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松平 喜徳(まつだいら のぶのり[1][注釈 1]、安政2年(1855年)10月22日 - 明治24年(1891年)6月3日)は、幕末から明治期にかけての大名、華族(子爵)[2]。会津松平家10代当主[注釈 2]、守山松平家9代当主。字は子礼[2]。
生涯
常陸国水戸藩主・徳川斉昭の十九男として誕生[3][1][2]。幼名は余九麿、初名は昭則(あきのり)[2]。のち15代将軍となった実兄の徳川慶喜から偏諱を与えられて喜徳に改名する。
慶応3年(1867年)3月、陸奥国会津藩9代藩主・松平容保の養子となる。容保は当初、斉昭の十八男・徳川昭武(清水家、のち水戸家を継ぐ)を養子に望んでいた。同年6月、従四位下侍従兼若狭守に叙任される。慶応4年(1868年)2月、容保の隠居により家督を相続した[注釈 2]。
同年9月22日、戊辰戦争で1ヶ月間の籠城戦後、新政府軍に降伏[4]。降伏式は、「甲賀町通」で行われ、東側に新政府軍、西側に容保・喜徳父子が座り、執り行われたとされている[4]。同年11月、新政府の命令により、養父・容保と共に上京した。同年12月7日(1869年1月19日)、領地を没収されて、容保と共に永禁固を命じられる。なお、明治2年(1869年)11月、会津松平家は容保の長男・松平容大による家名存続が許され、陸奥(斗南藩)3万石に移封された[注釈 2]。明治3年(1870年)3月、容保と共に斗南藩預りとなり、同年8月に東京へ移る。
明治6年(1873年)8月11日、斉昭の二十二男である前松川藩知事・松平頼之が死去した。8月22日に喜徳は容保との養子縁組を解消し、頼之の跡を継いだ。同年10月10日、従五位に叙せられる。
明治9年(1876年)10月12日、フランス留学のため、横浜港を出発し、明治11年(1878年)6月に帰国した。明治13年(1880年)5月、従四位に昇進する。明治17年(1884年)7月8日、華族令の公布に伴い子爵に叙せられる[2]。
栄典
系譜
父母
兄弟、姉妹
同母兄弟姉妹は以下の通り。
養子
登場作品
- テレビドラマ
- 燃ゆる白虎隊(1965年、TBS)演;(青山克巳)
- 白虎隊〜敗れざる者たち(2013年、テレビ東京) 演;栗原吾郎
- 八重の桜(2013年、NHK大河ドラマ) 演;嶋田龍
脚注
注釈
- ^ よみは『平成新修旧華族家系大成』による。慶喜に「よしひさ」と呼ぶ説が存在していることから、喜徳自身にも「のぶのり」ではなく、「ひさのり」と呼ぶという説がある[要出典]。
- ^ a b c 『平成新修旧華族家系大成』松平(会津)子爵家の項(下巻p.586)では、容保の代で断絶した家名を容大が再興したという記述になっている。喜徳は傍系とされ、当主としては記載されていない。
出典
参考文献
外部リンク
- 『(松平喜徳)』 - コトバンク