織田 長利(おだ ながとし)は、戦国時代の武将。織田信秀の十二男(十一男[1]とも)でその末子。通称は又三郎あるいは又十郎。織田信長の末弟。生母は一説では岩室殿(信秀の最後の側室)とされる。すぐ上の兄に織田長益(有楽斎)がいる。津田姓を称していたため、津田 長利(つだ ながとし)と呼ばれることもある。
生涯
兄・織田信長の命で信忠の軍団に配属し、天正2年(1574年)7月の伊勢長島一向一揆討伐に参加し、長島の海上攻撃の一員を務めた(『信長記』)[1][2][3]。
天正9年(1581年)2月、京都御馬揃えでは信長の御連枝衆として騎馬10騎を従えて行進した[1][2][3]。
天正10年(1582年)6月2日、明智光秀が本能寺の変を起こして兄・信長を攻めた時、長利は信忠と共に二条新御所で明智軍に攻められ、戦死した[3][1][2]。
家族
長利は子に利昌(宗助)と甥の信雄の側室になった娘がいる[1][2]。利昌は信雄の下にあり、出家して随安と名乗った(『系図纂要』)[1]。娘が信雄の側室になったため、未亡人となった長利の正室は信雄より庇護を受けて82貫文を与えられた[1][2][注釈 1]。
脚注
注釈
- ^ 『(織田信雄分限帳)』には「八拾弐貫文、北一の郷、又十郎殿御女房衆」とある。
出典
参考文献
- 史料
- 『信長記』
- 『系図纂要』
- 『織田信雄分限帳』