この記事は(検証可能)な(参考文献や出典)が全く示されていないか、不十分です。(2022年1月) |
滋野井 公澄(しげのい きんすみ)は、江戸時代中期の公卿。(高倉永敦)の末子。初名は兼成。号は五松軒。法号は良覚。子に滋野井実全・正親町三条実彦・娘((堀河冬輔)室)・直子(京極宮文仁親王室)。
経歴
天和元年(1681年)に(滋野井実光)の養子となる。貞享3年(1686年)に元服して従五位上侍従に叙せられる。貞享4年12月3日に養父が45歳で死去して家督を継ぐ。元禄元年(1688年)に公澄に改名。宝永元年(1704年)に参議に任じられ、翌年に従三位に叙せられる。同6年に霊元上皇の院評定衆に任じられて享保9年(1724年)まで務める。享保5年6月2日に権大納言に任じられる。享保9年(1724年)正二位に昇進する。享保16年(1731年)に出家するが、4年後に嫡男の実全が急逝したためにその遺児である公麗の養育にあたった。
(吉見和幸)のもとで有職故実を学び、霊元院政のもとで(東園基量)・(平松時方)・野宮定基とともに「有職四天王」とも称された。また元禄3年(1690年)から享保6年の日記『公澄卿記』26巻や『羽林類葉抄』、『松蔭拾葉』、『簾中装束抄』などの著書がある。