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平賀 譲(ひらが ゆずる、1878年(明治11年)3月8日 - 1943年(昭和18年)2月17日[1])は、日本の海軍軍人、工学者、華族。海軍技術中将、 従三位、 勲一等、 男爵 、工学博士。東京帝大総長。
東京府(現・東京都)生まれ、本籍地は広島県広島市。父は芸州藩士から維新政府に仕えた主計官。兄・平賀徳太郎は海軍軍人。 大正時代から昭和初期にかけて海軍艦政本部で艦艇設計に従事し、妙高型重巡洋艦などの画期的な重武装艦を設計したことで知られる。
略歴
- 1890年
- 1895年
- 1898年
- 7月8日 東京帝国大学工科大学(後の工学部)造船学科(後の船舶工学科)に入学。
- 7月10日 第一高等学校工科を卒業。
- 1899年
- 4月1日 母親、さらに父親も亡くしていたため、給費付きの海軍造船学生試験に応募し採用となる。
- 1901年
- 6月27日 海軍造船中技士(後の海軍造船・造機中尉)
- 7月10日 東京帝国大学工科大学造船学科を首席で卒業。
- 7月17日 横須賀海軍造船廠に着任。
- 1903年
- 9月28日 海軍造船大技士(後の海軍造船・造機大尉)
- 1904年
- 1月15日 呉海軍工廠造船部々員
- 1905年
- 1908年
- 6月30日 グリニッジ王立海軍大学造船科を卒業。
- 10月1日 帰朝を仰せつかる。出発まで、イギリス・イタリア・フランスの諸造船所見学。
- 12月12日 日本郵船丹波丸でロンドン発。
- 1909年
- 1月26日 横浜に帰着。
- 2月3日 海軍艦政本部々員。
- 9月25日 東京帝国大学工科大学講師
- 10月1日 海軍造船少監(後の海軍造船・造機少佐)
- 1912年
- 1913年 6月10日 造船工場長(兼任)
- 1916年
- 1917年 4月1日 海軍造船大監(後の海軍造船・造機大佐)
- 1918年
- 10月19日 東京帝国大学工科大学教授兼任。
- 1919年
- 2月6日 改正帝国大学令公布、(4月1日施行)、従来の各科大学を学部と改称。
- 3月8日 工学博士の学位を受く
- 9月22日 法令改正により、海軍造船大監あらため海軍造船大佐。
- 1920年
- 10月1日 海軍艦政本部再編、海軍技術本部々員あらため海軍艦政本部々員。
- 12月1日 第四部長に山本開蔵就任に伴い、計画主任を命ぜらる。
- 1922年
- 6月1日 海軍造船少将。海軍艦政本部出仕。引き続き第四部に勤務。
- 7月1日 海軍艦政本部技術会議々員
- 1923年
- 10月1日 計画主任を解任。同日、主としてワシントン条約下の列強建艦状況調査のため、欧米各国に出張を命ぜらる。
- 11月22日 日本郵船ロンドン線の香取丸にて横浜発。
- 1924年
- 1925年
- 2月3日 海軍大臣に「欧米視察所見」を提出
- 6月3日 海軍技術研究所造船研究部長
- 12月7日 海軍技術研究所所長兼造船研究部長、艦政本部技術会議々員。
- 1926年
- 11月1日 造船研究部長の兼務を解かる
- 12月1日 海軍造船中将
- 1928年
- 4月10日 官制改正により、海軍艦政本部技術会議々員あらため海軍技術会議々員。
- 8月 ワシントン海軍軍縮条約によって廃艦が決まった駆逐艦「夕立」を実験艦として海上曳航抵抗実験を実施。
- 1929年
- 7月31日 (金剛代艦私案)(設計X)を海軍技術会議に提出、計画主任藤本喜久雄の艦政本部案と対決。
- 1931年
- 1934年
- 4月7日 友鶴事件により設置された「臨時艦艇性能調査会」の事務嘱託、艦艇復原性能改正対策を精力的に指導。
- 6月7日 「臨時艦艇性能調査会」事務嘱託を解かる。
- 1935年
- 10月31日 第四艦隊事件により「臨時艦艇性能改善調査委員会」設置、海軍艦政本部嘱託として改正対策を強力に指導。
- 11月 熔接制限を第四部長山本幹之助に建言。
- 1936年
- 1月 平賀提案による「船体構造電気熔接使用方針」を制定
- 1938年
- 12月20日 東京帝国大学十三代総長。
- 1939年
- 1月~2月 「平賀粛学」によって経済学部の教授等13人を追放した。
- 1942年
- 4月 平賀の尽力と支援により、東京帝国大学第二工学部設置[4][5]
- 5月 平賀の尽力と支援により、興亜工業大学(現・千葉工業大学)設置
- 11月1日 法令改正により、海軍造船中将あらため海軍技術中将。
- 12月20日 東京帝国大学総長に再任。だが、すでに健康を極度に損ね、結核菌に喉頭を冒されていた。
- 1943年
栄典
- 位階
- 1901年(明治34年)9月30日 - 従七位[6][7]
- 1903年(明治36年)12月19日 - 正七位[6][8]
- 1909年(明治42年)3月1日 - 従六位[6][9]
- 1913年(大正2年)2月10日 - 正六位[6][10]
- 1917年(大正6年)4月20日 - 従五位[6][11]
- 1921年(大正10年)5月30日 - 正五位[6][12]
- 1926年(大正15年)7月2日 - 従四位[6][13]
- 1931年(昭和6年)4月15日 - 正四位[6][14]
- 1937年(昭和12年)8月16日 - 従三位[6][15]
- 勲章等
- 1906年(明治39年)4月1日 - 勲五等双光旭日章・(明治三十七八年従軍記章)[6]
- 1913年(大正2年)11月28日 - 勲四等瑞宝章[6][16]
- 1915年(大正4年)
- 1920年(大正9年)11月7日 - 勲三等旭日中綬章・(大正三年乃至九年戦役従軍記章)・(戦捷記章)
- 1926年(大正15年)
- 1928年(昭和3年)11月14日 - (大礼記念章(昭和))[6]
- 1937年(昭和12年)6月3日 - 勲一等瑞宝章[6][18]
- 1943年(昭和18年)2月17日 - 依勲功特授男爵[6][19]・旭日大綬章[20]
- 外国勲章佩用允許
- 1924年(大正13年)10月8日 - フランス共和国:レジオンドヌール勲章コマンド―ル[21]
平賀艦艇設計の評価
平賀は、留学から帰国した後は海軍艦政本部で艦艇設計に従事した。艦政本部第四部計画主任に就任してからは戦艦紀伊型、重巡洋艦古鷹型、妙高型、軽巡洋艦夕張、川内型、駆逐艦神風型、若竹型を設計した。夕張や重巡洋艦妙高型の軽量化は各国海軍艦艇造船官を注目させた。造船の神様、という賛辞も存在する。
一方、海軍中枢部や他の造船官らからの反対意見には頑として譲らなかったため、平賀譲(ゆずる)ならぬ「平賀不譲(ゆずらず)」と皮肉られた。仕事上の問題で衝突があると、議論の相手が誰であれ怒鳴りつけることもしばしばで(すぐに赤熱するという意味で)「ニクロム線」とも渾名された。この態度が仇となり、周囲からの反感をかい、一時左遷されることもあった。
軽量な艦体に重武装をほどこした平賀の設計は、諸外国からも脅威視された。ワシントン軍縮条約で巡洋艦の分類が主砲口径を基準とされたのは、古鷹型を重巡洋艦にカテゴライズして足枷をはめようという意図があったする説がある。続くロンドン条約では重巡を含む補助艦艇保有量制限がされたのも、妙高型やその改良型の建造を阻止するのが主な目的であったという説もある。[要出典] 平賀の上司である艦政本部第四部長の(山本開蔵)が策定した八八艦隊計画は、40センチ砲装備の戦艦12隻の建造にあたって、連装砲塔58基分を共通にして大幅なコストダウンと工期の短縮を図っていた(土佐においては起工から竣工まで僅か24ヶ月)。この日本海軍の急速な海軍戦力の拡張は、ワシントン軍縮会議の原因のひとつとなった。しかし平賀は加賀の設計において連装・3連装砲塔混載という設計変更を希望した。小型軽量化・安定性向上などの利点はあるが、量産効果を台無しにするものであり、山本に拒否されている。
平賀が大正9年12月に第四部計画主任に就任してからの、紀伊型の舷側装甲の増大、川内型軽巡洋艦における重油専焼から石炭混焼への変更、安定性不足を理由とした駆逐艦の船体幅の増加は、前任者の行った艦型の整理による量産体制の否定であり、工期の延長や費用の高騰を招いた。結果、巡洋艦20隻の取得計画が、建造費の増加で12隻に削減された。また、大正10年度設計艦が平賀による設計変更により、重量増加により速力が2~3ノット低下している。
3500トンで5500トンの巡洋艦と同じ戦力を発揮するとした、軽巡洋艦・夕張は、予定重量10パーセント超過により速力が低下。また船体規模の不足から、荒天性能の不足。軽巡洋艦の任務であった水雷戦隊司令部としての機能、人員の余裕不足。航続力不足(14ノット3300海里。ちなみに5500トン巡洋艦は5000海里)。航空機運用能力の付加ができないという欠点があった。ただ夕張は一隻のみ建造された試験的存在であり、後の重巡洋艦設計の礎となり実験艦としての意義はあったという評価もある[要出典]。
古鷹型も7500トンの予定が1000トン超過して速力低下している。また単装砲塔6基という設計にこだわり、艦政本部第一部の反対を退けて人力揚弾方式を採用。これにより砲塔内の即応弾10発を撃ちつくした後の給弾が追いつかないという欠陥を抱えていた(古鷹型の評価が高かったのは、この欠陥が知られなかったからという説もある[要出典])。
妙高型は主砲の散布界が異常に大きく、連装3基の青葉に対し、連装5基で命中率が半分という欠陥があった。また水雷兵装を全廃した事も問題視された。これは国防の基本計画に関わる重大事であるにもかかわらず平賀の独断で実行したからである。用兵側では主砲は8門でよしとし魚雷装備を求めたが、平賀は条約で戦艦の保有が制限されている以上、重巡洋艦は準戦艦たるべしという信念を持っていた。結果論としては時代の移行もあったとはいえ、平賀の独断と一致し、実戦で重巡洋艦の魚雷装備が役立つ事は少なかった。また他国の重巡の主砲が8〜9門に対し、平賀設計の重巡は門数・防御力とも優れていた。しかし、その性能は条約違反の排水量超過によるものであったのも否めず、現場を無視した平賀設計と、現場での尻拭い的改善が原因である。
平賀をかばいきれなくなった山本は、大正12年10月1日付で平賀を第四部計画主任から解任し、藤本喜久雄を後任にすると共に、平賀には欧州への出張・技術調査を命じ、自らは現役から去った。
平賀の後任の藤本喜久雄の最初の仕事は、連装砲塔装備の改古鷹型である青葉型の設計、妙高型の水雷兵装の復活という、平賀設計の問題視された部分の改定であった。藤本は主砲10門はそのままに魚雷装備と両立させ、用兵側を大いに喜ばせた。だが、用兵側の要求より高い目標で応じる藤本設計が、後の悲劇となる。
条約時代の新型水雷艇や新型駆逐艦、新型軽巡洋艦は、平賀が左遷されていた時期に藤本が設計しているが、復原力不足で友鶴事件、第四艦隊事件を起こした。平賀設計に輪をかけた重武装が、トップヘビーを招いたのが原因であった。平賀が担当していれば事件は起きなかったという見解もあり、実際昭和19年(1944年)12月のフィリピン海を襲ったコブラ台風によってトップヘビーだった米軍駆逐艦などが転覆する事故が起きたが、それに対し、平賀が復帰して改善した以降は事故はぴたりと止んだ。ただし、平賀の設計した駆逐艦早蕨も復原力不足による転覆沈没事故を起こしている。
艦政本部長の山梨勝之進は帰朝した平賀を海軍技術研究所造船研究部長に任じ、設計部門への復帰を許さなかった。金剛代艦の設計時においては、技術検討会議の席上で設計部門ではない海軍技術研究所所長でありながら私案を提出し再び批判を浴びたが、副砲を高速航行時には使用できないケースメート式にする(対駆逐艦戦闘に使用する事ができない)、後檣楼が省かれたために予備の射撃指揮所が無いなど設計の内容でも酷評を受けている。平賀はこのときの設計案においても連装、3連装の混載を主張した。このころには「船作りは上手いが軍艦作りの能力の無い造船官」という評価であったという[22]。
昭和7年(1932年)には、既に採用されかけていた海軍駆逐艦の主砲高角砲統一案を廃案にしたとされ、これが仇となって太平洋戦争中、日本海軍は米国海軍に対し対空能力において大幅な劣勢を強いられることとなる。もっともこれは、平賀が左遷後、予備役に追いやられた時であり、この時期の平賀がどの程度影響力を行使できたかは疑問符がつく。また駆逐艦の主砲高角砲化は島風建造時にも検討され、松型駆逐艦において実現しており、これは左遷されていた平賀の復帰後の事である。
藤本の急死後、後継者には同い年の江崎岩吉と福田啓二が挙がったが、平賀の弟子である福田が計画主任に任じられている。昭和10年(1935年)7月、特型駆逐艦「叢雲」がうねりによって船体にしわが発生する事件があった。これを調査した牧野茂造船少佐は船体強度上の重大な欠陥とし、同型艦すべての入渠修理を上申したが容れられず、豊田貞次郎艦政本部総務部長の決定の下、定例修理で対応する予定であった。9月に第四艦隊事件が発生すると、平賀は牧野造船少佐の上申を握りつぶした上で、藤本とコンビを組んでいた江崎を「事前の処置を図らなかった」として呉工廠に転出させる辞令を出し「将来のことを考え民間会社に移ってはどうか」と「忠告」したという。
この頃、設計部門に返り咲いた平賀は戦艦設計の唯一の経験者として絶大な影響力を振るうようになっていた。軍令部要求に従って速力30ノット以上、主砲の艦首集中配備、充実した航空艤装を持った高速戦艦として藤本・江崎コンビによって設計が進んでいた大和型は、これ以降、平賀好みの重防御中速戦艦として設計変更が進むことになる(もっとも大和型の27ノットが、当時果たして中速だったのかは異論がある。事実、キングジョージV世級、サウスダコタ級戦艦も同速度である[独自研究?])。そしてこのときも主砲の連装、三連装を混載した設計案を提出し、軍令部から砲塔二種の生産余力なしと拒否されている。
平賀は当時の列国の新造艦では廃止される傾向にあった中央隔壁をどの艦にも設けたが、これは船体を多少強固にする反面、魚雷命中等、何らかの要因で艦が浸水した場合に、隔壁によって片舷のみが浸水し、傾斜、沈没しやすくなる致命的な欠陥があった。太平洋戦争では、これが裏目に出て、日本の巡洋艦は一発程度の被雷(魚雷命中)で頻繁に傾斜、転覆するなど比較的損害が多かった[23]。(第一次ソロモン海戦における重巡洋艦加古の沈没がその一例)
平賀は溶接工法に反対しリベット工法にこだわり、結果として被弾時の損害が増えたり(リベットの破損による他箇所への損害波及)また、船体のブロック工法等の新技術を取り入れにくくするディーゼルエンジンへの不信など、保守的な手法を用いるがゆえに古い技術による無駄の多い設計となっていた。
また、彼が設計を指導した大和型は防水隔壁の数が過小(20年も古い長門型と同数の23)、被弾、損傷時に於けるダメージコントロールの研究も怠っていた(反して藤本はよく研究していた)。その一方でわずかな能力向上のためにコストを度外視し・造船の現場を無視した設計を行い、そして重量超過や工期の遅れについては厳しく「指導」した[23]。
平賀の上司であった山本は、敗戦の責任の多くが艦政にあり、その原因が平賀の艦政本部復帰にあると考えていたと言われる。戦後、造船協会が山本に名誉会員の称号を贈ろうとしたときはこれを固辞し、強行するなら協会を脱退する、自分はそのような名誉を受けるに値する人間ではない、と言ったといわれる。
人物像
- 仕事のことばかり考えていて、職場で私服から軍服に着替えるのを忘れてしまったり、食事を取るのも忘れて没頭してしまうほどであった。反面私生活では、家人に仕事の話をせず、休みは朝湯、将棋、映画鑑賞などに夢中になった。
- 菊づくりが趣味で、庭に1200鉢あまりの菊を持っていた。賞も数多く受けるなどその腕はプロ級であった。
- レナウン級巡洋戦艦やネルソン級戦艦の基本設計をした(ユースタス・テニソン・ダインコート)と親交があった。
- 生真面目な性格だったが、反面さばけたところもあり、東京帝大総長時代の1940年(昭和15年)1月23日、宮中にて昭和天皇にご進講を行った際にはカフスに書き込みをして、「生まれて初めてのカンニングをした」と記者会見で白状。満座を爆笑させた。
- 太平洋戦争時は陸軍には好意的な態度をとらなかった。東京帝大総長就任時、英語教育に力を入れたり、東条英機首相の大学卒業式参列には最後まで反対した。最終的には東条首相は式に参列し勇壮ながらも空疎な式辞を述べたのに対し、平賀の式辞は開戦以来の浮かれた気分を否定しアメリカの工業力や学力の軽視を戒め、「功を急ぐとは、自己の名利を急ぐの意味であって、これを大にしては国を誤り」と暗に軍部を批判するもので、すでに病魔に侵されていた平賀の声は、かぼそく淡淡としたものであった。
家族・親族
妻は原正幹(工学士、岳父は花房直三郎[25][26])の妹・カズ[2]。長男・平賀謙一(男爵)の妻・てるは実吉純郎の二女[27]。三女は元サントリー社長の佐治敬三に、姪(原正幹の長女)は建築家の平山嵩(天文学者・平山信の次男)にそれぞれ嫁いでいる[28]。
著作と伝記
- 『平賀譲遺稿集』牧野茂 監修・内藤初穂 編(出版協同社、1985年) (ISBN 4-87970-041-X)
- 伝記
脚注
- ^ 『官報』第4858号「彙報 - 官吏薨去」1943年3月25日。
- ^ a b 平賀譲の略歴
- ^ 宮内庁 編『昭和天皇実録 第四 自大正十三年至昭和二年』東京書籍株式会社、2015年3月、182頁。ISBN (978-4-487-74404-6)。182頁『(大正十三年十二月)十八日 木曜日(略)(平賀譲の講話)午後、表内謁見所において海軍造船少将平賀譲より各国艦艇の型式及び艦材に関する講話を御聴取になる。元帥海軍大将東郷平八郎・海軍大臣財部彪・軍事参議官鈴木貫太郎・同井出謙治その他が陪聴する。講話終了後、一同に茶を賜い、席上、平賀に造船上のことについて種々御下問になる。』
- ^ 福田武雄「生産技術研究所10年の歩み -附 第二工学部時代-」『生産研究』第11巻第6号、東京大学生産技術研究所、1959年6月1日、pp.136-143、ISSN 0037105X。
- ^ 立花隆 (2005年8月10日). “東大生が体験した「8月15日」 - 平賀総長が生んだ第二工学部”. 別冊 「東京帝国大学が敗れた日」. 文藝春秋WEB. 2014年8月29日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 「故東京帝国大学総長男爵平賀譲勲章加授の件」 アジア歴史資料センター Ref.A10113457200
- ^ 『官報』第5475号「叙任及辞令」1901年10月1日。
- ^ 『官報』第6142号「叙任及辞令」1903年12月21日。
- ^ 『官報』第7701号「叙任及辞令」1909年3月2日。
- ^ 『官報』第159号「叙任及辞令」1913年2月12日。
- ^ 『官報』第1414号「叙任及辞令」1917年4月21日。
- ^ 『官報』第2648号「叙任及辞令」1921年5月31日。
- ^ 『官報』第4158号「叙任及辞令」1926年7月3日。
- ^ 『官報』第1317号「叙任及辞令」1931年5月23日。
- ^ 『官報』第3195号「叙任及辞令」1937年8月26日。
- ^ 『官報』第402号「叙任及辞令」1913年11月29日。
- ^ 『官報』第4051号「叙任及辞令」1926年2月27日。
- ^ 『官報』第3124号「叙任及辞令」1937年6月4日。
- ^ 『官報』第4829号「叙任及辞令」1943年2月19日。
- ^ 『官報』第4830号「叙任及辞令」1943年2月20日。
- ^ 『官報』第3641号「叙任及辞令」1924年10月10日。
- ^ 遠藤昭『戦艦大和』(サンケイ出版、1981年)
- ^ a b 山本善之「平賀譲先生を考える1」 公益社団法人日本船舶海洋工学会『らん』No.37 1997年10月 p67 - p69
- ^ 阿川弘之『軍艦長門の生涯・上』(新潮文庫、1982年) (ISBN 4-10-111007-7) 第二章 p28-p39
- ^ 原正幹『米国戦時造船』丸善、1921
- ^ 花房子爵古希祝賀会『子爵花房義質君事略』1913年
- ^ 実吉純郎『人事興信録. 第15版 上』
- ^ 『昭和人名辞典 第1巻 東京編』 日本図書センター、1987年10月5日発行、(ISBN 4-8205-0693-5)、831頁 - 832頁
参考文献
関連項目
- 大艦巨砲主義
- 栄光なき天才たち
- 『怒りの海』(今井正監督、1944年5月25日公開、平賀譲の伝記映画、平賀役に大河内伝次郎、妻・光子役に原節子)
- 『宇宙一の無責任男』(吉岡平によるライトノベルシリーズ。天才的だがクセの強い造船技官として平賀譲をモチーフとしたトオル・ジョーニアス・ヒラガーという人物が登場する。)
- 『艦つく』(軽巡洋艦「夕張」を作った人物として登場。平賀という設計士の師匠という設定。)
- 関連人物
外部リンク
- 東京大学柏図書館・呉市海事歴史科学館所蔵 平賀譲デジタルアーカイブ
- プロジェクト『平賀文書の整理』
- 横断検索 - ジャパンサーチ(BETA)
- 日本大百科全書(ニッポニカ)『(平賀譲)』 - コトバンク
- 20世紀日本人名事典『(平賀 譲)』 - コトバンク
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 | 男爵 平賀(譲)家初代 1943年 | 次代 (平賀謙一) |