経歴
近衛権中将・(滋野井実在)の長男として生まれた。安政3年2月(1856年)に元服し侍従となる[2]。
文久3年6月(1863年)西四辻公業と(後醍醐天皇陵)で攘夷祈願を行い差控となる。慶応3年4月(1867年)英国公使一行の伏見通過について、父・実在、鷲尾隆聚ら20数名と朝廷に警護の対策を取るよう強く進言し差控となる[2][3]。慶応4年1月(1868年)綾小路俊実と共に赤報隊の盟主に擁立されたが、活動中の金穀強要などを咎められ召喚令が出され帰京した[3]。
王政復古後、明治元年4月(1868年)、佐渡裁判所総督に就任[2]。佐渡鎮撫使を経て、同年10月、甲斐府知事となる。明治2年7月(1869年)、甲斐府が甲府県と改称され甲府県知事兼甲府城守となる。明治3年(1870年)9月、水害による凶作の独断による救恤処置が問題とされて謹慎となり、翌月知事を辞職[2][3]。
その後、桂宮祗候などを務めた[2]。父の死去により1878年4月30日、滋野井家当主を継承[1]。1884年7月7日、伯爵を叙爵[4]。