温仁親王(ますひとしんのう、寛政12年1月22日(1800年2月15日) - 寛政12年4月4日(1800年4月27日))は、江戸時代の皇族。光格天皇の第三皇子。母は欣子内親王であり、後桃園天皇の女系の孫にあたる。同母弟に悦仁親王、異母弟に仁孝天皇(母は勧修寺婧子)がいる。
生涯
寛政12年3月7日(1800年3月31日)、生後僅か44日で儲君に治定され、3月26日(4月19日)に親王宣下を受けた。しかし、その僅か8日後、寛政12年4月4日(1800年4月27日)に薨御。儲君に治定されたものの践祚できなかった、唯一の例となっている[1]。
母の欣子内親王は、後桃園天皇の唯一の子女である。自身と同母弟悦仁親王が嗣子なくして薨御した事により、中御門天皇(後桃園天皇の曽祖父)からの皇統は女系も含めて完全に途絶えてしまう。現在の皇室まで続く皇統は、異母弟であり勧修寺婧子を生母とする仁孝天皇が継いだ、閑院宮たる光格天皇系である。元々は師仁親王を光格天皇として践祚させた後、欣子内親王との間の子を次の天皇にする予定だったが、その継嗣の温仁親王が薨御し、次の悦仁親王が生まれるまでに恵仁親王(仁孝天皇)が生まれたので、皇位はその皇統で代々続いている[1]。墓は京都府京都市東山区今熊野泉山町の泉涌寺内にある月輪陵に、他の天皇の陵や塚と共にある[2]。