谷中(やなか)は、東京都台東区の地名で、旧下谷区に当たる(下谷地域)内である。現行行政地名は谷中一丁目から谷中七丁目。郵便番号は110-0001[2]。
概要
谷中は「寺町」と呼ばれるように、仏教の寺院が集中している古い下町である。上野戦争で罹災したものの、関東大震災や第二次世界大戦では被害が少なく、旧来の古い町並みがあり仏教関係の建造物が多数残されている。
早口言葉「なかなか鳴かない谷中のかなかな」に関しても有名。
地理
下谷地域の北西に位置し、文京区(千駄木・根津)・荒川区(西日暮里・東日暮里)との区境に当たる。
地価
住宅地の地価は、2017年(平成29年)の公示地価によれば、谷中2-8-14の地点で70万2000円/m2となっている[4]。
歴史
- 元来は山林地で、百姓地が点在する場所であった。
- 江戸時代、上野に寛永寺が建てられると谷中にもその子院が次々と建てられる。また、幕府の政策により慶安年間(1648年 - 1651年)に神田付近から多くの寺院が移転し、明暦の大火(1657年)の後に焼失した寺院が移転してくる。寺の増加に伴い参詣客も増えると徐々に町屋も形成され、江戸の庶民の行楽地として発展する。
- 元禄期に崖下の百姓地(主に谷中生姜を生産)を谷中本村(現在の荒川区東日暮里五・六丁目と西日暮里二丁目の各一部)として分離。崖上の寺町が谷中村となるが次第に市街地化され、一部は町地化されて谷中町、谷中三崎町(読みは「やなかさんさきちょう」)となる。この名残として、現在も荒川区西日暮里二丁目に所在する諏方神社の氏子地域となっている。
- 政府軍と彰義隊による上野戦争(1868年)で多くの寺院が焼失する。1869年(明治2年)から1872年(明治5年)にかけて谷中清水町・谷中坂町・谷中初音町一~四丁目・谷中茶屋町・谷中真島町・谷中上三崎南町・谷中上三崎北町の各町が起立。1878年(明治11年)11月2日、これら谷中各町は上野とともに下谷区に編入される。この時点ではまだ谷中村も残存していたが、1889年(明治22年)5月1日東京市誕生と共に下谷区に編入され(この時点でも下谷区内に「谷中村」が残存)、1891年(明治24年)に谷中村を谷中各町に編入し、このとき谷中天王寺町も成立した。
- 1947年(昭和22年)に23区制に伴い台東区となる。1966年(昭和41年)、住居表示実施に伴い谷中各町が整理統合されて現行の谷中となる(谷中清水町は池之端三・四丁目に、谷中天王寺町の南端一部が上野桜木二丁目にそれぞれ編入)。
地名の由来
名前の由来は、本郷台と上野台の谷間に位置することから、名付けられたといわれる。
世帯数と人口
小・中学校の学区
区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[5]。
施設
- 台東区立谷中小学校
- 台東区立台桜幼稚園
観光
交通
画像一覧
谷中の住民の台所・谷中銀座商店街
谷中霊園
澤の屋旅館
臨江寺
瑞松院
延寿寺
妙行寺
躰仙院
浄延院
瑞輪寺
蓮華寺
全生庵
大行寺
感応寺
自性院
大泉寺
長久院
天王寺
関連項目
脚注
関連文献
- 「谷中本村/谷中町在方分」『新編武蔵風土記稿』 巻ノ15豊島郡ノ7、内務省地理局、1884年6月。(NDLJP):763977/77。
外部リンク
- 台東区
- 谷中銀座商店街振興組合