世襲貴族(英語: hereditary peer)とは、爵位を世襲できるイギリスの貴族のことである。
イギリスでは一代貴族、法服貴族、聖職貴族など非世襲の貴族が存在するため、それと区別するための分類である[1]。2021年11月現在総計809家の世襲貴族家が存在する。内訳は公爵家30家(うち王族公爵が6家)、侯爵家が34家、伯爵家が191家、子爵家が111家、男爵家が443家である。
歴史
黎明期の貴族制度
エドワード懺悔王(在位:1042年 - 1066年)の代にはすでに貴族の爵位の原型があったようである。エドワード懺悔王はイングランドを四分割して、それぞれを治める豪族にデーン人が使っていた称号"Eorl"を与えたという。ただこの頃には位階や称号が曖昧だった[2]。
確固たる貴族制度をイングランドに最初に築いた王は征服王ウィリアム1世(在位:1066年 - 1087年)である。彼はもともとフランスのノルマンディー公であったがエドワード懺悔王の崩御後、イングランド王位継承権を主張して1066年にイングランドを征服し、イングランド王位に就いた(ノルマン・コンクエスト)。重用した臣下もフランスから連れて来たノルマン人だったため、大陸にあった貴族の爵位制度がイングランドにも持ち込まれた[3]。
ウィリアム1世によって最初に制度化された貴族称号は伯爵(Earl)であり、1072年にウィリアム1世の甥にあたる(ヒュー)に与えられたチェスター伯爵(Earl of Chester)がその最初の物である[注釈 1]。伯爵は大陸では"Count"と呼ぶが、イングランドに導入するにあたってウィリアム1世は、エドワード懺悔王時代の"Eorl"を意識して"Earl"とした。ところが伯爵夫人たちには"Earless"ではなく大陸と同じ"Countess"の称号を与えた。これは現在に至るまでこういう表記であり、伯爵だけ夫と妻で称号がバラバラになっている[2][6]。
14世紀初頭まで貴族身分はごく少数のEarl(伯爵)と大多数のBaron(男爵)だけだった。初期のBaronとは貴族称号ではなく直属受封者を意味する言葉だった[7][8]。Earlのみが、強力な支配権を有する大Baronの持つ称号であった[9][10]。
Baronについては13世紀から14世紀にかけて大baronのみを貴族とし、小baronは騎士層として区別するようになりはじめ、baronという言葉も国王から(議会招集令状)(Writ of summons)を受けてイングランド議会に出席し、それによって貴族領と認められた所領を所有する貴族を意味するようになっていった[11][12]。一方召集令状を受けない小Baron(騎士)は州裁判所を通して州代表として議会に入るようになる[13]。
勅許状による貴族制度の成立
しかしヨーロッパ大陸から輸入された公爵(Duke)、侯爵(Marquess)、子爵(Viscount)が貴族領の有無・大小と関わりなく勅許状(Letters patent)によって与えられる貴族称号として登場してくると、Baronも所領保有の有無にかかわらず勅許状によって与えられる最下位の貴族称号(「男爵」と訳される性質の物)へと変化した[9][12]。国王勅許状による称号としての男爵(Baron)位を最初に受けたのは1387年にキッダーミンスター男爵(Baron of Kidderminster)に叙された(ジョン・ド・ビーチャム)である[9]。勅許状による貴族称号には議会出席権が付随しており、国王の議会召集令状を受けなくても議会に出席できる[9]。
貴族称号の最上位である公爵(Duke)は、1337年にエドワード3世(在位:1327年 - 1377年)が皇太子エドワード黒太子にコーンウォール公爵(Duke of Cornwall)を与えたのが最初の事例である[5]。ついでヘンリー3世の曾孫ヘンリーにランカスター公爵(Duke of Lancaster)位が与えられたことで公爵位が貴族の最上位で王位に次ぐ爵位であることが明確化した[14]。臣民で最初に公爵位を与えられたのは1483年にリチャード3世(在位:1483年 - 1485年)よりノーフォーク公爵(Duke of Norfolk)に叙せられたジョン・ハワードである[15][16]。侯爵(Marquess)は、1385年にオックスフォード伯爵ロバート・ド・ヴィアがダブリン侯爵(Marquess of Dublin)に叙されたのが最初であり、子爵(Viscount)は1440年に(第6代ボーモント男爵ジョン・ボーモント)に(ボーモント子爵)(Viscount Beaumont)位が与えられたのが最初である[17]。
15世紀以降には新貴族叙任はこの勅許状による貴族称号創出で統一された[9][18]。所領の保有は貴族たることの前提条件ではなくなり、またその称号に冠されている地名が受爵者の所領であるとは限らなくなった。1328年創設のマーチ伯爵が受爵者の所領と無関係な最初の称号である[9]。
近世・近代の世襲貴族の急増
中世末から16世紀のテューダー朝まで世襲貴族の数は概ね50家に留まっていた。しかし17世紀のステュアート朝が王庫の金欠から爵位を間接的に「売り」に出したために最初の爵位乱発が発生した[19]。これにより17世紀末までに上院世襲貴族の数は170家に増加した[20][21]。
つづいて18世紀に成立したハノーファー朝は爵位乱発の傾向を一層強めた。上院世襲貴族の数は18世紀末までに270家、1830年代には350家、1870年代には400家、1885年には450家と急増の一途をたどる[20]。近代に入って貿易や商業で財を為した成金が貴族に列せられることが増えたためである。その彼らも100年、200年と時がたつと由緒ある伝統的貴族として君臨しているようになる[22]。
20世紀に入ると非保守党系の首相たちが貴族院の保守党偏重状態を緩和しようとして更に爵位を乱発させた。とりわけ1916年から1922年まで首相を務めた自由党のデビッド・ロイド・ジョージ(後の初代ドワイフォーのロイド=ジョージ伯爵)は91の爵位を、1945年から1951年まで首相を務めた労働党のクレメント・アトリー(初代アトリー伯爵)は98の爵位の新設を上奏している。その結果、貴族院改革があった1999年時点で世襲貴族家は750家にも達していた[23]。
しかし1958年に一代貴族法が成立し、一代貴族制が誕生すると新規の世襲貴族叙爵は減少した。1984年に元首相ハロルド・マクミランがストックトン伯爵に叙されたのを最後に臣民への世襲貴族叙爵は途絶えている(王族への叙爵はその後もある)。
爵位について
世襲貴族の爵位は創設時に応じてイングランド貴族、スコットランド貴族、グレートブリテン貴族、アイルランド貴族、連合王国貴族の別があり、それぞれ公爵(Duke)、侯爵(Marquess)、伯爵(Earl)、子爵(Viscount)、男爵(Baron)の5等級から成る(スコットランド貴族の男爵位は貴族ではなく、スコットランド貴族の最下級の爵位はロード・オブ・パーラメント(議会の卿)である)[24]。
ただし唯一の例外として、カナダのケベック州の土地を領地とするロンゲール男爵のみに関しては、英国君主がフランス王家によって創設された爵位と認めて[25]、英国貴族の枠組みに取り込む形をとっている。
イギリス貴族の爵位は日本の華族の爵位のように公爵や伯爵という肩書を単独で与えられるのではなく、「ノーフォーク公爵(Duke of Norfolk)」(フィッツアラン・ハワード家)、「ダービー伯爵(Earl of Derby)」(スタンリー家)といったように称号名の一部として与えられる。称号名は地名が一般的だが、家名(姓)と同じ場合もある(例:スペンサー伯爵、ロスチャイルド男爵)[26]。
爵位継承について
兄弟全員が継承できる大陸の爵位と違って、イギリスの爵位は常に一人だけが相続する。爵位は終身であり、原則として生前に譲ることはできない(例外として繰上勅書がある。これが出されると従属爵位の一つが法定推定相続人に生前移譲され、法定推定相続人も貴族院議員に列する)。爵位保有者が死去した時にはその爵位に定められた継承方法に従って爵位継承が行われる。したがって爵位保有者が自分で継承者を決めることはできないし、養子を取ったとしても爵位継承順位には影響を及ぼさない[27][28]。該当者がなければその爵位は消滅する[28]。
またかつて爵位継承を拒否することはできなかったが、貴族院が庶民院に対して劣後していく中で貴族に庶民院議員資格がないことが問題となり、1963年に貴族法が制定されて爵位継承から1年以内(未成年の貴族は成人後1年以内)であれば自分一代に限り爵位を放棄して平民になることが可能と定められた[29]。
勅許状によって創設された爵位は大半が継承方法として「初代の直系の嫡出の男系男子」と定めており[30]、この場合は娘や初代前に遡った分流や非嫡出子は継承し得ない。ただ、爵位によってはそれと異なる継承方法の特別継承者(Special remainder)の規定が定められた爵位もあり、その場合はその継承方法に従う。したがって特別継承者の規定で継承が規定されていれば、女子も爵位を継承しえる[31]。
また(議会招集令状)によって創設された古いイングランド貴族男爵位は継承方法が定められていないため、当時のイングランド相続法に従って男子なき場合に女子が継承する[30][31]。ただし、この場合は姉妹全員が共同相続人となるため(長女が次女に優越しない)、姉妹やその系統がある場合には爵位継承者を決められなくなり、その爵位は停止 (abeyance)となる[31]。停止後時代がたてばたつほど、姉妹の子孫がどんどん増えていくため、停止状態の解除は難しくなる[31]。そのため議会招集令状による男爵位は多くが停止状態になったままになっている[32]。停止状態となった爵位は権利のある者が国王に申し立てを行い、手続きを経れば継承できる。327年に及ぶ停止を経て1921年に継承が行われた(ストレンジ男爵)や440年に及ぶ停止を経て1903年に継承が行われた(フォーコンバーグ男爵)のような事例も存在する[31]。
また古いスコットランド貴族の爵位(特にイングランドと同君連合になる前の爵位)は、男子なき場合に女子(長女優先)が継承できるのが通例である[31][33]。
しかし女性本人が爵位を持つことは極めて稀である。1880年時には580人の世襲貴族中「自らの権利として爵位を持つ女性貴族(peeress in her own right)」は7人に過ぎなかった[34]。
なお貴族が蒸発して生死不明になった場合は、裁判所の死亡宣告を得ることで爵位継承が認められる。近時の例では1974年に第7代ルーカン伯爵ジョン・ビンガムが、別居中の妻の家で子供たちの乳母サンドラ・リベットが殺害された後に失踪してリベット殺害の容疑がかかったが、その後ずっと行方不明になっている件について、息子の(ジョージ・ビンガム)がロンドン高等法院に父の死亡認定の申し立てを行い、2016年2月3日にロンドン高等法院から認められたことで第8代ルーカン伯爵位を継承している[35][36]
従属爵位と儀礼称号
イギリス貴族の爵位は複数所持することができる。日本の華族の爵位のような上書き方式ではないので、上位の爵位を与えられても下位の爵位が消滅することはない。伯爵以上の貴族は主たる爵位より下位の従属爵位を併せ持っているのが普通であり、その法定推定相続人(最年長の息子)は父が持つ二番目の爵位を儀礼称号(courtesy title)として使用する(父と区別がつかなくなるので主たる爵位と同じ名前の爵位は避ける)[30][37]。ただし、その家の持つ爵位がすべて同名の場合は領地や姓に因んだ爵位を儀礼称号として仮冒する。例えば、タウンゼンド侯爵家は侯爵位の従属爵位にタウンゼンド子爵位・タウンゼンド男爵位しか持たないため、侯爵家の嫡男は領地に因んだ称号のレイナム子爵を名乗る[38]。k
また、儀礼称号は爵位を実際に保有している訳ではなく、ゆえに法的には貴族ではなく平民である。したがって法定推定相続人に貴族院議員資格はなく、代わりに平民として庶民院議員資格を有している[39]。区別の方法として爵位にはtheが付くが、儀礼称号の場合はtheが付かないという表記の違いがある[40]。
主たる爵位と従属爵位が継承方法や継承資格者が違えば、異なる者に継承されることや、主たる爵位だけ廃絶して従属爵位は存続するといったケースも当然起こりえる[41]。
貴族院における地位
1999年まで世襲貴族で成人に達している者は原則として全員が貴族院議員であった(ただし女性世襲貴族は1963年まで貴族院議員になることはできなかった。1963年の貴族法で女性世襲貴族を男性世襲貴族と同等に扱うことが定められた。また1963年までスコットランド貴族とアイルランド貴族は貴族代表議員に選ばれた者以外議席を有さなかった。アイルランド貴族の貴族代表議員制度は1922年のアイルランド独立の際に終わり、スコットランド貴族は1963年貴族法によって全員が貴族院議員に列した)[42]。
貴族院は長年にわたって世襲貴族を中心に構成されてきた(ただし登院者は少数だった)。しかし1958年に一代貴族法が制定され、以降貴族院の一代貴族の割合は漸次増加し、1998年2月の時点では世襲貴族は貴族院の59%(759名)まで減少した(対して一代貴族は当時484名)[43]。そして1999年のトニー・ブレア政権の貴族院改革によって世襲貴族の貴族院議員枠は92議席に限定されたので現在は大多数の世襲貴族が貴族院に議席を有していない状況である[44][45]。
貴族院での活動において爵位の等級に重要性はない[43]。貴族院議員たる貴族は庶民院議員資格や庶民院議員選挙権を有さないが、貴族院議員ではない貴族は有する。
なお、院外においても爵位の等級の差を傘にきた振る舞いは好まれず、小説家オスカー・ワイルドも『紳士であることに違いはないのである。爵位の問題は紋章の問題である。それ以上でもそれ以下でもない。』と述べている[30]。
歴史ある貴族の少なさ
1999年時点でイギリス上院に世襲貴族家は750家存在していたが、その大半は20世紀中に爵位を受けた新興貴族である[46]。イギリスの爵位は原則として男系男子のみに世襲されるので、男子相続人を欠いて絶家する例が多く、長期にわたって存続するのが極めて困難なのが原因である[47]。中世から貴族であった家で現存しているのは数えるほどしか存在していない[48]。
財産状況
20世紀以前、イギリス貴族は大半が大地主だった。保守党の地主議員ベイトマンは著書の中で1870年代の大地主を3000エーカーの土地を保有し、かつ3000ポンド以上の地代がある者と定義している。つまり約1200(町歩)の土地が必要だった。日本の地主は、地租改正後、明治から大正にかけて地主制が最も発展したとされる時期にあっても、50町歩(125エーカー)もあれば「大地主」と呼ばれていたことと比較すれば、英国大地主たちが持つ3000エーカーの広大さが理解される。当時英国最大の大地主だったサザーランド公爵ルーソン=ゴア家に至っては135万854エーカー(約33万6274町歩)の土地を所有していた。当時の日本で最大の地主だったのは島根県の山林を中心に2万8000町歩(11万3120エーカー)の土地を所有した田部家だが、サザーランド公爵家の所有する土地は実にその10倍以上である。英国大地主たちの所有する土地がどれほど桁外れの広大さだったかが分かる[49]。
しかし広大な土地と屋敷を維持するだけでも費用がかさむうえに[50]、20世紀に入ってからは相続税の賦課等により経済的に没落する貴族が現れるようになった[51]。特に第二次世界大戦後のアトリー政権の社会主義的政策によって貧富の格差が縮められたことで貴族の所領経営は危機的状況に陥った[52]。
1946年には相続税の最高税率90%という貴族に過酷な引き上げが行われた[53]。これは1954年には改正されて緩和されたものの[54]、それまでに多数の貴族が壊滅的打撃を受けた。デヴォンシャー公爵家[55]やベッドフォード公爵[54]などは、直撃を被って本邸以外のすべての土地の売却を迫られた。現代では必ずしも貴族が裕福というわけではなくなっている[50]。セント・オールバンズ公爵やリンスター公爵のように本邸を含めた全土地を失って賃貸住宅暮らしに落ちぶれた公爵も存在する[51]。
1895年に創設された歴史的建造物の保護団体ナショナル・トラストに屋敷や敷地の管理を委託し、邸宅の一部をホテルや博物館として有料公開し、その収入でやりくりしている貴族も多い[50]。
しかし経済状態は家ごとに大きな差があり、うまく立ち回って、いまだ巨万の富を維持する大地主貴族も少なくはない[51]。たとえばロンドン屈指の高級住宅街メイフェアを中心に莫大な土地を所有する第6代ウェストミンスター公爵ジェラルド・グローヴナーは、巨額の資産を活用してグローブナー・グループという巨大な不動産企業のオーナーとなり、アメリカやオーストラリアや日本など世界17カ国でホテル事業などのビジネスを展開した[50]。2015年の(サンデー・タイムズ・リッチ・リスト)によれば総資産額は約85億6,000万ポンド(約1兆5,408億円)で英国内で経済活動する者(外国人含む)の中で第9位という資産家である[56]。
大陸貴族との違い
英国貴族は大陸の貴族と違い法的な特権がほとんどなかった。行政・軍事における高級の地位が保障されることはなく、土地所有について税金を支払い、権利争いにおいては所有地内で暮らしている者から起訴されることもあった[57]。
イギリスは一方で強固な階級関係を維持しながら、その階級関係は固定的ではなく財産の上昇や下降で変わっていく流動的なものだった。特に「紳士」(ジェントルマン)という高度に階級的な表象は、やがて社会の最底辺まで下降するだけの流動性を有していた[58]。
旧体制フランスの貴族は自分たちの特権に固執したので閉鎖的なカーストとなり、その結果フランス革命で破局を迎えることになるが、英国貴族や紳士は貧民の保護を自らの義務・名誉と心得ていたので積極的な慈善事業を行ったし、特権も適時に徐々に手放したので、閉鎖的なカーストとならず、むしろ無限に社会の底辺にまで広がっていた。「労働貴族」(熟練労働者が未熟練労働者と徒弟に対してあたかも貴族であるかのように教育と保護の義務を負う)の概念はそれを象徴する。19世紀フランスの歴史家フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾー、フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアン、アレクシ・ド・トクヴィル、イポリット・テーヌらがそろってイギリス貴族制を「義務・責任を負った貴族制」(ノブレス・オブリージュ)として羨望と賞賛の言葉を送っている所以である[59]。
貴族の長男以外の子女について
「ヤンガーサン」
イギリス貴族の次男以下の息子は「ヤンガーサン(younger son)」と通称される。あるいは「カデット(cadet)」と呼ばれることもある[60]。爵位を継承できるのは長男(eldest son)だけなので、ヤンガーサンは兄が男子なく死んで爵位を継承するか、自身が新規に爵位を与えられない限り平民である[61]。また財産面でもイギリス貴族は、長子相続制(primogeniture)と(限嗣相続)制(entail)によって長男のみが爵位と屋敷と土地を相続する制度をとっており、貴族の土地は相続時の契約で分割不可能であるため、ヤンガーサンに分け前はない[39][62]。これは貴族の土地の細分化を防ぐ意味があった[58]。
ヤンガーサンにも長男と同じような教育が与えられたが、長男のように土地収益で生活することはできないので、大人になると何らかの職業に就いて生計を立てることが要求された[63]。ヤンガーサンが就いた主な職業は「専門的職業」(professions)が多く、たとえば陸海軍士官、外交官、聖職者、法廷弁護士(barrister)などである。金融や貿易に携わる者もあった[64]。ヤンガーサンは名誉称号以外は一般の紳士とほぼ変わりない存在だったといえる[58]。
これは土地収益で暮らす「アッパー・クラス」に生まれ育ちながら、大人になると誰かから報酬をもらって生活する「ミドル・クラス」に落ちるということでもある。このことを指して歴史学者ローレンス・ストーンとジャンヌ・C・フォーティヤ・ストーンは、イギリス貴族のヤンガーサンはヨーロッパと違って常に階級的に「下に移動」したと表現する[65]。歴史研究者ローリー・ムーアは「これらの職業に就いた良い家柄のヤンガーサンのほとんどは社会階層が下がるわけだが、一方でブルジョワの息子たちは、自分たちの父親より高い地位(社会的な意味であって、必ずしも経済的に高くなるわけではない)を手に入れてそれを守っていくことを試みた」とし、それにより貴族のヤンガーサンとブルジョワの息子は、摩擦を抱えながらも出自を超えた仲間意識、職業への集団的な帰属意識を持つようになり「アッパー・ミドル・クラス」と呼ばれる階級を形成したとする[65]。
貴族の長男とヤンガーサンではあまりに財産や地位が違いすぎるため、ヤンガーサンは社交界において貴婦人から避けられる存在だったという[61]。そのため「アッパークラス」の女性との結婚は難しく、多くの場合「ミドルクラス」から妻をもらうことになった[66]。
一方でヤンガーサンは爵位や財産がなくとも、親や祖父母から貴族的な言葉遣いや慣習を叩きこまれているために「アッパークラス」との密接な関係者であるという自負心を持つ者は多かった[67]。ヤンガーサンには身を立てようと勉学に励む者も多く、政治家、軍人、法律家、学者、植民地行政官などになって18世紀から19世紀の大英帝国の繁栄を支えたといわれる[39]。
なお19世紀のヨーロッパ大陸では長子相続制・限嗣相続制が多くなかったため、土地の分散化問題が起こったし、爵位が長男以外にも与えられることから貴族インフレが起きて爵位の価値も低下した。対してイギリス貴族は、ヤンガーサンを「ミドルクラス」に送り込むことによって土地財産を維持するとともに爵位を価値ある物として続かせることに成功し、ヨーロッパ貴族の中でも稀有な存在となった[68]。
公爵家と侯爵家のヤンガーサンは「ロード(Lord,卿)」の儀礼称号をファーストネームに対して使用できる(あくまで儀礼称号にすぎず、身分は平民である)。伯爵家のヤンガーサンと子爵・男爵の息子(長男含む)は「ジ・オナラブル(The Honourable,閣下)」の敬称で呼ばれる[69][70]。
貴族の令嬢
前述のとおり一部の例外的な爵位を除いて原則として女子は爵位を継承できない。また財産面でも長子相続制と限嗣相続制により、まず長男、それが絶えれば次男、息子の血筋が全て絶えれば、男系血筋で最も近い男性親戚が相続するため、女子が分け前を得られる可能性はヤンガーサン以上に低い。女子は結婚により他家に入ることになるので、他家に財産を持っていかれるのを防止するため女子には財産を渡さなかった[71]。「息子ができず、娘しかいない貴族家は爵位も土地も財産もすべて遠縁の親戚男子に渡ってしまう。」この現象は1831年のジェーン・オースティン著『高慢と偏見』から2010年代のドラマ『ダウントン・アビー』に至る迄19世紀から20世紀の英国を描いた作品でよく描かれるところである[71]。
貴族の娘たちは勉強部屋を出る年になると社交界デビューした[72]。社交界にでたばかりの未婚女性をデビュタントと呼ぶ[73]。一般に正式なデビューとみなされるのは、王宮での初拝謁(presentation at court)である。母親か既婚の親族女性により王室に紹介されることであり、この儀式を経て一人前の淑女と認められるようになった[74]。貴族令嬢の社交活動で最も重要なのは結婚相手を見つけることである。土地と屋敷と財産を独り占めにできる爵位持ちかその長男が相手として理想だが、そうした者は希少なので貴族令嬢たちの間で取り合いが激しかったという[75]。財産を相続できないヤンガーサンは嫌われて避けられたという[61]。
伯爵以上の貴族令嬢は「レディ(Lady, 嬢)」、子爵以下の貴族令嬢は「ジ・オナラブル(The Honourable,閣下)」の敬称で呼ばれた[69][70]。
脚注
注釈
出典
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参考文献
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