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杜甫

杜 甫(と ほ、簡体字: 杜 甫; 拼音: Dù Fǔ; ウェード式: Tu⁴ Fu³712年先天元年) - 770年大暦5年)は、中国盛唐詩人子美少陵野老、別号は杜陵野老、または杜陵布衣。「杜少陵」「杜工部(検校工部員外郎)」「杜拾遺(左拾遺)」とも呼ばれる。杜預の末裔。律詩の表現を大成させた。幼少の頃から詩文の才能があり、李白と並ぶ中国文学史上最高の詩人として、李白の「詩仙」に対して、「詩聖」[1]と呼ばれている。また(晩唐期)の詩人の杜牧の「小杜」に対し「老杜」「大杜」と呼ばれることもある。

杜甫
杜甫・『晩笑堂竹荘畫傳』より
プロフィール
出生: 712年先天元年)
死去: 770年大暦5年)
出身地: 河南府鞏県(現在の河南省鄭州市鞏義市
職業: 詩人文学家
籍貫地 京兆郡杜陵県
各種表記
繁体字 姓:
名:
: 子美
: 少陵野老
拼音 姓: Dù
名: Fǔ
字: Zǐměi
号: Shàolíng Yělǎo
ラテン字 Tu⁴ Fu³
和名表記: と ほ
発音転記: ドゥー・フー(トゥー・フー)
英語名 Du Fu
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成都杜甫草堂
杜甫
杜甫の像

略歴

  • 712年先天元年) : 河南府鞏県(現在の河南省鄭州市鞏義市)で生まれる。父親は(杜閑)、母親は崔氏。兄弟は四人。襄州襄陽県(現在の湖北省襄陽市襄州区)の人。杜甫の家は代々地方官であった[2]本貫京兆郡杜陵県三国時代から西晋の武将であり、「破竹の勢い」で有名な杜預は先祖にあたる。その曾孫杜遜に至って襄陽にうつり、その後、杜依芸に至って、鞏県の県令となり、河南府鞏県に遷った[2]。この杜依芸の子・杜審言は「文章四友」(唐代の杜審言・李嶠・崔融・蘇味道のこと。「文章四友」という言葉は唐書の杜審言伝に見える。)の一人に数えられた初唐の宮廷詩人である。この杜審言の子の杜閑が奉天の県令となり、その子が杜甫である。

杜甫はその遠祖の地によってしばしば「京兆の杜甫」と名のるが、同時に襄陽に分かれた支派の後裔として「襄陽の人」と呼ばれることも多い。一見矛盾する来歴は以上の経緯による。

また杜甫の叔父(杜審言の次男)の杜並は、杜審言が仇人司馬季重らのため、無実の罪を被せられて、獄につながれ、しかも事にかこつけて殺されているのを憤り、まだ13歳の少年であったが、仇人季重を刺殺し、その場で自分も殺された。この事件は当時世間を感動させたことであったが、杜甫の血液にはこうした剛直な精神も流れていたと見てもよいであろう。杜甫の母は、清河崔氏の出身で、杜甫の幼少のときに亡くなった。ただこの母方の親戚はかなり大きな一族であった[2]

  • 715年開元4年) : 許州郾城県で公孫大娘が剣器渾脱を舞うを見る(或はこれを開元5年とする)。
  • 718年(開元7年) : 初めて詩文を作成する。
  • 720年(開元9年) : 初めて大字を習う。
  • 725年(開元14年) : 故郷に隣接する洛陽文人の仲間入りを果たす[2]
  • 730年(開元18年) : 晋に遊び、郇瑕(現在の山西省運城市臨猗県)に至る。
  • 731年 - 734年(開元19年 - 22年) : ・越に滞在する。
  • 735年(開元23年) : 呉・越から洛陽に帰って来て、科挙進士を受験したが及第せず。
  • 736年 - 740年(開元24年 - 28年) : に遊び、蘇源明と交わる。杜甫がこの地方に遊んだのは、当時父の杜閑が兗州の司馬の官にあったので、その父のもとを尋ねるのが1つの目的であった[2]
  • 737年(開元22年) : 洛陽に帰り、陸渾荘を造りそこに滞在する。ここには遠祖杜預の墓や、祖父杜審言の墓があった[2]
  • 741年(開元29年) : 夫人楊氏と結婚する。楊氏は司農少卿楊怡の娘。この妻は彼の生涯の伴侶であり、一生を共にした。
  • 742年天宝元年) : 姑母の万年県君が洛陽で亡くなる。杜甫は幼時に母を亡くしたため、この姑母のもとで養われたが、ある時姑母の子と同時に病気にかかった。姑母は自分の子よりも、杜甫の看護にいっそう力をつくし、そのお陰で杜甫は命が救われた。しかし姑母の子は死んでしまった。杜甫は後になってこのことを知り、深く姑母の恩に感じて、生涯忘れなかった。杜甫はそのために墓誌銘をつくった[2]
  • 744年(天宝3載) : 5月祖母の范陽太君(祖父杜審言の継室盧氏)が陳留で亡くなった。8月、偃師に帰葬して、墓誌銘をつくった[2]。夏には、洛陽で李白と会う。秋には李白高適と共に梁宋(現在の河南省商丘市一帯)に遊ぶ。共に酒を飲み、詩を賦して、意気相投じて愉快な日を送った[2]
  • 745年(天宝4載) : 斉に滞在する。そこで再び李白と会い、友好を結ぶ。李白と共に范十(十は排行)という人の隠居を訪れた。しかしこれが李白との最後の再会になった。杜甫は洛陽へと帰った[2]
  • 746年(天宝5載) : 洛陽から長安に至る。その後10年をこの土地で過ごすことになる。杜甫はこの首都において、一官半職を求めて得られず、衣食に追われることになる。
  • 747年(天宝6載) : 長安で一芸に通じる者のための試験が行われたが、落第。この試験では杜甫の他に高適や元結らも応じたが、もとより文学の士の政治批判を恐れた宰相李林甫は、尚書省に命じて1人も及第させなかった。杜甫はやむことを得ず当時の貴顕の門に出入することになる[2]
  • 750年(天宝9載) : 長男の杜宗文(750?-)が生まれる。
  • 751年(天宝10載) : 玄宗に「三大礼賦」を奉献する。玄宗がこれを賞し集賢院に待制される。これ以降曲江の南、少陵の北、下杜城の東、杜陵の西の住居を持ったようである。このころ彼の妻子も洛陽から長安に移ってきたかと思われる[2]
  • 752年(天宝11載) : 封西嶽賦をたてまつる[2]。内容としては「もはや自らの仕進は望んでいないが、ひとたびでいいので意を留めてほしい」という内容であった。
  • 753年(天宝12載) : 次男の杜宗武(753?-)が生まれる。一説に翌年の秋。このころまでに娘は3人いたとされる。
  • 754年(天宝13載) : この頃、仕官のつてを求めて、高官たちにしばしば詩を献ずる。長雨が降り続いて妻子を奉先県の田舎に一時あずけることになる。
  • 755年(天宝14載) : かねてから左丞相韋見素にたてまつった詩が効果をあらわしたものか、にわかに河西の尉に任じられるが断り、10月右衛率府兵曹参軍に任ぜられる[2]。実際に職に就くのは翌年春頃か[2]
  • 756年至徳元載) : 5月家族を奉先より白水県に移す。 安禄山の攻撃により長安が陥落する。霊武(現在の寧夏回族自治区銀川市霊武市)で粛宗が即位したとの情報を聞くと、8月に家族を鄜州に残して、北方延州に向かい、芦子関を通って、長安脱出を試みるが、反乱軍である胡人に捕まり幽閉される。もっとも無名の杜甫を、賊は別に重んじることもなく、長安に連れてこられただけで、別に捕虜としていましめられることもなくただ長安城の中に置かれた[2]
  • 757年(至徳2載) : 4月金光門から脱出して、間道から鳳翔に奔る。5月粛宗から左拾遺の位を授かる[2]
  • 758年乾元元年) : 房琯を弁護したことにより粛宗の怒りを買い、華州(現在の陝西省渭南市)の司功参軍に左遷される。
  • 759年(乾元2年) : 関中一帯が飢饉に見舞われたことにより、官を捨てて、家族をつれて秦州(現在の甘粛省天水市)に赴く。さらに同谷(現在の甘粛省隴南市成県)に移るが、ドングリ山芋などを食いつないで飢えを凌ぐ。蜀道の険を越えて12月成都に赴く。ひとまず城西の寺の僧復空のもとに身を落ち着けた。
  • 760年上元元年) : 成都で浣花渓のほとりに草堂(杜甫草堂)を建てる。
  • 762年宝応元年) : 夏まで草堂に在り。李白死す(62歳)。
  • 764年広徳2年) : 春に妻子をつれて閬州にゆき、そこから舟に乗って嘉陵江をくだり、渝州に出ようとする。そのとき厳武が再び成都尹兼剣南東西川節度使となって成都にかえってくることを知り、1年9カ月ぶりに草堂へと戻る。近所の人々は喜んで杜甫を歓迎したようである[2]
  • 765年永泰元年) : 正月に幕府の職務を解くことが許されると、草堂へと戻る。4月、厳武が急逝する。5月、妻子をひきつれて、舟に乗って江をくだり、漂流のたびにのぼった[2]
  • 766年大暦元年) : 夔州(現在の重慶市の北東部)へ移る。もっとも彼はこの地において、たびたびその住居をかえている。夔州に着いた当初は、山中の「客堂」に寓居した。この「客堂」のようすは、彼の詩に詳しく述べられている。山の傾斜に木を組んで架けた、鳥の巣のような小屋であった。その家のそばに、彼は鶏を飼った。そしてこの地の人の例に習って、長くつないだ竹の筒で、山中の泉から水を引いた。こうした仕事は、この地でやとった蛮族の下男の阿段がよくやってくれたようである。秋、西閣に移る。ここはそれまでの「客堂」にくらべればよほどましで、江に臨み、朱艦をめぐらした可成りな住居であった。彼はここにいて、ほど近い白帝城や、西郊の武侯廟、江中にある八陣図、城東の先主廟、そのほか夔州の名勝を訪ねては詩を作った。秋がすぎて、柏茂琳(はくもりん)が夔州都督となって以来、杜甫はこの人のたすけを得ることが多かった。それに関する詩が数詩残されている[2]
  • 768年(大暦3年) : 正月に杜甫の一家は、白帝城の下から船を出し、江陵に向かった。舟中、40韻の長変を作って、沿岸の風景や遺跡をうたい、自分の生涯を詠じた。江陵に着いたときは雨で、その中をとりあえず、荊南の行軍司馬をしている、従弟杜位の家に入った。江陵は、更に江を下って東呉のほうに出るのにも、あるいは北に向かって襄陽を経て長安洛陽の方に帰るにも、交通の要路であった。しかし杜甫が江陵に来たころ、北方は相変わらず荒れていた。結局秋の末になって、また舟にのって江陵を去り、一時、公安に寓した。歳の晩近く、さらに岳州にくだる[2]
  • 770年(大暦5年) : 4月、潭州から乱を避けて、湘江を南にさかのぼり、衡州に入った杜甫は、舟中炎熱に苦しんだ。そこから更に南下して、郴州に行って、母方の叔母が録事参軍をしているのにたよろうとしたが、途中、耒陽まで来たとき、洪水のためにやむを得ず方田駅に停泊し、半旬(5日)の間食べ物が無かった。ここで、杜甫が、この耒陽の県令にもらった肉と白酒を食べすぎて、その夜死んだという伝説が生まれた。秋から冬にかけて、湘江を漂うていたらしいが、この間のことは詩にもないし、よく分からない。そしてその冬、舟ではあかざの豆粥をすすり、こわれかけた黒板の脇息を、縄で幾重にも縛ってそれぞれ暗雲惨とした歳の暮であることを、陰鬱な調子でうたっているが、ついにそれが絶筆となった[2]。襄陽を通り洛陽を経由して長安に戻ろうとしたが、湘江の舟の中で客死した。死因としては、頂き物の牛肉を食べ過ぎて亡くなったとする逸話が有名だが、この逸話は後世の創作であるとする意見も多く、正確な死因は不明である。

『新唐書「杜甫傳」』における略歴

『新唐書「杜甫傳」』[3]によれば、

[原文]

甫字子美、少貧、自振、客吳越齊趙間。李邕奇其材、先往見。舉進士中第、困長安。天寶十三載、玄宗朝獻太清宮、饗廟及郊、甫奏賦三篇。帝奇、使待制集賢院、命宰相試文章、擢河西尉、拜、改右衛率府冑曹參軍。數上賦頌、因高稱道、且言、先臣恕預來、承儒守官十一世、迨審言、文章顯中宗時。臣賴緒業、七歲屬辭、且四十年、然衣蓋體、常寄食人、竊恐轉死溝壑、伏惟天子哀憐。若令執先臣故事、拔泥塗久辱、則臣述作。雖足鼓吹六經、至沈鬱頓挫、隨時敏給、揚雄枚皋可企及也。有臣如此、陛下其忍棄。會祿山亂、天子入蜀、甫避走三川。肅宗立、鄜州羸服欲奔行在、為賊所得。至德二年、亡走鳳翔上謁、拜右拾遺。與房琯為布衣交、琯時敗陳濤斜、又客董廷蘭、罷宰相。甫上疏言、罪細、宜免大臣。帝怒、詔三司雑問。宰相張鎬曰、甫若抵罪、絕言者路。帝、乃解。甫謝且稱、琯宰相子、少樹立為醇儒、有大臣體。時論許琯才堪公輔、陛下果委而相。觀其深念主憂、義形色。然性失于簡、酷嗜鼓琴。廷蘭托琯門下、貧疾昏老、依倚為非。琯愛惜人情、一至玷汙。臣歎其功名未就、志氣挫衄。覬陛下棄細錄大。所冒死稱述。涉近訐激、違忤聖心、陛下赦臣百死、再賜骸骨、天下幸、非臣獨蒙。然帝是甚省錄。時所在寇奪、甫家寓鄜、彌年艱窶、孺弱至餓死。因許甫往省視。從還京師、出為華州司功參軍。關輔饑、輒棄官去、客秦州。負薪采橡栗給。流落劍南、結廬成都西郭。召補京兆功曹參軍、至。會嚴武節度劍南東西川、往依焉。武再帥劍南、表為參謀檢校工部員外郎。武世舊、待甫甚善、親入其家。甫見、或時巾。而性褊躁傲誕、嘗醉登武床、瞪視曰、嚴挺之、乃有此兒。武亦暴猛、外若為忤、中銜之。一日、殺甫及梓州刺史章彝、集吏門。武將出、冠鉤簾三。左右白其母、奔救得止。獨殺彝。武卒、崔旰等亂、甫往來梓夔間。大曆中、出瞿唐、下江陵、泝沅溯、以登衡山。因客耒陽、游岳祠、大水遽至、涉旬得食。縣令具舟迎、乃得還。令嘗饋牛炙白酒、大醉、一昔卒。年五十九。甫曠放檢、好論天下大事、高而切。少與李白齊名、時號李杜。嘗從白及高適過汴州。酒酣登吹台、慷慨懷古、人莫測也。數嘗寇亂、挺節無所汙、為歌詩傷時橈弱、情忘君、人憐其忠云。贊曰、唐興、詩人承陳隋風流、浮靡相矜。至宋之問・沈佺期等、研揣聲音、浮切差、而號律詩、競相襲沿。逮開元間、稍裁以雅正、然恃華者質反、好麗者壯違、人得一概、皆名所長。至甫、渾涵汪茫、千匯萬狀、兼古今而有之。它人足、甫乃厭餘。殘膏賸馥、沾丐後人多矣。故元稹謂、詩人來、未有如子美者。甫又善陳時事、律切精深、至千言少衰、世號詩史。昌黎韓愈于文章慎許可、至歌詩獨推曰、李杜文章在、光焰萬丈長。誠可信云。

[書き下し]

甫、字は子美、少きとき貧しくして、自ら振るわず、呉越斉趙の間に客たり。李邕は其の材を奇とし、先ず往いてを見る。進士に挙げらるるも、第に中たらず、長安に困しむ。天寶13載、玄宗の太清宮に朝献し、廟及び郊に饗せしとき、甫は賦3篇を奏す。帝はを奇として、集賢院に待制たらしめ、宰相に命じて文章を試みしむ。河西の尉に擢でられしも、拜せず、右衛率府冑曹参軍に改めらるる。數しば賦頌を上り、因りて高くら稱道し、且つ言う、「先臣なる恕・預以来、儒を承け官を守ること十一世、審言に迨びて、文章を以て中宗の時に顕はる。臣は緒業に賴り、七歳り辭を屬し、且に四十年ならんとす、然れども衣は體を蓋はず、常に人に寄食す、竊かに溝壑に轉死せんことを恐る。伏して惟う天子の之を哀憐したまわんことを。若し先臣の故事を執り、泥塗の久辱より抜かしめたまえば、則ち臣の述作は、六經を鼓吹するに足らずと雖も、沈鬱にして頓挫し、隨時に敏給するに至っては、揚雄・枚皋にも企て及ぶべし。臣の此くの如くなるもの有るに、陛下は其れ之を棄つることを忍びたもうや」と。安禄山の亂に會い、天子の蜀に入るや、甫は避けて三川に走る。粛宗の立つや、鄜州より羸服して行在に奔らんと欲し、賊の得る所と為る。至徳二年、亡げて鳳翔に走り、上謁して右拾遺を拜す。房琯と布衣の交わりを為す。琯は時に陳濤斜に敗れ、又た客の董廷蘭のことを以て、宰相を罷めさせらる。甫は上疏して言う、「罪の細なれば、宜しく大臣を免ずべからず」と。帝は怒りて、三司に詔して雑問せしむ。宰相張鎬の曰はく、「甫の若し罪に抵たらば、言う者の路を絶たん」と。帝、乃ち解く。甫は謝して且つ稱す、琯は宰相の子にして、少くして自ら樹立し、醇儒と為り、大臣の體あり。時論も琯の才の公輔に堪うるを許す。陛下は果たして委ねて之を相としたもう。其の深く主の憂いを念い、義の色に形るるを観たまいしならん。然れども性は簡に失し、鼓を琴するを酷嗜す。廷蘭は琯の門下に托し、貧疾昏老して、依倚して非を為す。琯は人情を愛惜して、一に玷汚に至りしなり。臣は其の功名の未だ就らざるに、志氣の挫衄せしことを嘆く。覬う陛下の細を棄てて大を録したまわんことを。死を冒して稱述する所以なり。近く訐激に渉り、聖心に違忤しまつるも、陛下の臣の百死を赦したまい、再び骸骨を賜わらば、天下の幸いにして、臣の獨り蒙るのみに非ざらん」と。然れども帝は是より甚だしくは省録せず。時に所在に寇奪あり、甫の家は鄜に寓す、年を彌りて艱窶し、孺弱は餓死に至る。因りて甫の自ら往きて省視するを許す。從いて京師に還り、出だされて華州司功参軍と為る。關輔饑う、輒ち官を棄てて去り、秦州に客たり。薪を負い橡栗を采りて自ら給す。剣南に流落し、廬を成都の西郭に結ぶ。召されて京兆功曹参軍に補せられしも、至らず。會たま嚴武の剣南東西川に節度たるや、往いて焉に依る。武の再び剣南に帥たるや、表して参謀検校工部員外郎と為す。武は世よの舊を以て、甫の待つこと甚だ善く、親しく其の家に入る。甫は之を見ゆるに、或いは時に巾せず。而して性は褊躁傲誕、嘗て醉いて武の床に登り、瞪視して曰はく、「嚴挺之、乃ち此の兒あり」と。武も亦た暴猛なり、外は忤うことを為さざるが若くなるも、中には之を銜む。一日、甫及び梓州刺史章彝を殺さんと欲し、吏を門に集む。武の將に出でんとするに、冠の簾に鉤すること三たびなり。左右のもの其の母白し、奔り救いて止むること得たり。獨り彝を殺せしのみ。武の卒するや、崔旰等亂す、甫は梓夔の間に往来す。大暦中、瞿唐を出で、江陵に下り、沅溯を泝り、以て衡山に登る。因りて耒陽に客たらんとして、岳祠い遊ぶに、大水遽かに至り、旬に渉りて食を得ず。縣令舟を具えて之を迎え、乃ち還ることを得たり。令嘗て牛炙と白酒を饋るに、大いに醉い、一昔にして卒す。年五十九。甫は曠放にして自ら檢せず、好んで天下の大事を論ずるも、高にして切ならず。少くして李白と名を斉しくし、時に李杜と號ばる。嘗て白及び高適に從いて汴州に過ぎる。酒酣にして吹台に登り、慷慨して古を懐う、人の測る莫し。數しば寇亂を嘗むるも、節を挺して汚す所なく、歌詩を為りて時の橈弱を傷み、情は君を忘れず、人は其の忠を憐むと云う。贊して曰う、唐の興りて、詩人は陳隋の風流を承け、浮靡をば相い矜る。宋之問・沈佺期等に至り、聲音を研揣し、浮切差わず、而して律詩と號び、競いて相い襲沿す。開元の間に逮び、稍く裁するに雅正を以てす。然れども華を恃む者は質の反し、麗を好む者は壮の違い、人は一概を得れば、皆自ら長ずる所と名づく。甫に至りては、渾涵汪茫、千匯萬状、古今を兼ねて之を有す。它人は足らざるも、甫は乃ち厭餘す。殘膏賸馥は、後人を沾丐すること多し。故に元稹は謂う、「詩人ありて以來、未だ子美の如き者はあらず」と。甫は又た善く時事を陳ぶるに、律切の精深にして、千言に至るも少しも衰えず、世に詩士と號ばる。昌黎の韓愈は文章に於いて許可を慎むも、歌詩に至りては獨り推して曰く、「李杜に文章在りて、光焰は萬丈も長し」と。誠に信ずべしと云う。

[現代語訳]

杜甫、字は子美、青年時代は貧乏で、うだつがあがらず、呉・越と斉・趙に放浪生活を送った。李邕がその才能を非凡とし、自分から出かけて面会を求めたことがある。進士に挙げられたが及第せず、長安で生活に苦しんだ。天宝13載、玄宗が太清宮の御用係りにとりたて、宰相に命じて文章を試験させた。河西県の尉官に抜擢されたが拝命せず、改めて右衛率府の冑曹参軍に任命された。杜甫はしばしば賦頌を奉り、それによって誇って言うには、「わが先祖の杜恕・杜預以来、儒者の家としての伝統を継ぎ、仕官の家としての本文を守り続けること11代、杜審言に至って、文学をもって中宗皇帝のみ代に世に知られるようになりました。臣は先祖の偉業を継いで、7歳より詩文を作り始め、40年にもなろうとしています。しかしながら身につける着物とてなく、常に人に寄食しているようなしまつであり、あげくにはみぞに転げ落ちてのたれ死にするのではないかと、ひそかに恐れております。伏して願わくは天子の憐れみをたまわんことを。もし幸いわが先祖の名誉を思い出したまい、臣を泥土の久しき辱しめより引き上げたもうならば、臣の著述するところは六経を世におしひろめるまではゆかなくとも、重々しくて抑揚にとみ、時宣に応じて筆先きが敏であるという点に至っては、古の揚雄・枚皋にも比肩しうるでありましょう。かくのごとき臣がありますのに、なぜ陛下はうち棄てたままにおかれたもうのですか」と。安禄山の乱に遭遇し、玄宗が蜀に落ち延びたとき、杜甫は賊軍を避けて三川県に逃れたが、粛宗の即位を聞き、鄜州より返送して、霊武の行在所にかけつけようとして、賊軍の捕虜となった。至徳2年、賊中より脱出して鳳翔にのがれ、天子に拝謁して、右拾遺を授けられた。房琯とは仕官前からの交際があったが、琯は陳濤斜の戦いに敗北し、又た食客の董廷蘭のことに連座して宰相を罷免された。杜甫は琯のために上奏文を奉っていうのに、「瑣細な罪により、大臣を罷免してはなりません」と。粛宗は激怒し、命じて三司合同で杜甫を取り調べさせたが、宰相の張鎬が、「甫がもし処罰されるようなことがあれば、以後諫言をなすものの道を絶つことになるでありましょう」と弁護したことにより、帝ははじめてその気持ちをほぐすに至った。世論もまた琯の才能が補佐の職責にたえうることを認めておりました。陛下はその期待通りに琯に宰相の職をおゆだねになられたわけでありましょう。しかしながら琯が陛下の憂いたもうところに深くその思いをよせ、正義の心のその顔色にあらわれているのをご覧になられたことでありましょう。しかしながら琯はその性格に余りにも抜けたことがあり、かつ琴を鳴らすことを過度に好むところがありました。ために琯の門下に身を託していた董廷蘭なるものが、貧乏と病気のためにすっかりぼけてのことではありますが、琯の威勢をたのんでよからぬことをしでかすに至ったようなしだいであります。まことに琯は人情にひかれて、つまづくに至ったものといえましょう。臣は琯がその功名をまだとげぬうちに、志気の挫折してしまったことを歎くものであります。願わくは陛下には、琯の小さなとがを棄てて、その大いなる功を取り上げていただきたいものです。臣が死を冒して申し述べましたのは実にそのためであります。ぶしつけきわまることばに足をふみこみ、聖主のみ心にたがいさからいたてまつりましたが、陛下が臣の百死に値する罪を許したまい、臣に休職を腸りましたことは、天下の人びとの幸福であり、その幸福は臣がひとりこうむるばかりではないでありましょう」と。しかしながら帝はこののち余り杜甫をおひき立てになられるようことはなかった。その時に至る処に賊軍の略奪があり、杜甫の家族は鄜州に住んでいたが、1年にもわたって生活に困窮し、幼児が餓死するまでに至った。そのために杜甫に家族を見舞うことをお許しになられた。皇帝に従って長安に帰ったが、転出して華州の司功参軍となった。ときに近畿一帯にききんがあり、杜甫はかってに官を棄てて去り、秦州に旅寓して、たきぎに負い、ささぐりを拾って自活した。ついでに剣南に放浪して、仮り住居を成都の西郭にこしらえた。召されて京兆の功曹参軍に任ざられたが、赴かなかった。たまたま厳武が剣南東川・西川の節度使として赴任して来たので、杜甫は武をたずねてその庇護を受けた。再び剣南節度使としてもどって来るに及び、武の上奏によって杜甫は剣南節度参謀・検校工部員外郎の官を得た。武は父の代からのつきあいにより、はなはだ厚く杜甫を待遇し、親しく杜甫の家を訪問したが、時には杜甫は武に会うのに、ずきんをかぶらぬままのこともあった。しかも杜甫は生まれつき怒りっぽくて、ごうまんであり、あるとき酒に酔って武の寝台に上がり、武をにらみつけていうには、「厳挺之どのにまさかこんな息子があろうとは」と。武もまた乱暴ものであった。武は外面ではさからわぬもののごとくであったが、心中にはこのことを根に持ったのだった。ある日、武は杜甫と章彝を殺そうとし、部下をその門に集めた。武が出かけようとしたとき、冠が三どすだれの留め金にひっかかった。そばのものが武の母に報らせたので、母は杜甫を救いにかけつけて思いとどまらせることができた。武はひとり彝を殺しただけだった。厳武がなくなるなと、崔旰らが反乱を起こしたため、杜甫は梓州と夔州との間をさまよい歩いた。大暦年間、瞿唐峡を出て江陵に下り、そこより沅江・湘江をさかのぼって、衡山に登った。そのついでに耒陽に行き、岳祠に出かけたとき、にわかに洪水に見舞われ、10日間も食べ物が手に入らなかった。耒陽の県令が舟を準備して迎えに来てくれたので、やっと耒陽に帰ることができた。県令があるとき杜甫のために牛のあぶり肉とどぶろくとを贈り届けてくれたことがあるが、杜甫はその酒を飲みすぎて一晩で亡くなった。年59歳。杜甫はきまま勝手で、みずからを律するところがなく、好んで天下の大事を議論したが、その意見が高遠すぎて現実的でなかった。若くして李白とその名声をひとしくして、時の人は李杜とよんだ。あるとき李白と高適とに従って汴州に立ちよったとき、酒の酔いの回ったころ吹台に登り、古を懐って意気たからかであったが、そのときの胸のうちは凡俗にははかり知ることのできぬものがあったであろう。また杜甫はしばしば戦乱を経験したが、節操を守って身を汚すことをなく、詩を作って時勢の衰弱を悲しみ、その心はつねに君主を忘れることがなかったので、人々はそのまごころに感動したのである。賛にいう、唐の初め、詩人たちは陳・隋の遺風を継承して、内容のない美しさを誇りあっていたが、宋之問・沈佺期らに至って、音律がみがきたたえられ、平仄がととのえられるようになった。そして人々はそれを律詩と呼び、競ってそれにしたがいならっていたが、開元年間に及んで、ようやく雅正をねらいとして詩を作るようになった。しかしながら華美を誇るものは実質が伴わず、美麗を好むものは勇壮さが失われ、人々はその一端を得れば、皆それをみずからすぐれるところとして誇っていたが、杜甫に至って、つつみこんで広々とし、さまざまの変化に富み、古今の詩を兼ね合わせて、それらを一身に所有したのである。他の詩人たちは不十分であったが。杜甫こそはあり余るものであったといえよう。杜甫の大いなる余沢が、後世の詩人たちに恵を与えたところは多大である。故に元稹はいう、「詩経詩人このかた、いまだ子美のごときものはない」と。杜甫はまたよく時事を述べたが、調子が良くて対句がうまく、千言を費やしても少しも緩むところがない。世に詩史と呼ばれている。昌黎公の韓愈は、文章においてはなかなか人を認めなかったが、歌詩に至っては独り推挙していうのに、「李杜に文章のありて、光焰は萬丈も長し」と。その評言はまことに信頼してよいといえよう。

詩の特徴

杜甫の詩の特徴として、社会の現状を直視したリアリズム的な視点が挙げられる。杜甫は当時の士大夫同様、仕官して理想の政治を行いたいという願望から、社会や政治の矛盾を積極的に詩歌の題材として取り上げ、同時代の親友である李白の詩とは対照的な詩風を生み出した。特に自らの困難を世の中全体の問題としてとらえ描き、後世「詩聖」と称された。また「詩史(詩による歴史)」と呼ばれるその叙述姿勢は、後の白居易の諷喩(風諭)詩などに受け継がれてゆく。

安史の乱前後、社会秩序が崩壊していくさまを体験した頃の詩は、政治の腐敗や戦乱の様子、社会的状況を悲痛な調子で詳細に綴った内容のものが多い。それらの様々な出来事を普遍化、一般化することなく、徹底的に個別性を直視し、描写することを通して、ある種の普遍性、真実に迫ろうとするという。この頃の代表作として崩壊した長安の春の眺めを詠じた「春望」、社会の矛盾を鋭く指摘した「三吏三別」(「新安吏」「潼関吏」「石壕吏」「新婚別」「垂老別」「無家別」の六首)華州司功参軍を辞したのちに訪れた秦州での様子を細かに描写した「秦州雑詩二十首」がある[4]

支援者にも恵まれ、穏やかな生活を過ごせた成都時代(乾元2年-宝応元年)では、それまでの悲しみや絶望感に満ちた詩にかわって、自然に自然が人間に示す善意に眼ざめ、また、人間も善意に満ちた自然の一部であることを自覚し、自然に対する穏やかな思いを詠んだ詩が多く作られている。この蜀というところは、もともと中原と隔絶した、物資もなお豊かな所で、人の心もまだ多少ゆとりがあったのであろう。[2]寺に遊んだ時の作「後遊」や杜甫の住む草堂近くの浣花渓が増水したことを子どもが杜甫に知らせに来るといったささやかな日常を描いた「江漲」、諸葛亮を讃えた「蜀相」などがこの頃の代表作である[5]

成都を去って以後、夔州などで過ごした最晩年期の杜甫は、社会の動乱や病によって生じる自らの憂愁それ自体も、人間が生きている証であり、その生命力は詩を通して時代を超えて持続すると見なす境地に達した。夔州以降も詩作への意欲は衰えず、多方面にわたって、多くの詩を残している。詩にうたわれる悲哀も、それまでの自己の不遇あるいは国家や社会の矛盾から発せられた調子とは異なる、ある種の荘厳な趣を持つようになる[6]。この時期の代表作に、「秋興八首」「旅夜書懐」「登高」などがある。

また杜甫は『文選』を非常に重んじた詩人としても知られる。次男の杜宗武の誕生日に贈った「宗武生日」に「熟読せよ文選の理に」との文言が見えるなど、この言葉からも『文選』を重視していたことはうかがわれる。杜甫は『文選』に見える語をそのまま用いるだけでなく、『文選』に着想を得て、新たな詩の表現を広げようと追及していた。詩の表現への執着は「江上値水如海勢聊短述」の「人と為り性僻にして佳句に耽ける、語人を脅かさずんば死すとも休まず」句が端的にそのことを示すだろう[7]

詩人としての評価

杜甫の詩人としての評価は必ずしも没後短期間で確立したものでない。没後数十年の中唐期に、元稹[8]白居易韓愈[9]らによってその評価は高まったものの、北宋の初期でさえ、当時一世を風靡した西崑派(晩唐の李商隠を模倣する一派)の指導者の(楊億)は、杜甫のことを「村夫子」(田舎の百姓親父)と呼び嫌っていたという[10]。一方、南宋初期の詩人である(呉可)は『蔵海詩話』の中で「詩を学ぶに、当に杜(甫)を以て体と為すべし」と述べている。

胡応麟の『詩藪』に「李絶杜律」とあるように絶句を得意とした李白と対照的に、杜甫は律詩に優れているという評価が一般的である。奔放自在な李白の詩風に対して、杜甫は多彩な要素を対句表現によって緊密にかつ有機的に構成するのを得意とする。

著名作品

絶句

ウィキソース「絶句」を参照。

春望

春望」を参照。


岳陽楼の項目にある『登岳陽樓』(岳陽楼に登る)を参照。

飲中八仙歌

飲中八仙」の項目を参照。

杜甫関連史跡

  • 成都杜甫草堂:杜甫は乾元2年(759年)9月に華州より成都に到った。そこで支援者の援助を受けつつ、桃の木や竹などを植えた草堂を建築した。杜甫はこの草堂にて多くの詩作を行った。杜甫が作った本来の草堂はもう失われているが、その後、再建されたものが現在、博物館となり観光地となっている。現存する建物の多くは明の弘治13年(1500年)と清の嘉慶16年(1811年)の二度の大改修時のものである。
  • 杜公祠:陝西省西安市長安区少陵原畔に位置する。

杜甫の俳人への影響

 
成都杜甫草堂内部

松尾芭蕉への影響[11]与謝蕪村正岡子規等への影響[12]。が指摘されている。芭蕉の「虚栗」の跋文に「李杜が心酒を嘗て」ということからも杜甫の愛読者であったことがうかがわれる。また、芭蕉の「憶老杜」と題する作に「髪風を吹いて暮秋嘆ずるは誰が子ぞ」は杜甫の「白帝城最高楼」の「藜を杖つき世を歎ずるは誰が子ぞ、泣血 空に迸りて 白頭を回らす」をふまえているとされる[13]。臨終記録たる『花屋日記』[14]によると、芭蕉の遺品に『杜子美詩集』があったとされている、『奥の細道』の一節には、

さても義臣すぐつてこの城にこもり、功名一時のくさむらとなる。国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠うち敷きて時の移るまで涙を落としはべりぬ。
  夏草や 兵どもが 夢のあと

と杜甫の「春望」を意識していることがうかがわれる。黒川洋一は芭蕉は多くの句に杜甫の句を典故に用いたり、また、杜甫の句に暗示を受けて作った作があるとする[15]

吉川幸次郎は、芭蕉と杜甫には単に類似の語がみられることにとどまらず、芭蕉が杜甫から得たものは「自然を単なる美としてとらえず、世界の象徴、ことに自己の生の象徴として感じ得たこと」と述べ、芭蕉の句は「生活の現実に触れた句」「芭蕉の内部にあるものを投影しようとして、外なる自然をとらえ得たと感ずる句」の二類に帰すると指摘し、そしてそれらは杜甫の句づくりに通ずるところがあると述べる[13]

パロディ

杜甫の画像は2012年から、中国語のサイトにおいてパロディの題材として広く用いられている。2012年3月21日、新浪微博(中国版ツィッターとも言えるもの)で杜甫の画像のパロディがアップされ、大きな話題となり[16]、その後、このパロディは成都杜甫草堂博物館による自己宣伝ではないかと疑われたが、成都杜甫草堂博物館の副館長はそれを否定した[17]

中国大陸・台湾で刊行の注釈等

  • 張元済『宋本杜工部集』(全20冊、上海商務印書館、1957年)
上海図書館の所蔵する宋代の本を写真版によって原寸通りに覆印した。現存最古のテキストであり、字句また詩の配列、北宋の時代に編定された形をそのままに示している[18]
  • 蔡夢弼『草堂詩箋』※全30巻本と全40巻本がある。古逸叢書に収録。また台湾の広文書局より刊行。
  • 林継中輯校『杜詩趙次公先後解輯校』(全2冊、上海古籍出版社、1994年)※修訂版が2012年に出ている。
  • 浦起竜『読杜心解』(全3冊、中華書局、初版1961年)
  • 王嗣奭『杜臆』(曹樹銘増校『杜臆増校』藝文印書館印行、1971年、台北)
  • wikisource:zh:杜詩攟(明、唐元竑。四庫収録)
  • 銭謙益『銭注杜詩』(全2冊、上海古籍出版社、1979年) - wikisource:zh:杜工部集(詩體編、錢謙益注。但し、入力不完全。)
  • 仇兆鰲『杜詩詳註』(全5冊、中華書局、第一版1979年)- wikisource:zh:杜詩詳註(仇兆鰲注、四庫収録。但し、入力不完全。)
最も代表的とされる注釈。杜甫の使用する詩語の最古の用例を網羅的に調査している。
  • 楊倫『杜詩鏡銓』(上海古籍出版社、1988年)
  • 韓成武・張志民主編『杜甫詩全訳』(河北人民出版社、1997年)。仇兆鰲の配列順
  • 張志烈主編『(今注本)杜詩全集』(全4冊、天地出版社、1999年)。楊倫の配列順
  • 李濤松・李翼雲『全杜詩新釈』(全2冊、中国書店、2002年、北京)。仇兆鰲の配列順
  • 張忠綱編注『杜甫詩話六種校注』(斉魯書社、2002年)
杜甫の作品は収録されていないが、宋の蔡夢弼『杜工部草堂詩話』など6種類の詩話を収録している。
  • 宋開玉『杜詩釋地』山東大学文史哲研究院専刊(上海古籍出版社、2004年)杜甫の詩中に詠われる地名について網羅的に収録した注釈書の一種。
  • 陳冠明・孫愫婷『杜甫親眷交游行年考 : 外一種杜甫親眷交遊年表』(上海古籍出版社、2006年)杜甫と交友のあった人物について網羅的に収録した注釈書の一種。また、その交遊に関する年表も掲載される。
  • 張忠綱主編『杜甫大辞典』(山東教育出版、2009年)
  • 蕭滌非(主編)・張忠綱(全書終審統稿人)他『杜甫全集校注』(全12冊、人民文学出版社、2014年)。楊倫の配列順
  • 林継中『新訳杜詩青華』(全2冊、三民書局、2015年、台湾)。詩句に注音符号が付されている。

日本語訳注・評釈書

  • 津坂東陽『杜律詳解』(上中下、関西図書、1897年(明治30年))
  • 森槐南『杜詩講義』(上中下、文会堂書店、1912年)- 抄訳
    新版(全4巻、平凡社東洋文庫、松岡秀明校訂、1993年、ワイド版2009年)
  • 鈴木虎雄『杜甫全詩集』(全4冊、日本図書センター、1978年。『杜少陵詩集』1928~31年刊の復刻版)- 全訳
    〔仇兆鰲の配列順〕全詩に訳注が施された代表的な訳本の一冊。仇兆鰲の『杜詩詳注』に基本的には依拠しつつ、訳者自身の解釈も反映。
  • 鈴木虎雄『杜詩』(全8巻、岩波文庫、復刊1989年、2005年ほか)- 抄訳
    元版は戦前刊の全訳・注解を、黒川洋一が補訳・表記改訂。
    清朝乾隆帝の乾隆15年(1750年)に成立した勅撰詩集『唐宋詩醇』全47巻中の杜甫詩に訳注を施したもの。李白、杜甫、韓愈白居易蘇軾陸游の六人の詩を選び、詩ごと、詩人ごとに評を付す。日本では李白、杜甫の部分だけ江戸時代に翻刻された[19]
  • 黒川洋一『杜甫 中国詩人選集』(岩波書店(上・下)、1957-59年)。新装版『杜甫 新修 中国詩人選集』(全1巻、1983年) - 抄訳
  • 目加田誠『杜甫 漢詩大系9』(集英社、1965年)。新装版『杜甫 漢詩選9』(集英社、1996年)- 抄訳
  • 目加田誠『杜甫 中国詩人選3』(集英社、1966年)。新装版『杜甫 中国名詩鑑賞4』(小沢書店、1996年)- 抄訳
  • 吉川幸次郎『杜甫 世界古典文学全集28・29』(筑摩書房、1967-72年、復刊1982年、2004年ほか)- 抄訳
  • 吉川幸次郎『杜甫詩注』(全5冊、筑摩書房、1977-83年)。逝去により5冊目中途で刊、下記は新訂版- 抄訳
  • 小野忍小山正孝・佐藤保編訳『杜甫詩選』(全3巻、講談社学術文庫、1978年)- 抄訳
  • 黒川洋一『杜甫 鑑賞中国の古典17』(角川書店、1987年)- 抄訳
  • 黒川洋一編訳『杜甫詩選』(岩波書店、1991年、ワイド版1994年)- 抄訳
  • 吉川幸次郎『杜甫詩注』(興膳宏編、第1期・全10巻、岩波書店、2012-2016年)- 抄訳
    弟子興膳宏らにより2012年より加筆修正が施され、遺稿を含め引き継ぎ第1期を出版。第2期・全10巻は時期未定
  • 『杜甫全詩訳注』(全4巻、講談社学術文庫、編者代表下定雅弘松原朗、2016年6月-10月)- 全訳
    〔仇兆鰲の配列順〕最新の研究を反映しつつ、全詩に訳注を施した訳本。
  • 川合康三新釈漢文大系 詩人篇 六・七 杜甫』(明治書院、2019年5月-2023年6月)全12巻(後者は未刊)- 抄訳

日本語での杜甫評伝・研究

杜甫に関する論考集成、長年の杜甫研究を概観できる。補篇は第二十二・二十五・二十六巻に収録
単著判は『杜甫私記』、『杜詩論集』、各・筑摩叢書。小著で『杜甫ノート』 新潮文庫、改版1970年
  • 目加田誠『杜甫物語 詩と生涯』 社会思想社<現代教養文庫>、1969年
    • 改訂版『著作集7 杜甫の詩と生涯』 龍渓書舎、1984年
  • 高木正一『杜甫』 中公新書、1969年
  • 福原龍蔵『杜甫 沈痛漂泊の詩聖』 講談社現代新書、1969年
  • 郭沫若『李白と杜甫』須田禎一訳、講談社、1972年
  • 黒川洋一『中国詩文選15 杜甫』 筑摩書房、1973年
  • 田中克己『杜甫伝』 講談社、1976年
  • 馮至『杜甫伝 詩と生涯』 橋川時雄訳、筑摩書房<筑摩叢書>、1977年、再版1983年
  • 黒川洋一『杜甫の研究』 創文社、1977年
  • 鈴木修次『杜甫 人と思想』 清水書院、1980年、新装版2014年
  • 和田利男『杜甫 生涯と文学』 めるくまーる社、1981年
  • 黒川洋一『杜詩とともに』 創文社、1982年。他の論考もある
  • 森野繁夫『中国の詩人7 杜甫』 集英社、1982年
  • 劉開揚『杜甫』 橋本堯訳、中国古典入門叢書:日中出版、1984年、再版1991年
  • 高島俊男『李白と杜甫』 講談社学術文庫、1997年。改訂版(旧版は評論社)
  • 黒川洋一『杜甫 中国の古典<ビギナーズ・クラシックス>』 福島理子編、角川ソフィア文庫、2005年
  • 古川末喜『杜甫農業詩研究 八世紀中国における農事と生活の歌』 知泉書館、2008年
  • 興膳宏『杜甫-憂愁の詩人を超えて』 岩波書店「書物誕生 あたらしい古典入門」、2009年
  • 宇野直人・聞き手江原正士『杜甫-偉大なる憂鬱』平凡社、2009年
  • 後藤秋正『東西南北の人―杜甫の詩と詩語』 研文出版、2011年
  • 後藤秋正『杜甫詩話―何れの日か是れ帰年ならん』 研文出版、2012年
  • 川合康三『杜甫』 岩波新書、2012年
  • 松原朗編『杜甫研究論集 生誕千三百年記念』 研文出版、2013年
  • 谷口真由美『杜甫の詩的葛藤と社会意識』 汲古書院、2013年
  • 古川末喜『杜甫の詩と生活―現代訓読文で読む』 知泉書館、2014年
  • 後藤秋正『花燃えんと欲す―続・杜甫詩話』 研文出版、2014年
  • 後藤秋正『「春望」の系譜―続々・杜甫詩話』 研文出版、2017年
  • 松原朗編『杜甫と玄宗皇帝の時代』 勉誠出版、2018年
  • 長谷部剛『杜甫詩文集の形成に関する文献学的研究』 関西大学出版部、2019年
  • 向島成美編『李白と杜甫の事典』 大修館書店、2019年
  • 『杜甫研究年報』 日本杜甫学会編、勉誠出版、2018年-[20]

脚注

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  1. ^ 後藤秋正「杜甫はいつから「詩聖」になったか」『札幌国語研究』第22巻、北海道教育大学国語国文学会・札幌、2017年、59-66頁、doi:10.32150/00007530、ISSN 1342-6869、CRID 1390576302827174656。 
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 目加田誠『杜甫 漢詩大系 第9巻』集英社、1968年。 
  3. ^ 歐陽修 (1975). 新唐書. 中華書局. ISBN (9787101003208) 
  4. ^ 植木久行『唐詩物語 : 名詩誕生の虚と実と』大修館書店〈あじあブックス〉、2002年、73-99頁。ISBN (4469231800)。(全国書誌番号):(20274372)https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000003628613-00 
  5. ^ 黒川洋一『『杜甫』鑑賞中国の古典第17巻』角川書店、1987年、14頁。 
  6. ^ 『吉川幸次郎全集第十二巻「杜甫について」』筑摩書房、1968年。 
  7. ^ 松原朗『杜甫と玄宗皇帝の時代「杜甫と『文選』(大橋賢一)」』勉誠出版、2018年、202-214頁。 
  8. ^ 元稹「唐故工部員外郎杜君暮係銘」序
  9. ^ 韓愈「調張籍」
  10. ^ 劉攽『中山詩話』「楊大年、不喜杜工部詩、謂為村夫子。」
  11. ^ 太田青丘『芭蕉と杜甫』(教養選書・法政大学出版局、のち「著作選集 第2巻」おうふう)
  12. ^ 黒川洋一『杜甫 ビギナーズ・クラシックス』角川学芸出版、2012年、14頁。 
  13. ^ a b 吉川幸次郎『『吉川幸次郎全集』第十二巻「芭蕉と杜甫」』筑摩書房、1970年、710頁。 
  14. ^ 小宮豊隆校訂、文暁『花屋日記 芭蕉臨終記』岩波文庫、新装復刊2017年
  15. ^ 黒川洋一『杜甫 下 中国詩人選集 10』岩波書店、1959年、10頁。 『杜甫 上 中国詩人選集 10』岩波書店、1957年。 
  16. ^ ““杜甫很忙”系人为策划 遭公关团队与新浪微博“认领””. TechWeb.com.cn (2012年3月31日). 2012年3月31日閲覧。
  17. ^ “网上杜甫很忙 网下草堂很冤”. 成都日报 (2012年3月30日). 2012年3月31日閲覧。
  18. ^ 吉川幸次郎『杜甫詩注 第1冊』岩波書店、2012年。 
  19. ^ 近藤春雄『中国学芸大事典』大修館書店、1992年、600頁。 
  20. ^ 「研究年報」は毎年1冊春に発行

関連項目

外部リンク

  • ウィキソース 全唐詩 卷216 | 全唐詩 卷217 | 全唐詩 卷218 | 全唐詩 卷219 | 全唐詩 卷220 | 全唐詩 卷221 | 全唐詩 卷222 | 全唐詩 卷223 | 全唐詩 卷224 | 全唐詩 卷225 - 杜甫
  • ウィキソース 全唐文 卷0359 | 全唐文 卷0360 - 杜甫
  • 日本杜甫学会
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