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ランボルギーニ・ミウラ

ランボルギーニ・ミウラLamborghini Miura )は、イタリアランボルギーニが開発・製造した横置きV12エンジンのミッドシップスポーツカーである。

ランボルギーニ・ミウラ
P400 x P400S x P400SV
概要
販売期間 1966年1973年
デザイナー ベルトーネ
ボディ
乗車定員 2人
ボディタイプ 2ドアクーペ
駆動方式 MR
(パワートレイン)
エンジン V型12気筒 3.9L(P400,P400S,P400SV)
最高出力 350HP/7500rpm(P400)
370HP/7700rpm(S)
385HP力/7850rpm(SV)
最大トルク 37.5kg·m/5100rpm(P400)
39.0kg·m/5500rpm(S)
40.7kg·m/5750rpm(SV)
変速機 5速MT
車両寸法
ホイールベース 2,500mm(P400・S)
2,504mm(SV)
全長 4,360mm
全幅 1,700mm(P400・S)
1,780mm(SV・SVJ)
全高 1,080mm(P400・S)
1,100mm(SV)
車両重量 980kg/1040kg(P400)
1,075kg(S)
1,245kg(SV)
その他
車台が共通の車種 ランボルギーニ・イオタ
系譜
先代 ランボルギーニ・350GT
後継 ランボルギーニ・カウンタック
(テンプレートを表示)

概要

 
ミウラの特徴的なルーバー式リアカウル

1966年3月ジュネーヴ・モーターショーにて発表され、1966年から1973年までに759台[1]が生産された。

ベルトーネマルチェロ・ガンディーニによる流れるようなスタイルの2シータークーペでV型12気筒エンジンをミッドシップに横置きし、発表時のプレス向け主要諸元によれば350馬力、980kg、最高速度300km/hとされていた。計測には不向きな夏場の実測データではミウラSで278km/hというデータが残っている[2]。当時12気筒の大排気量をミッドシップに積んだクルマは前例がなく、のちに各メーカーとも類似のGTカーを登場させた。

当時ミッドシップスポーツはいくつかが市販されていたが、ミウラのような大排気量横置きミッドエンジンのものは無く開発は難航した。シャーシ設計およびミウラの開発プロジェクトの発案者はジャンパオロ・ダラーラ。ジョット・ビッザリーニ設計のランボルギーニ・1号エンジンをミウラ用に改良したのはパオロ・スタンツァーニ。シャーシの製造はランボルギーニ350GTVからその製作を請け負って信頼のあるマルケージ社で製作されている。

ミウラも販売して半世紀以上の時が経ち、事故や故障、ボディ腐敗、致命的なエンジントラブルなどで廃車になり、特にクラッシックカーの価値観の低い時代の1980年~1990年半ばにかけて激減してしまい、今は現存数も半数以下に減少している。

車名の由来

伝説の闘牛牧場ミウラ[3]、のオーナーのスペイン闘牛飼育家ドン・アントニオ・ミウラにちなんで命名された。これ以降ランボルギーニは闘牛関連の車名が続く。リアのMiuraのバッジも闘牛のようにアレンジされ、ミウラのドアを全開にし、前から見た姿はまさに大きく立った角をもつ闘牛のようである。

開発とモデルチェンジの歴史

シャーシだけのモデル TP400

1965年11月にトリノで開催されたトリノ・オートショーに4L V12エンジンをミッドに載せたシャーシのみのコンセプトモデルTP400が展示された。ボディーが無いばかりでなく、ミウラという名前もまだついていなかった。ミウラの重要な革新は、12気筒エンジンを中央に設置することであったが、横置きに設置した事により、プロポーションをコンパクトに保ち、ある程度の重量配分とホイールベースの寸法が可能になった。スタンツァーニによると、「正直なところ、私たちはミニ[4]の先駆的なアイデアに触発された。ただし、Miniでは、ギアボックスはエンジンの下に配置されていて、ミウラには重心が高すぎ、だからそれをエンジンの隣に置いただけである。」当時ミッドシップエンジンはデ・トマソヴァレルンガで発表しているくらいで他のメーカーではFRレイアウトが通常だった。その後は欧州レーシングチームのシャーシとしても使われ、スポーツカーレイアウトの標準となるのはミウラが契機であった。ある時フェルッチオ・ランボルギーニはTP400をモナコのあるカジノの駐車場に置いた。非常に珍しいエンジンレイアウトのこの車はボディなしにも関わらずカジノに集まる富豪たちの視線を釘付けにした。頃合を見計らってエンジンが始動されると、TP400に群がる人々の数は倍にもなったという。ホイールはシングルボルトノックオフセットアップ(センターロック式)であった。

スタイリング

若いデザイナーのマルチェロガンディーニは、理想的なプロポーショナル要件に満足し、その技術的な「天才のストローク」を史上最もスタイリスト的に美しいスポーツカーの1つに変え、1966年3月のジュネーブショーでボディが架装された状態のミウラP400が発表され、流麗なスタイリングが注目の的となり100を越すオーダーが殺到した。 ジャンパオロ・ダッラーラがシャーシの完成度をあげる一方、ボディはデザインだけでなく製作も担当するという契約でベルトーネに任された。当時ベルトーネのチーフデザイナーは前任のジウジアーロから交代したばかりのマルチェロ・ガンディーニであった。ボディの設計とデザインはカロッツェリア・ベルトーネで、当時あたり前のようにミウラはジョルジェット・ジウジアーロの作品であると出版物に書かれたが、実際の原案スケッチから始まる一連の作業はすべてマルチェロ・ガンディーニであった。ジウジアーロがベルトーネ在籍時にデザインしたカングーロやテスチュード、さらに1964年にジウジアーロがISOを想定して書いた架空のミッドシップカーGRIFO A3/Cの正面図と側面図から、前任ジウジアーロのデザイン要素を抽出し、ベルトーネの伝統的なテイストを保持することをガンディーニが放棄しなかったこと。また、流行のボディスタイルが流線型からウェッジ・シェイプへと移る過渡期であったことと、ベルトーネ・チーフスタイリストの交代が重なったということから生まれた誤解であった。

翌1966年3月ジュネーヴ・モーターショーにボディを乗せてミウラが公開され、ヘッドライトは点灯時のみ前方に浮き上がるポップアップ・ヘッドライトを採用した。見た目のエレガントさとは相反して荒々しいであり、リアカウル開閉の都合上、ボディ後端に取り付けられたマフラーカッターはエキゾーストパイプと連結されておらず、この部分が咆哮のような排気音を作り出していた。またキャビン直後にはガラスと薄いバルクヘッドだけで仕切られたエンジンルームがあり、熱く騒々しかった。

当初フェルッチオ・ランボルギーニは「ミウラはショー・カーであり、ランボルギーニの他の車の販売促進に役立てばそれで充分」そして「生産は30台程度」と考えていた。実際、生産中の車の販売も良くなった。1967年から生産体制を一応は整えたが、その時点ではまだシャシ剛性の弱さ、リアヘビーによるハンドリングの欠点、パワートレーン系が出す騒音、冷却性能等いくつかの問題が解決しておらず、市販車として考えられていなかったミウラの完成度は高くなく、バックオーダーを抱えたランボルギーニは生産を続けながら改良を加え、ランボルギーニの公式な区分としてはP400P400S(単にSともいわれる)、を経て最終的にはリアサスペンション等が改良されたP400SV(同様にSVとも)と3つのグレードに区切られるが、実際のミウラはその全期間を通じて一台生産する毎に改良され続けた。つまり、変更は毎回なされ、それは機能改良ばかりでなく誤りの修正もあった。これはイタリアの小規模メーカーにはよくみられることではあり、同時期に作られたエスパーダ、後継車のカウンタックはこのようなことがなかったといわれている。

 
1967 Miura P400
 
Miura P400

P400

市販車として販売されるまでに何度も変更を繰り返したミウラだが、顧客が一刻も早い市販を望んだため、サスペンションセッティングなどを大まかに決めた状態で生産を開始してしまった。またドライブトレーンをコンパクトにまとめるためにエンジンとミッションの潤滑系を共有する設計がなされ、このために(リミテッド・スリップ・デフ(LSD))の採用も見送られた(同様の理由で初代ミニや殆どのモーターサイクルにも同じ構造が採用されている)。結果、高速走行時のフロントの落ち着きに欠け、コーナーでは急激なリバースステアに見舞われることもあったという。

販売された最初の一台は1967年3月に製作されたものである。グレードネームはP400とされた。Pは"Posteriore"(後ろ)でエンジンが後ろに位置していることから、400は排気量4L(3,929cc)の意味である。最高速度290km/hの350馬力出力エンジンを搭載している。外板の厚みが生産途中で0.9㎜から1.0㎜に変更されているため、車両重量は前期が980㎏で後期は1,040kgとなっている。ランボルギーニは当時はまだ風洞実験ができず、ニュージーランド出身の開発テストドライバー、ボブ・ウォレス(Bob Wallace)がこれに貢献している。彼は21歳でイタリアに渡り、ランボルギーニに来る前はフェラーリマセラティでレーサーとして活躍していたがマセラティで一緒だったジャンパオロが1963年に連れてきた。外観からはウインドシールドのモールがブラックである点で後のSと見分けられる。

ランボルギーニ・ミウラは扱いにくいことで有名だが、メンテナンス・サービスだけは別で、ベルトーネの設計はこの点がよく考えられていた。P400は、1967年に約110台(108台とも111台ともいわれる)が、1969年までに計274台が作られた。

 
1968 Miura P400S
 
Miura P400S

S

ミウラの絶え間ない改良は続き、1968年12月、370馬力に出力を向上させたP400Sとなる。"S"は"Spinto"で直訳すると「押された」という意味であるがミウラでは「チューンされた」という意味で使われた。さらに内装をよりグランツーリスモ化した仕様にした。車両重量は1.075㎏。重量増加や排気消音機能を上げたことで実際は20馬力アップした公式発表の馬力ほどのパフォーマンスはなかったという。等速ジョイントベンチレーテッド・ディスク・ブレーキが装備され、その後さらにモデル途中でのリアサスペンション強化もされた。インテリアはオーバヘッドコンソールの形状変更にパワーウィンドウが追加され、エアコンもオプションとしてモデル途中で用意されたがあまり効かなかったという。外観はウインドシールドのモールやヘッドライトのリムがブラックアウトからクロームになり、338台が生産された。ミウラをデザインしたベルト―ネ社では、後の見解でSこそがデザインバランスが良くエレガンズな装いをしているグランツーリスモカーと3シリーズ中の1番という見解をしている。

SV

 
Miura P400SV
 
Miura P400SV
 
SV(左)とS(右)

1971年3月、ジュネーブショーに385馬力7,850rpmまで出力を上げたP400SVが登場した。"SV"は"Sprint Veloce"で「より速い車(にチューンされた)」という意味で使われた。インテークを大きくし、キャブレターを変更、カムタイミングも変更してこの出力が達成されたが、リアサスペンションはそれまでの反転Aアーム+トレーリングリンクから、コンベンショナルなA型ロワーアームの新設計に改良され、リアカウルはフェンダー部に膨らみを持たせ上部のエッジを立たせた形状でワイドになっている。そこに収まるリアホイールはそれまでの7Jから9Jへとワイド幅となりピレリの255/60サイズのチンテュラート(CINTURATOラジアル)を履いている。機能を重視したことでベルト―ネ社の力作であるサイドラインのミウラ本来のデザインがバランスが悪くなったと苦い評価もされている。他にも外見の変更は、ヘッドライト周りの睫毛(まつげ)状のグリルがなくなりブラックに塗りわけられている。その下のフロントグリルも横長の楕円状だったものが上部中央が前方下部に張り出し、Sより口元を少し窄(すぼ)めた感じになっている。あわせてターニングランプも変更され、リアのコンビネーションランプは縦に3つに切り替えられ中心側にバックランプが組み込まれた。この世代からようやくエンジンとミッションの各潤滑系が分離され、オプションでLSDが用意されたが実際に装備されている車は少ない。絶え間ない変更により当初の設計目的がこのSVである程度実現した。147台が生産され、1973年10月製造の最後の車両の車体番号は"4822"で、ミウラ全体の生産台数は750台程であった。後継車のカウンタックでは1960年代後半に翼付きスピナー仕様のセンターロックホイールは禁止する安全規制が導入され、5穴ナットタイプにされた。

カスタムモデル

Zn 75

 
ミウラロードスター2013年にアメリア島にて

"Zn 75"は一台生産されたタルガトップ風コンバージョンモデルである。タルガ風だがルーフやサイドウィンドウはまったくない。"ILZRO(イルズロー) Zn 75"または"ILZRO(イルズロー) スパイダー(SpyderもしくはSpider)"とよばれることが多い。

ILZROとは国際鉛亜鉛研究機構(International Lead Zinc Research Organization, Inc.:ILZRO(イルズロー)米国ノースカロライナ州[1])のことで、非営利団体として産業界におけるおよび亜鉛利用のための研究開発をおこなう機関である。1966年当時、ILZROは自動車業界での新たな合金、コーティング方式、プレート利用、などの技術を開発しており、この新技術をより広めようと、それまでILZROの研究開発に参画していた企業だけでなく、デトロイトや米国内、さらには世界中の様々な自動車関連企業に対して広く宣伝しアピールするための"ドリームカー"を作ろうとしていた。

ILZROでは執行役員副社長シュレード・ラドケ(Shrade Radtke)がこれを取り仕切っていたが、彼は、このために、フォードの上級スタイリストデザイナー(ジョン・フォスター)(John Foster)にコンサルティングを依頼。当初、当時斬新なスタイルとして話題となっていたフォード・マスタングも提案されたが、スタイル変更についてフォード社自身が認めなかったという。ILZROと米国3大メーカーとの関係も考慮した結果、フォスターは1968年初頭にミウラを使うことを提案する。ベルトーネはこの提案を大歓迎したが、ランボルギーニのプロダクトマネージャー、パオロ・スタンツァーニ(Paolo Stanzani)はランボルギーニとしてモディファイすることは許可せず、当時すでにベルトーネとモーターショーに向けて製作中だったロードスターを使うことを提案した。

そのロードスターは、車体番号"3498"のミウラをベースとしてオープン・コンバージョンの製作がされていたもので、オープンカーとして300km/hに対応するため車高はミウラよりさらに30ミリ下げられ、ウインドシールドの角度も変更されていた。エンジンカバーとして設けられていたルーバーははずされ、エンジン部もオープンになっている。ロールバーが頭の後方に設けられ、このロールバーと(サイドメンバー)の強化によりある程度、剛性を保っている。ルーフに装備されていたスイッチ類はコンソールに移され、リアコンビネーションランプも変更された。このオープン仕様ミウラはその年のブリュッセル・モーターショーにミウラ・ロードスターとして出品される。

ショーの後、ILZROが買い上げ、ベルトーネはILZROと協力しコンバージョンをおこなう。パーツのほとんどは一度ばらされ、ILZROの推奨する亜鉛合金製やクローム製に置き換えられた。(展伸加工)された亜鉛合金製のバンパー、ドア、ラジエター、ステアリングホイール、シフトレバープレート、(押出形成)の亜鉛合金グリル、亜鉛コーティングされたホイールやマフラー鍛造(たんぞう)加工のギアシフトノブ、など、キャブレターからスイッチ一つ一つまで50箇所以上が変更された。通常明るい色を全体に配し暗色でディテールを仕上げ引き締めるというベルトーネだが、このときは金属の輝きを生かすためにボディはパールメタリック調ダークグリーンとなっている。

1969年5月に"Zn 75"として再び発表され、以後、世界各地のモーターショーでの展示、各国の自動車関連会社への貸し出しで"ショー・カー"として常に注目を集めた。

役割を終えた後オークションにかけられたが、生みの親シュレード・ラドケ自身が最高額を出し、彼の個人所有となる。1980年に一度全面リフレッシュされ、その後ラドケにより1981年2月にボストン交通博物館に寄贈される。長らくここに展示されたが、博物館でレストアの後、オークションで人手にわたる。再度オークションで英国のアルコール飲料メーカー、(ポートマングループ)の手に渡るが、この時はランボルギーニ・ミュージアムを設立するためと発表されていた。1990年から少なくとも1996年まで国内のヒストリックカー専門店にあった[5]後、日本マツダミュージアムのコレクションにあるはずであると多くの専門家が指摘していたが、白のレザーシートに赤いカーペットのインテリア、淡いブルーメタリックのボディカラーにリフィニッシュされて、2008年のペブルビーチ・コンクール・デレガンスに現れたことで、マツダコレクション説は否定された。

イオタ

詳細はランボルギーニ・イオタを参照

イオタ(Jota)は1969年末に、「ミウラ」をベースに国際自動車連盟のツーリングカー/GTカー競技規定「アペンディクスJ項」を満たし1台作製した「J」と、それを模倣し数台を作製、改造作製した「ミウラSVJ」、「ミウラSVR」らの俗称である。ランボルギーニの走行実験を担当していたエンジニア、テストドライバーのボブ・ウォレス(Bob Wallace)の指示で、1969年11月から就業時間外に「ミウラ改良のための先行開発」の名目で、(車両規定項目)競技規定 付則J項の「プロトタイプ・スポーツカー」の車両規則に沿って約11ヶ月という短期間で作製されたテスト車両がオリジナル「J」である。当初は「J」と呼ればず「ボブの車」「ボブのおもちゃ」と呼ばれた。名目がレーシングカー開発ではないのはレース出場禁止が当時の社是であったことによる。

「J」のホイールはリアが(9インチから)12インチ幅となり、リアフェンダーも広げられている。ガソリンタンクが前軸後方にあるにもかかわらず重量配分がより改善されて[要出典]、スペアタイヤはエンジン後方にある。シャーシフロアをはじめとして車両全体に航空機用アルミシートのアビオナル(Avional)を用い軽量化が図られ、固定ヘッドライトにしたのも軽量化のためである。結果車重はミウラより360kg軽い882kgとなった。

エンジンは圧縮比が11.5とかなり高めにされ、カムシャフトもハイカム仕様、エンジンとトランスミッションを別系統のドライサンプ方式で潤滑(スプリットサンプ&ドライサンプ)。エクゾーストのサイレンサーは装備されなかった[要出典]

ランボルギーニが財政難になった1970年、「J」はミラノの顧客に販売され、さらに1971年に、イタリアのレーシング・チーム『スクーデリア・ブレシア・コルサ(Scuderia Brescia Corse)』のオーナーでコレクターのアルフレッド・ ベルポナー(Dr Alfredo Belponer)の手に渡る。この取引はブレシアのランボルギーニ・ディーラー、エンリコ・パソリーニ(Enrico Pasolini)が担当した。ところが、ベルポナーがステアリングを握る前にディーラーのメカニックがブレシアの環状道路で事故を起こし、横転し火を噴いてしまった。ボブからは「浮きやすい」と注意されていた[要出典]。乗っていた二人は一ヶ月の入院、「J」は修理不能の残骸となった。

ウォレスが「J」を製作した理由については諸説あるが、評論家の福野礼一郎は「ミウラの徹底改良版がどの程度の実力を持ち得るか」を推測する為のものであったと考え、結果としてミウラの発展改良型では満足のいく性能が得られないと判断したウォレスは、フレーム構造からして全く異なる「カウンタック」を構想するに至ったのではないかと推測している[6]

SVJ

当時ランボルギーニ社では「J」の評判を耳にした顧客が自分のミウラを「J」に改造してほしいと要望を受けていた。それを受けSVJと名づけられた新車3台が製作された。新車以外にもミウラを持込みモディファイされた11台ほどの車両があるが、それらはSVJとしてモディファイされ生まれ変わった公式車両が存在する。

新車のSVJ最初の一台は車体番号4934で1971年12月生産の車両で、イラン革命前の国王モハンマド・レザー・パフラヴィー(パフラヴィー2世)の依頼だった。イオタのボディ、(機能しない飾りの)ブレーキ・クーリング・ダクト、ヘッドライト・カバー、レース用の外付け燃料フィルター、一本式フロントワイパー、フロントスポイラー、サスペンション設定の再調整、等が施された。テヘランの宮殿内にもう一台のSVと共に保管していた。

SVJ スパイダー

 
タルガトップを装着したミウラ#4808

1981年のジュネーブショーにランボルギーニが出品したオープン仕様のミウラ。実際には1971年のジュネーブショーに出品されたイエローカラーのミウラSをベースにスイスのランボルギーニ・ディーラーであるランボモートルAGが本家ランボルギーニ社協力のもとスパイダーとして1980年にモディファイしたものである。新たにランボルギーニを買収したパトリック・ミムランがCEOについてまもなくの時期で、このP400 SVJ スパイダージャルパLM002など他の1981年モデルと並んでランボルギーニブースに展示され、ランボルギーニの再生を謳っていた。このときは幅広タイヤを装着し、リアウイングも取り付けられていた。

レプリカ

日本ではスーパーカーブームの1976~1978年頃、輸入車販売ディーラーのシーサイドモータースとオートロマンが車両展示の集客を上げる為に利益目的でミウラを町工場で外見を改造しランボルギーニ社非公認のイオタとした車体が5台ほど確認されている。シーサイドモータースが販売したP400ベースのライトブルーメタリック(後に黄緑→赤)のイオタ仕様やオートロマンのSVベースのブラック(後に赤)のイオタSVR仕様などが存在していた。

また、世界的にはミウラのヘッドライトのホップアップ機能のトラブルが多く、固定式ライトに変更してしまうケースも見受けられていた。しかしながら近年のミウラの希少性も極めて高くなった事で、リプロ部品を用いてミウラの姿に復元する傾向にある。中でも価値がある個体(#4920[9]等)や、更に個性的だが完成度が高い復元が施された#4302(Millechiodi)等は復元ミウラの施工例である。

コンセプトモデル・プロジェクト

2006ミウラ・コンセプト

 
2006 concept car

ミウラ40周年にあたる2006年、新たなミウラとしてミウラ・コンセプトデトロイト・オートショーにて公開された。デザインはアウディグループのヴァルター・デ・シルバがおこなった。

評価

2004年、辛口の批評で知られる米国のスポーツカー専門誌、スポーツカー・インターナショナル誌ベストスポーツカー1960年代部門の第四位に"ミウラ"を、1970年代スポーツカー、および、すべての期間におけるスポーツカーのそれぞれ第四位に"ミウラSV"を選出している。

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ フレーム製作を担当したマルケージ社の記録では747台。
  2. ^ ポール・フレール、小林彰太郎「ロードテスト 思い出に残る車たち」『いつもクルマがいた ポール・フレール自叙伝』(初版)二玄社、東京都千代田区、1999年3月1日、219頁。(ISBN 4-544-04063-9)。"フェラーリ365GTB/4とランボルギーニ・ミウラは、ともに0-1kmは24秒台である。フェラーリでは、ミッレミリア・ルートにあるフータとラティコーサ峠を走ったことがあるが、このワインディング山岳ロードでは何よりも強い腕力を必要とした。しかしハンドリングはミウラよりも限界が掴みやすく、最高速もわずかながらそれより速かった。ミウラで278km/hを計測したのはアウトストラーダ・デル・ソーレだったが、空力リフトのため、前輪のグリップはほとんどゼロになり、それはかなり恐ろしい経験だった。"。 
  3. ^ スペインの牧場'Miura'の闘牛の角にかかって死んだ名闘牛士は何人もいる。獰猛で頭が良く、角の大きなMiuraの闘牛は、今でも闘牛士の間で恐れられている。当時ミウラ牧場のオーナーはフェデリコ・ミウラでフェルッチオの友人であった。
  4. ^ “The incredible story of Hubert Hahne and the ultimate Lamborghini Miura SVJ”. https://www.classicdriver.com/ (2020年12月11日). 2021年10月16日閲覧。
  5. ^ 二玄社SUPER CG No.33
  6. ^ 福野礼一郎『福野礼一郎スーパーカーファイル』双葉社、2008年

関連項目

外部リンク

  • The Lamborghini Miura Web クルマの写真を元にした印刷アートの制作販売を行っているPhilippe Muratoriのサイトではミウラに関するあらゆる資料が確認できる。


ランボルギーニ S.p.A. ロードカータイムライン 1962-
タイプ 1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代
4 5 6 7 8 9 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 0 1 2 3 4 5 6 7 8
MR(含ミッドシップ4駆) V12 ミウラ カウンタック ディアブロ ムルシエラゴ アヴェンタドール アヴェンタドールS
イオタ レヴェントン ヴェネーノ チェンテナリオ
V8/V10 シルエット ジャルパ ガヤルド ウラカン
2+2 ウラッコ
FR GT 350GT
2+2 400GT イスレロ ハラマ
エスパーダ
クロスカントリー4WD
SUV
LM002 ウルス
オーナー
親会社
フェルッチオ・ランボルギーニ ロセッティ、
レイマー
イタリア政府管理下 ミムラン クライスラー メガテック Vパワー アウディ
試作レーシングカー: ランボルギーニ・イオタ(1969)、ランボルギーニ・ハラマRS(1973)、ランボルギーニ・ウラッコ・ラリー(1973)
コンセプトカー: ランボルギーニ・エストーケ(2008)、ランボルギーニ・エゴイスタ(2013)、ランボルギーニ・アステリオン(2014)、ランボルギーニ・テルツォ ミッレニオ(2017)
人物: フェルッチオ・ランボルギーニジャンパオロ・ダラーラマルチェロ・ガンディーニパオロ・スタンツァーニ
公式WEBサイト: Automobili Lamborghini Holding Spa
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