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松竹蒲田撮影所

座標: 北緯35度33分38.8秒 東経139度43分05.6秒 / 北緯35.560778度 東経139.718222度 / 35.560778; 139.718222

松竹蒲田撮影所(しょうちくかまたさつえいじょ、1920年6月開所 - 1936年1月15日閉鎖)は、かつて存在した日本の映画スタジオである。大正期から戦前期にかけて、松竹キネマ現代劇映画のスタジオとして稼働。通称松竹蒲田

ニッセイアロマスクエア(松竹蒲田撮影所跡地に建つビルディング)

初期はハリウッドから技術者を招いたり、スター・システムを導入するなど日本映画黎明期をリードする撮影所となった。城戸四郎が撮影所長になってからは、通称:蒲田調と呼ばれる作品を連発し、一時代を築いた。小津安二郎成瀬巳喜男田中絹代高峰秀子等の映画人を輩出し、国産初の本格的トーキー映画を生み出したのも同撮影所である。

データ

  • 名称:松竹キネマ合名社蒲田撮影所 ⇒ 松竹キネマ株式会社蒲田撮影所
  • 所在地:東京府荏原郡蒲田村大字北蒲田(現在の東京都大田区蒲田5丁目37)
  • 面積:9,000坪 (29,752平方メートル)
  • 歴代所長
  1. 田口桜村(1920年 - 1921年
  2. 野村芳亭(1921年 - 1924年
  3. 城戸四郎(1924年 - 1936年)

略歴・概要

設立まで

1919年(大正8年)3月15日、演劇興行会社であった松竹合名会社は、白井信太郎松居松葉市川猿之助、山森三九郎[注釈 1]田中良の5人を欧米劇界の視察に派遣した[1][2]。同年8月に市川、山森、田中が帰国したが、白井と松居はユニバーサル社を視察し、10月末に帰国した[1]。かねてから映画界進出を考えていた社長の大谷竹次郎は、二人から海外の映画事業の活況を聞き、本格的に映画事業に進出することを決意した。

1920年(大正9年)1月、大谷を初め岡鬼太郎、松居松葉、田口桜村の四氏の協議で映画事業創立の計画が成立され、築地の松竹合名会社本社内に「松竹キネマ合名社創立事務所」をおいて、準備を進めた[2]。松竹キネマのキネマの名称は、新しい映画を作るイメージから岡鬼太郎が名付けた。

2月11日東京市京橋区築地3丁目9番地に「(松竹キネマ合名社)」を創立して映画製作・配給を発表、新聞紙上に従業員と撮影所用地の募集をした[2]。当時の職制は社長に大谷、副社長に白井信太郎、総務に松居、理事に田口、吉田克己(評論家)、支配人に玉木長之輔という顔触れだった[2]

3月22日アメリカから技術者を招聘するために田口桜村と玉木長之輔をアメリカに派遣。セシル・B・デミルの紹介でカメラマンのヘンリー・小谷を招聘、他に大道具技師のジョージ・チャプマン(チャップマンとも)、田中欽之の2人を招き入れることにし、撮影機材を購入して田口と山崎は6月初旬に帰国した[3]。また、4月1日には、木挽町歌舞伎座の裏手にある芝居茶屋「梅林」の二階に松竹キネマ俳優学校を開校し[4][5]市村座から招聘された小山内薫が校長となって[4] 俳優の養成を行った。同校の卒業生には鈴木伝明伊藤大輔らがいる。

撮影所は沼津千本松原などが候補地に挙がったが、本社の築地からも交通が便利だという理由で蒲田に決まり[2]、東京府荏原郡蒲田村(現在の東京都大田区蒲田5丁目)の中村化学研究所の跡地9,000坪と煉瓦造りの事務所1棟を買収し、グラスステージとダークステージをそれぞれ1棟ずつ建設、俳優学校もここに移した[5]

撮影所は6月25日にオープン。専属俳優の雇入れも行い、諸口十九岩田祐吉勝見庸太郎関根達発、柴田善太郎、大山武、嵐松五郎、川田芳子三村千代子花柳はるみ、静香八千代ほか40余名が所属した[2]。同時に職制も発表された。

撮影所の職制は以下の通り[注釈 2][1][5]

7月19日、ヘンリー小谷と田中欽之、ジョージ・チャプマンの3人が日本に到着。ハリウッド流の撮影・照明・編集技術を伝えた。碧川道夫の回想では、3人が着任するまでの撮影所は本物の映画製作のすべを知らない「半可通の人たちが、製作にかかった」ようなものであったという[7]

11月1日、蒲田撮影所設立第1作となる短篇映画『島の女』が、イタリア映画の『呪のオシリス』と共に歌舞伎座で上映された[2]。『島の女』は、山崎紫紅の原作を元に、小谷が撮影したもので、クローズアップやカット割りなどの技法が用いられた。本作はあくまでも歌舞伎座だけの特別上映であったため、一般に出回った実質的な第1回作品は小谷監督・伊藤大輔脚本による『新生』となった。

一方、撮影総監督兼俳優学校長の小山内薫は、芸術性をメインとした『奉仕の薔薇』と『光に立つ女』を作るが、(バタ臭い)などの理由で評判が良くなく、前者は公開を見送られてしまう。結局、映画界の革新を図った小山内らと商業主義派の監督たちとは反りが合わず、11月に小山内は松竹キネマ研究所の所長に任されて映画製作を行うこととなった。同研究所は翌年に解散し、小山内を始め所属者は撮影所に戻っている。

1921年(大正10年)4月28日帝国活動写真株式会社松竹キネマ株式会社に改称し、松竹キネマ合名社を吸収合併した。

蒲田調の完成

同年4月29日、ヘンリー・小谷監督・脚本・撮影の『虞美人草』が公開された。この作品は、新子安の海岸に中国風の大城砦のセットを作り、多くの人数を動員して項羽劉邦の合戦場面が撮影された[5]。主演の栗島すみ子のデビュー作でもあり、この映画のヒットと共に栗島も蒲田を代表するスター女優となった。

『虞美人草』公開後、撮影所長の田口桜村が本社の貿易部に引き上げられ、代わって野村芳亭が監督と兼任で撮影所長に就任した[5][8]新派出身の野村は、新派的題材の作品を製作路線とし、これらの作品は大衆に大受けした。この路線変更によってヘンリー・小谷、田中欽之、小山内薫らは松竹を去っている。また、スター第一主義の製作体制を行うためスター・システムを導入し、栗島すみ子、川田芳子、五月信子柳さく子など多くのスター女優が誕生した。

野村は賀古残夢とともに多くの新派的悲劇映画を作っていくが、伊藤大輔脚本で撮った『清水次郎長』(1922年)と『女と海賊』(1923年)では、「新時代劇映画」と銘打って、旧劇映画に現代劇俳優を出演させるなど、従来の歌舞伎調の旧劇映画とは異なる写実的な時代劇映画を作った。また、池田義信は、後の妻となる栗島を主演に多くの情話ものを撮り、その中でも1923年(大正12年)1月8日公開の小唄映画『船頭小唄』(共演:岩田祐吉)は大ヒットを記録した。牛原虚彦は、妻の三村千代子を主演に感傷悲劇を多く撮り、「センチメンタル牛原」と呼称された[9]。一方、島津保次郎は、ハウプトマンの『線路番テール』を翻案した『山の線路番』[9] 等の作品で、写実派の監督として評価された。

1923年(大正12年)9月1日関東大震災によって撮影所は壊滅。東京での製作が困難になったため、京都市松竹下加茂撮影所を建設してここに拠点を移した。野村をはじめ多くのスタッフ・俳優が京都へ移ったが、島津保次郎ら少数のスタッフが蒲田に残った。そこへ代理所長として赴任したのが城戸四郎だった。機能が京都へ移転した中、城戸は島津らと『蕎麦屋の娘』『お父さん』の製作に協力した。翌1924年(大正13年)1月に蒲田での映画製作が本格的に再スタートするが、7月に野村が下加茂撮影所の所長に異動(2年後蒲田に復帰)[注釈 5]し、柳さく子清水宏大久保忠素河村黎吉、志賀靖郎らが野村と行動を共にした。それにより、城戸が蒲田撮影所の所長に就任した。

城戸は、従来の新派的な路線や、スター優先の製作体制を排し、明朗で健康的な近代的感覚の映画作りを目指した。監督主導の体制を採用し、母性愛を主とした女性映画の製作を推進させ、青春映画や喜劇映画を路線に加えて、庶民の日常生活から題材を求めた小市民映画をスタイルとして確立した[12]。これらは蒲田調と呼ばれ、後に大船に撮影所が移転してからもスタイルは引き継がれた。また、城戸はシナリオの重要性に着目し、脚本部を強化した。

島津保次郎は、サラリーマン喜劇の『日曜日』で蒲田調の先陣を切り、写実派として『嵐の中の処女』(1932年)、『隣の八重ちゃん』(1934年)などを発表。牛原虚彦は、鈴木傳明とコンビを組んで明朗快活な青春映画を製作して人気を得た。五所平之助は『からくり娘』(1926年)や田中絹代の主演で『伊豆の踊子』(1933年)、『人生のお荷物』(1935年)等を発表。清水宏は『若旦那』シリーズなどの娯楽映画を撮り、ロケーションを多用した実写的作品で後に評価された。小津安二郎は『東京の合唱』(1931年)、『大人の見る繪本 生れてはみたけれど』(1932年)などの喜劇作品を撮り、蒲田を代表する監督となった。また、ナンセンス喜劇と呼ばれるスラップスティック・コメディ映画を意識した短編喜劇映画も作られ、斎藤寅次郎らがその分野で活躍した。

やがて、土橋武夫・晴夫兄弟が撮影所内でトーキーの研究に取り組み、 1931年(昭和6年)4月、五所平之助監督によるスタジオで製作する全編トーキー映画『マダムと女房』の撮影を開始。しかしテスト段階で、撮影所内の騒音が入り込むことが判明し、一ヶ月を費やしてスタジオに防音工事が施された[13]。映画は無事完成し、同年8月1日帝国劇場で「国産初の本格的トーキー」と銘打って公開された。

終焉・その後

トーキー化に伴い、町工場騒音の多い蒲田では撮影に支障をきたすようになり、1936年(昭和11年)1月15日神奈川県鎌倉郡大船町(現在の鎌倉市大船)の松竹大船撮影所(現存せず)に全機能を移転する。同撮影所は閉鎖、高砂香料工業に売却され、16年の松竹蒲田の歴史に幕を閉じるが、この地で製作した映画は1,200本を超えた。

現在、同撮影所の跡地には大田区民ホールアプリコが建っており、同館地下1階には撮影所の模型が展示されているほか、1階エントランスには撮影所前に架かっていた「松竹橋」の親柱が展示されており、敷地前には映画「キネマの天地」の撮影で使用された松竹橋親柱と欄干の複製品が設置されている。

主な所属者

監督
小山内薫野村芳亭ヘンリー・小谷村田実賀古残夢池田義信大久保忠素島津保次郎牛原虚彦五所平之助清水宏
小津安二郎斎藤寅次郎重宗務成瀬巳喜男野村浩将豊田四郎
脚本家
伊藤大輔野田高梧伏見晁池田忠雄北村小松柳井隆雄、小田喬、村上徳三郎、吉田百助
撮影技師
水谷文二郎野村昊碧川道夫茂原英雄小原譲治、桑原昴、小田浜太郎、三浦光男、浜村義康
その他スタッフ
水谷浩(舞台設計)、脇田世根一(舞台設計)、田邊憲治(照明技師)、吉村公三郎(監督助手)、増谷麟(現像技師)
男優
岩田祐吉諸口十九勝見庸太郎井上正夫関根達発藤野秀夫鈴木傳明正邦宏新井淳島田嘉七岡田時彦高田稔
大日方伝斎藤達雄河村黎吉奈良真養坂本武日守新一結城一朗渡辺篤吉谷久雄小林十九二山内光江川宇礼雄
小倉繁笠智衆
女優
栗島すみ子川田芳子五月信子柳さく子、三村千代子、林千歳、英百合子松井千枝子八雲恵美子筑波雪子田中絹代
川崎弘子龍田静枝水久保澄子飯田蝶子吉川満子岡村文子葛城文子若葉信子松井潤子伊達里子井上雪子花岡菊子
坪内美子出雲八重子
子役
突貫小僧小藤田正一高尾光子加藤清一菅原秀雄高峰秀子藤田陽子

エピソード

  • 1933年(昭和8年)11月、撮影の合間に飯田蝶子、小林十九二、奈良真養、吉川満子らが麻雀に興じて居たところ、火鉢の底が焼けて床板に燃え移りボヤを出す騒ぎとなった。幸いにも大きな火事にはならなかったが、この時の面々は翌1934年(昭和9年)3月、麻雀賭博の容疑で多くの文士らとともに一緒に検挙されている[14]

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ 石川県出身で、当時松竹の巡業部長をしていた
  2. ^ 松竹キネマ合名社の職制は、社長:白井信太郎、総務:松居松葉、相談役:大谷竹次郎白井松次郎、理事長:大谷、理事:小山内薫木村錦花、吉田克己(評論家) 、山森三九郎、田口桜村、玉木長之輔、野村芳亭、外交部長:井上宅治、撮影部長:田口、営業部顧問:野村、技芸顧問:岡鬼太郎、建築顧問:前田長久、常務主事:瀬川露香となっている
  3. ^ 後に蒲田撮影所次長に就任
  4. ^ 斎藤佳三(1887年 - 1955年)は、秋田県由利郡矢島町出身の美術家音楽家で、国民服の考案も行った人である[6]
  5. ^ 野村の異動の理由には、野村と柳さく子とのスキャンダルによる懲罰措置による左遷[10] と、時代劇部門の強化を目的とした[11]、2つの説がある

出典

  1. ^ a b c 『松竹百十年史』
  2. ^ a b c d e f g 『日本映画事業総覧 昭和二年版』(国際映画通信社)
  3. ^ 田中純一郎著『大谷竹次郎』
  4. ^ a b 三國一朗著『徳川夢声の世界』
  5. ^ a b c d e 田中純一郎著『日本映画発達史I 活動写真時代
  6. ^ 秋田県立秋田高等学校同窓会
  7. ^ 碧川道夫著『カメラマンの映画史 碧川道夫の歩んだ道』
  8. ^ 佐藤忠男著『日本の映画人 日本映画の創造者たち』
  9. ^ a b 筈見恒夫著『映画五十年史』
  10. ^ 岸松雄著『人物 日本映画史』
  11. ^ キネマ旬報社編『日本映画俳優全集・男優編』
  12. ^ 『現代映画用語辞典』
  13. ^ 松竹初のトーキー「マダムと女房」『東京日日新聞』昭和6年5月11日(『昭和ニュース事典第4巻 昭和6年-昭和7年』本編p27 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  14. ^ 蒲田の俳優ら検挙者は三十五人に『東京朝日新聞』昭和9年3月18日(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p615 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)

関連項目

外部リンク

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