。βは障害物競走である。

大運動会の入場行進の際には五輪旗が掲げられる。かつては1964年東京オリンピックにおいて国立競技場にはためいていた五輪旗の実物を使用していた。これは、アベリー・ブランデージIOC会長から同校出身の組織委員会会長の安川第五郎に寄贈され、その後安川から母校である修猷館高校へと寄贈されたものである。現在は劣化したためレプリカを使用し、実物は額に入れられ同校の資料館に展示されている。

修猷大文化祭

毎年6月上旬頃の土曜・日曜の連日に開催されていたが、2学期制への移行に伴って平成20年度からは3月中旬ごろの土曜・日曜に移行された。また、3年生は参加しない。例年一般公開されている。

内容を大別すると、各クラスが一体となって展示や劇を行うクラス企画、文化部が部活動の内容や成果を紹介したり部活動に関連した内容の展示や劇を行ったりする文化部企画、展示・バンド・歌・ダンスなど有志が中心となって行う文化祭有志企画、の3つがある。

秀逸だったクラス企画には、館長自らが選ぶ「館長賞」や、来場者からの投票で選ばれる「六光賞」が与えられる[注釈 4]

2008年度から、6月に文化部を中心とした文化祭「春のフェスト」が開催されることになったが、2009年度から「春のフェスト」は廃止され、代わりに「文化部発表会」が開催されることとなった。

年間行事

上記の二大行事や学年行事、研修旅行を除いてほぼ全ての行事運営を執行部が担っている。年間を通しての行事スケジュールは以下の通り[30]

4月

  • 入学式 - 講堂で執り行われ、孔子像や館歌の紹介がされる。
  • 部活動オリエンテーション - 1年生の入学直後の6限・7限に実施される。2週間ほどの体験入部期間の初日となる。
  • 応援歌指導 - 應援團員と応援歌指導員により、1年生に対して歌唱指導が行われる。
  • 創志研修 - 1年生の学年行事である。以前は近郊での宿泊研修だったが、自然災害の影響で平成29年度からは日帰りの自然レクリエーション、校内でのクラス討議などに変更されている。
  • 学年遠足 - 4月末に行われる、2・3年生の学年遠足である。2年生は志賀島方面、3年生は能古島へフェリーで遠足に行く。クラスや学年での団結を強める行事である。

5月

  • 創立記念行事 - 5月30日の創立記念日に合わせて様々な文化行事が1日かけて催される。午前中は政財界の要人や科学者、文化人などを招いて講演会が行われる。午後は各方面で活躍する卒業生が出前授業をする卒業生キャリアセミナーが実施される。

6月

  • 芸術鑑賞 - 6月中旬、2年生にのみ実施される。集団で地下鉄に乗り観劇に向かう。
  • 小学生ふれあい教室 - 6月中旬、近隣の小学生と保護者を招いて学校案内を行う。
  • 文化部発表会 - 6月下旬、13の文化部と有志団体の活動成果を発表する。

7月

  • 海外研修 - 7月中旬の一週間で実施される。校内から選抜された派遣団が米国西海岸・東海岸の諸都市を隔年で訪問する。同窓会組織からの手厚い補助が不可欠の行事である。また、2022年度の1月には台湾を訪れるアジア研修も実施された。
  • クラスマッチ - いわゆる球技大会である。夏休み直前に2日間行われる。大運動会に向けてクラスの団結を高めるという側面をもち、6つの競技部門とクラス総合のそれぞれで成績が発表される。

8月

  • 東京研修 - 夏季休業中の8月上旬に実施される。東京近辺への進学を考える2年生が参加する。大学や企業などを訪問する。

9月

  • 大運動会 - 前述。
  • 東北研修 - 9月末から10月初旬の秋季休業中に実施される。2011年度の修学旅行で最初に東北地方を訪れたことから、2018年度まで7年続いた。東北の復興に鑑みてここで停止となる。

10月

  • 修猷フェスト - 10月下旬から11月上旬頃に開催される。中学生に向けた学校説明会で、部活動の紹介や体験授業などを行う。土曜の午後に開催され、午前は卒業生による出前授業が行われる。
  • 研修旅行 - 10月末から11月初旬にかけて実施される、修学旅行である。学年全体で国内の同じ地方を訪れるが、その中でいくつかのコースに別れて研修を行う。
  • 文化講演会 - 各界で活躍する人物を講師として迎え、講演会が実施される。

11月

  • 菁莪祭 - 校内での図書館祭で、11月中旬の読書週間に行われる。教員による講演会などもある。

12月

  • 十里踏破遠足 - かつては十里行軍とも呼ばれた。糸島半島十里(約40km)を歩きぬく行事(強歩大会)である。毎年2月上旬ごろに開催されていたが、2008年度から12月中旬に引き上げられた。3年生が参加しない行事の一つである。
  • 課題研究発表会 - 課題研究の成果を発表し合う行事である。課題研究は、生徒自ら研究したいことについての講座を開き、それぞれの講座で1・2年生の混合グループを作り、夏季休業前から研究・発表準備が行われる。

1月

  • 予餞会 - 毎年1月31日に開催される。下級生と上級生が対面形式で学校生活や生徒個人の理想、信念を語り合う場となっている。

3月

  • 大文化祭 - 前述。
  • 卒業式

生徒会・部活動

部活動への加入率が高く、兼部をする生徒も多い。全校生徒からなる生徒会が大幅な自治と学校運営を任されており、どの団体も行事や大会に向けて日頃から盛んに活動している。

生徒会

生徒会選挙で選出されるのは下記の三役員のみで、業務のほとんどは執行部が行う。

  • 生徒会総務 - 前期・後期各1名。生徒会の代表者であり、名目上は執行部の長。
  • 生徒会議長 - 前期・後期各1名。議長団を統括し生徒総会や談話会を主催する。
  • 監査委員長 - 前期・後期各1名。各クラスの監査委員を集め生徒会三役選挙を行う。

事業部

生徒の学校生活や広報に関わる部で、学校運営の一端を担う[31]

  • 執行部 - 校内雑務・行事運営を担う。選挙ではなく届け出による入部。
  • 議長団 - 生徒会の議事録などを作成。
  • 應援團 - 学校行事や部活の試合などで活動。
  • 新聞部 - 年に5回「修猷新聞Neo」を発行。「修猷新聞Neo」はフルカラーの雑誌型新聞で、不定期に「EXTRA」も発行している。第46回全国高等学校総合文化祭出場、第26回全国高校新聞年間紙面審査優良賞受賞。

運動部

スポーツ推薦による入学もあり、ラグビー部や陸上部をはじめ多くの運動部がインターハイ出場を目指して盛んに活動している[31]

文化部

文化部活動の成績による推薦入学もあり、多くの文化部で兼部が可能である。全国高等学校総合文化祭などへの出場を目指して盛んに活動している[31]

  • ディベート部 - 第27回ディベート甲子園第3位。23大会連続23回出場。
  • 映画制作部 - 高校生のための Eiga World Cup 2021 NPO法人映画甲子園賞受賞。
  • 書道部 - 第46回全国高等学校総合文化祭東京大会特別賞受賞。
  • 放送部 - 第46回全国高等学校総合文化祭東京大会出場。
  • 華道部 - 第4回全国高校生花いけバトル準優勝。
  • 吹奏楽部 - 2022年度高文連福岡県大会優秀賞受賞。
  • 数学研究部 - 第32回日本数学オリンピック本選出場。
  • 生物研究部 - 日本生物学オリンピック2022銅賞受賞。
  • 物理部
  • 化学部
  • 茶道部
  • 演劇部
  • 美術部
  • 写真部
  • 文芸部
  • パソコン部
  • コーラス部
  • JRC部 - Junior Red Cross(青少年赤十字)の略。ボランティア活動を行う。
  • ESS - English Speaking Society の略。英語を使った様々な活動を行う。

文体総合部

校内での競技人口などの事情により部活こそ存在しないが、囲碁、将棋、空手など様々な分野で学校を代表して公式大会に出場している。第46回全国高等学校総合文化祭東京大会囲碁部門準優勝。

愛好団体

まだ部活動として認可されていないが、生徒有志が集まり、大会に出場したり、学校行事に参加したりしている団体。

  • クイズ研究会 - 2021、2022年度AQLジュニア全国大会出場。
  • 競技かるた愛好会

アクセス

最寄りの鉄道駅

最寄りのバス停

  • 西鉄バス
    • 修猷館前バス停
    • 脇山口バス停
    • 西南学院大学前バス停

最寄りの道路

高校関係者一覧

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ 本来、菁莪記念館3階のことを菁莪堂と呼ぶが、「菁莪記念館」と「菁莪堂」は混同される。
  2. ^ 昭和62年10月 故波平元彰氏により寄贈。
  3. ^ 作 今村芳展(1983年)。同年3月13日 今村義則氏により寄贈。
  4. ^ 平成30年度の第七十三回修猷大文化祭では各クラスの文化祭委員の投票で選ばれる「稽田賞」が設けられた。

出典

  1. ^ “福岡県立高等学校の通学区域に関する規則等(令和2年10月13日改正)”. 福岡県. 2023年3月2日閲覧。
  2. ^ “沿革(高等学校)”. 公式ウェブサイト. 2023年3月2日閲覧。
  3. ^ 修猷館二百年史編集委員会『修猷館二百年史』1985年5月25日、20頁。 
  4. ^ a b c d “践修厥猷・六光星・孔子像”. 公式ウェブサイト. 2023年3月2日閲覧。
  5. ^ a b c 『修猷館 SINCE 1784』修猷館同窓会、2019年。 
  6. ^ a b 青木秀『修猷山脈』西日本新聞社、1971年、4,29,30頁。 
  7. ^ 修猷館二百年史編集委員会『修猷館二百年史』1985年、111-112頁。 
  8. ^ a b 『図録 修猷館』福岡県立修猷館高等学校、2001年4月1日、5頁。 
  9. ^ a b 『図録 修猷館』福岡県立修猷館高等学校、2001年4月1日、5頁。 
  10. ^ a b c 修猷歌集編集委員会『修猷歌集』2012年、4-5頁。 
  11. ^ a b c d 修猷歌集編集委員会『修猷歌集』2012年、8-9頁。 
  12. ^ 修猷歌集編集委員会『修猷歌集』2012年、16頁。 
  13. ^ 修猷歌集編集委員会『修猷歌集』2012年、12頁。 
  14. ^ 修猷歌集編集委員会『修猷歌集』2012年、10頁。 
  15. ^ 修猷歌集編集委員会『修猷歌集』2012年、14頁。 
  16. ^ a b c 修猷歌集編集委員会『修猷歌集』2012年、45頁。 
  17. ^ 2007年の月刊現代9月号より新連載の「名門高校ライバル物語」の第1回に、「修猷館高校&福岡高校」として紹介された
  18. ^ 『福岡県教育史』福岡県教育委員会、1957年、237頁。 
  19. ^ 修猷館二百年史編集委員会『修猷館二百年史』1985年、75頁。 
  20. ^ 近藤典二『教師の誕生: 草創期の福岡県教育史』1995年8月、90頁。ISBN (978-4874151242)。 
  21. ^ “修猷館同窓会 沿革”. 2023年3月4日閲覧。
  22. ^ 『修猷館二百年史』修猷館200年記念事業委員会、1985年、31頁。 
  23. ^ 『修猷館二百年史』修猷館200年記念事業委員会、1985年、77頁。 
  24. ^ a b c d e 修猷館200年記念事業部『修猷館二百年記念事業記録』福岡県立修猷館高等学校、1985年10月30日。 
  25. ^ a b 福岡県立修猷館高等学校『学校要記』2022年4月、43頁。 
  26. ^ a b c d e 福岡県立修猷館高等学校『学校要記』2022年4月、平面図頁。 
  27. ^ a b c d e f 福岡県立修猷館高等学校『学校要記』2022年4月、63-64頁。 
  28. ^ a b 福岡県立修猷館高等学校『学校要記』2022年4月、30頁。 
  29. ^ “修猷館高校 大運動会2022”. 2023年3月5日閲覧。
  30. ^ “修猷生の一年”. 公式ウェブサイト. 2023年3月5日閲覧。
  31. ^ a b c 「修猷」編集委員会『雑誌修猷第154号』福岡県立修猷館高等学校、2023年1月26日、193-206頁。 

参考文献

  • 大塚覚『修猷館物語』 - 修猷通信、1962年(昭和37年)
  • 青木秀『修猷山脈』 - 西日本新聞社1971年(昭和46年)
  • 修猷館二百年史編集委員会『修猷館二百年史』 -修猷館200年記念事業委員会 、1985年(昭和60年)
  • 修猷館200年記念事業部『修猷館二百年記念事業記録』 - 福岡県立修猷館高等学校、1985年(昭和60年)
  • 『図録 修猷館』 - 福岡県立修猷館高等学校、2001年(平成13年)
  • 修猷歌集編集委員会『修猷歌集』- 修猷館同窓会、2012年(平成24年)
  • 『修猷館 SINCE1784』 - 修猷館同窓会、2019年(平成31年)
  • 『菁莪』 - 修猷館同窓会、2022年(令和4年)
  • 「修猷」編集委員会『雑誌修猷第154号』 - 福岡県立修猷館高等学校、2023年 (令和5年)

関連項目

外部リンク

  • 公式ウェブサイト
  • 修猷館同窓会本部
  • 東京修猷会
  • 第13回全国藩校サミット福岡大会(幹事校 修猷館 2015年10月3日)
  • 地図 - Google マップ
ウィキペディア、ウィキ、本、library、論文、読んだ、ダウンロード、自由、無料ダウンロード、mp3、video、mp4、3gp、 jpg、jpeg、gif、png、画像、音楽、歌、映画、本、ゲーム、ゲーム。