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小桜 葉子(こざくら ようこ、1918年3月4日 - 1970年5月12日)[1]は、日本の女優。日本における美容体操の草分け。本名は池端 具子[1](いけはた ともこ、旧姓:岩倉)。
こざくら ようこ 小桜 葉子 | |
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本名 | 池端 具子 いけはた ともこ |
別名義 | 岩倉具子(いわくら - 、旧姓名) 小桜葉子(芸名) 上原葉子(芸名) 峰森一早季 |
生年月日 | 1918年3月4日 |
没年月日 | 1970年5月12日(52歳没) |
出生地 | 日本・東京市麹町区霞ヶ関 |
職業 | 子役・女優 |
ジャンル | 映画 |
活動期間 | 1925年 - 1936年 |
配偶者 | 上原謙 |
著名な家族 | 長男 : 加山雄三 長女 : 池端亮子 |
来歴・人物
東京府東京市麹町区霞ヶ関(現 : 東京都千代田区霞が関)生まれ[1]。
1925年に小笠原プロダクションに子役として入り[1]、母のペンネームだった小桜葉子を芸名にする。1926年5月、松竹蒲田に入り、子役(令嬢の子供)として主演作もあり大活躍した。「明日天気になアれ」(島津保次郎監督)では主役を演じ、飯田蝶子、吉川満子などと共演[1]。数年で娘らしくなり人気が落ちた。ちょうどその頃、上原謙が松竹へ入りすぐにNo.1の二枚目スターとなった。上原は大人気のスター桑野通子とのロマンスが話題となっていたが、上原を射止めたのは小桜であった。1936年10月、上原と結婚、引退した[2]。1937年4月に長男(加山雄三)を出産[2]。
1952年、映画「お茶漬の味」に特別出演している(結婚後のため、上原葉子とクレジットされている)。
戦後、太り始めた夫の体型矯正のために体操と食事療法を学び、小桜式プッシュ体操を考えだした[2]。
1960年代に息子の加山雄三が映画で活躍している頃、小桜式美容体操の講師として活躍した。NETテレビ「アフタヌーンショー」へ出演、小桜葉子整美体操教室を経営した[1]。
1970年5月12日、子宮頸がんのため東京都豊島区の癌研究会附属病院に入院中、尿毒症からくる心不全のため死去[3][4]。満52歳没[2]。この数年前にスキーの事故で片方の腎臓を損傷、摘出したことから腎機能障害を患い、がんの発見が遅れ、わかった時には既に手遅れの状態だった。
親族
父は(岩倉具顕)(ともあき、具定の五男)で、明治の元勲・岩倉具視は曾祖父に当たる[2]。東伏見宮依仁親王妃周子(かねこ)は父方の伯母にあたる。弟の岩倉具憲は存命当時パシフィックホテルの社長であった。
母は松竹の大部屋女優の(青木しのぶ)(江間光子、光括)で[2]、母方の祖父に当たる江間俊一は弁護士で政治家で(江間式心身鍛練法)の開発者。
ひとつ年下の妹の昌子も(小桜昌子)の名で松竹の女優となった。義弟に俳優の(三原純)(昌子の夫。のちに芸名を青山五郎とした)がいる。妹の子がザ・ランチャーズの元メンバーの喜多嶋修(現在は音楽プロデューサー)と(喜多嶋瑛)であり、修の長女(小桜から見て大姪)が元タレントの喜多嶋舞。
関係人物
うつみ宮土理の体操の師匠である(川端麻記子)は彼女の弟子。つまりうつみは孫弟子に当たる。
出演映画
- 1925年
- (極楽島の女王) - 内藤礼子
- 1926年
- (いとしの我子)
- (美しき祷)
- (曲馬団の姉妹)
- (愚かなる母)
- 1927年
- (やつ当りこぶだらけ)
- 父帰る - 正国の娘・蝶丸
- (孤児)
- 1928年
- (天使の罪)
- (チンドン屋)
- (恋愛二人行脚) - 孤児・お留
- (踊れ若者) - 三公
- (彼女と海)
- (かぼちゃ) - 山田ちえ子
- (亀公)
- (輝く昭和) - 桜井弥生
- (三日目の女)
- 1929年
- (鵜の目鷹の目)
- (都鳥)
- (明日天気になあれ) - お嬢さん
- 1933年
- (しっかりせよと抱き起し)
- 1934年
- (娘三人感激時代)
- (与太者と花嫁) - 葉山みね子
- 1935年
- 1936年
- (結婚の条件)
- (素晴らしき空想)
- 男性対女性 - レヴューガール
- 1952年
- お茶漬の味 - 黒田高子
著書
- 『いつまでも若く美しくあるための食事療法と整美体操』文化服装学院出版局、1966
- 『よりすこやかに 食事療法の実際と小桜式プッシュ体操』文化服装学院出版局、1967
- 『太る体操・やせる体操 小桜葉子の整美体操』日本文芸社、1967
脚注
関連項目
外部リンク
- 日本映画データベース 小桜 葉子