滋野井家(しげのいけ)は、藤原北家閑院流三条家支流にあたる公家・華族だった家[1]。公家としての家格は羽林家[1]、華族としての家格は伯爵家(後に爵位返上)[2]。
家の歴史
封建時代
平安時代末期、藤原公教(三条公教)の次男の滋野井実国から始まる[1]。文和元年(1352年)に当主の(滋野井実勝)が八幡の戦いで横死して断絶するが、15世紀の中頃に阿野家の庶流(実益)が再興した。永禄8年(1565年)(滋野井公古)が死去して再度断絶するが、17世紀に入って五辻家より季吉が入り再興した。なお江戸時代の当主公麗は『滋野井家不断絶之証』を著して、実勝は当家の人ではないため断絶はしていないと述べるが、季吉のことには触れていない。
江戸時代には、前述の公麗、その父の実全、祖父の公澄と3代にわたって有職故実の大家を輩出する。江戸時代の家禄は180石[1][注釈 1]。家業は神楽[1]。
幕末に(実在)・公寿は尊皇攘夷・討幕派の公卿として活躍した[3][4]。
明治以降
明治維新後、公寿は佐渡裁判所総督、(佐渡鎮撫使)、甲府県知事などを歴任した[3]。
明治2年(1869年)6月17日の行政官達で公家と大名家が統合されて華族制度が誕生すると滋野井家も公家として華族に列した[5][6]。明治17年(1884年)7月7日の華族令の施行で華族が五爵制になると大納言宣任の例多き旧堂上家[注釈 2]として公寿が伯爵位を授けられた[2]。
系譜
滋野井家系図
凡例 1) 実線は実子、点線(縦)は養子、点線(横)は婚姻関係。 2) 構成の都合で出生順より組み替え。 3) 系図の出典元は(日本の苗字7000傑)、(公卿類別譜)。
脚注
参考文献
- 浅見雅男『華族誕生 名誉と体面の明治』リブロポート、1994年(平成6年)。
- 今江広道 著「滋野井家」、国史大辞典編集委員会 編『国史大辞典』 第6、吉川弘文館、1985年11月。ISBN (4642005064)。 NCID BN00117433。(全国書誌番号):(86007857)。
- 大蔵省印刷局「国立国会図書館デジタルコレクション 彙報 / 華族失爵伯爵滋野井實」『官報』第152号、1913年2月3日、28頁。
- 太田亮「国立国会図書館デジタルコレクション 滋野井 シゲノイ」『姓氏家系大辞典』 第2、上田萬年、三上参次監修、姓氏家系大辞典刊行会、1934年、2742頁。 NCID BN05000207。OCLC 673726070。(全国書誌番号):(47004572) 。
- 小田部雄次『華族 近代日本貴族の虚像と実像』中央公論新社〈中公新書1836〉、2006年(平成18年)。ISBN (978-4121018366)。
- 華族大鑑刊行会『華族大鑑』日本図書センター〈日本人物誌叢書7〉、1990年(平成2年)。ISBN (978-4820540342)。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会 編『平成新修旧華族家系大成』 上、霞会館、1996年。ISBN (4642036709)。 NCID BN15217497。
- 系譜参考文献
- “”. 日本の苗字7000傑. 2017年6月27日閲覧。 (日本語)
- “”. 公卿類別譜. Kugyoruibetsufu. 2017年6月27日閲覧。 (日本語)