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メタンフェタミン

メタンフェタミン英語: methamphetamine, methylamphetamine)は、アンフェタミンの窒素原子上にメチル基が置換した構造の有機化合物である。間接型アドレナリン受容体刺激薬として中枢神経興奮作用はアンフェタミンより強く、強い中枢興奮作用および精神依存性薬剤耐性がある[2]。日本では商品名ヒロポンで販売されているが[3]、現在は「限定的な医療・研究用途での使用」のみに厳しく制限されている。

メタンフェタミン
識別情報
CAS登録番号 537-46-2
KEGG D08187
特性
化学式 C10H15N
モル質量 149.24
沸点

212[1]

特記なき場合、データは常温 (25 °C)・常圧 (100 kPa) におけるものである。
メタンフェタミン

日本では覚醒剤取締法を制定し、覚醒剤の取扱いを行う場合の手続きを規定するとともに、それ以外の流通や使用に対しての罰則を定めている[2]。メタンフェタミンはこの取締法におけるフェニルメチルアミノプロパンであり、日本で薬物乱用されている覚醒剤である[4]

俗称・異称

日本語では、シャブエス (S)、スピード (speed) などの俗称で呼ばれる。英語ではアイス(ice)、メス(meth)、クリスタル・メス(crystal meth)などの俗称がある。

歴史

1888年(明治21年)に日本の薬学者長井長義が『麻黄研究物質第33号』として合成して、1893年(明治26年)に薬学雑誌に発表した[5]。1919年(大正8年)に緒方章が結晶化に成功した。

覚醒作用や依存性は、合成に成功した当時は発見されず[6]に発見以後も注目されていなかったが[7]、1938年にナチス・ドイツが薬剤のペルビチン (Pervitin) として用いると、1940年に嗜癖性と1954年までに20数例の精神病がそれぞれ西ドイツスイスチェコスロバキアなどから[8]報告された。第二次世界大戦時は、連合国軍枢軸国軍の双方で、航空機や潜水艦の搭乗員を中心に士気向上や疲労回復の目的で用いられ、アメリカ陸軍刑務所で、従業員と受刑者約1,000人のうち約25パーセント (%) が乱用[8]した。

大日本帝国でも戦時の勤労状態や工場の能率向上のために使われ[9]1945年昭和20年)9月2日の日本の降伏後に、日本軍保有品のヒロポン注射剤[10]が市場に放出され、非行少年や売春婦に乱用が拡散[11]した。

日本は、1949年(昭和24年)に一般人の製造を禁止するが、密造品が広まり[11]ヒロポンなどのラベルが貼られた[12]。1949年10月に厚生省次官通知で各製造会社に製造の自粛を要請し、1950年(昭和25年)に製造会社ごとに製造数を割り当てたが、富山化学工業は5万本の割当に800万本も製造するなど効果はなかった[13]東京大学医学部附属病院神経科で1946年(昭和21年)9月に、東京都立松沢病院で1948年(昭和23年)3月に[14]、それぞれはじめて中毒患者が入院した。1951年(昭和26年)に覚せい剤取締法が制定されると、1952年までに入院患者数は激減し[14]、1954年に5万5,000人超であった検挙者数は1957年に1,000人を下回ったが、1971年(昭和46年)に1万人を超えた[15]

従来は国内で密造されていたが、1970年(昭和45年)に大韓民国イギリス領香港中華民国ポルトガル領マカオタイ王国から密輸入が増加すると暴力団が販売を掌握した[16]。終戦直後から販売価格が高額化すると、若年者ではなく暴力団水商売人らに流行して違法性を認知して使用した[10]携帯電話や国外在住者や知人らを介して元締めの暴力団と接触せずに入手が可能になると、1995年から再び流行した[17]。日本国内の薬物事犯は覚醒剤事案の検挙が最も多く、2007年(平成19年)に1万2,000人が検挙されるなど、日本は薬物依存症の治療が進まずに乱用が続いている[18]

作用

メタンフェタミンは、血液脳関門を易々と通り越して、大脳中枢神経を刺激し覚醒させる作用があるため、医療用途としてはうつ病精神病などの虚脱状態や各種の昏睡・嗜眠状態などの改善・回復に用いられる。

小胞体のドーパミン貯蓄を阻害して、シナプス前細胞の細胞質におけるドーパミン濃度を上昇させると共に、(ドーパミントランスポーター)を逆流させることにより、神経終末からドーパミンノルアドレナリンセロトニンなどのアミン類を遊離させ、間接的に神経を興奮させる。さらに、モノアミン酸化酵素の阻害作用によって、シナプス間隙におけるアミン類の濃度を上昇させる作用を併せ持つ[19]

メタンフェタミンの反復使用は、(ドーパミントランスポーター) (DAT) やドーパミンD1受容体を減少させる。抗生物質ミノサイクリンの前投与と併用によって、DATの減少やD1受容体の減少を抑えることができる[20]

効能・効果

  • ナルコレプシー、各種の昏睡、傾眠、嗜眠、もうろう状態、インスリンショック、鬱病・鬱状態、統合失調症の遅鈍症の改善
  • 手術中・手術後の虚脱状態からの回復促進及び麻酔からの覚醒促進
  • 麻酔剤の急性中毒、睡眠剤の急性中毒の改善

副作用など

不安興奮頭痛不眠振戦動悸、多汗、口渇が起こったり、味覚異常蕁麻疹などの過敏症状が起こることがある。

覚醒剤精神病:用量用法から逸脱して、覚醒剤乱用によって生じる幻覚妄想状態を主とする精神病。覚醒剤精神病の妄想は、関係妄想を中心に、被害・追跡・注察・嫉妬妄想・フラッシュバックからなり、幻覚は幻聴が主である。

重大な副作用

  • 依存性

その他の副作用(頻度不明)

  • 精神神経系:興奮、情動不安、眩暈、不眠、多幸症、振戦、頭痛
  • 循環器:心悸亢進、頻脈、血圧上昇
  • 消化器:食欲不振、口渇、不快な味覚、下痢、便秘
  • 過敏症:蕁麻疹
  • 生殖器系:勃起不全性欲変化

依存性

 
自動車のタイヤに隠されていたメタンフェタミン(メキシコ-アメリカ国境)

乱用開始から依存に至るまでの期間は、約30ヶ月とされており、メチルフェニデートの平均9.2ヶ月と比較すると長い[21]

物質依存の形成は、個人の置かれている環境に大きく影響を受けるが、遺伝的要因も関係している。メタンフェタミンでは、双子を用いた研究により、遺伝的要因は約4-7割程度と考えられており[22]、メタンフェタミン依存に関わる遺伝子を明らかにすることで、メタンフェタミン依存の分子神経生物学的理解を進めるべく、研究が行なわれている。

メタンフェタミンの精神的依存は、他の依存性薬物と同様、報酬系が大きな役割を果たしている。報酬系は、中脳腹側被蓋野から側坐核及び前頭葉皮質に投射する(A10神経)と呼ばれる中脳辺縁ドーパミン神経系からなる。この神経の興奮による神経終末からのドーパミンの遊離に引き続き、側坐核のドーパミン濃度の上昇が起こり、これを心地よいと感じる。メタンフェタミンは種々の機構により、側坐核局所で作用することによって、同部位のドーパミン濃度を上昇させ、報酬系を賦活させて依存を形成する。

抗生物質ミノサイクリンの前投与により、覚醒剤特有の高揚感が阻止され、精神依存を抑制したとの研究報告がある[23]。しかし、高揚感を感じなかったにもかかわらず、再使用欲求に変化がなかったとの報告もあり、覚醒剤の習慣性身体的依存)が示唆される[24]。ミノサイクリンは、ドーパミン拮抗作用が示されておらず、覚醒剤などの多幸感・高揚感は、ドーパミンと無関係であると示唆される[23]薬剤耐性菌を生む問題があり、感染症においても抗菌薬の適正使用が言われ、感染症でもない状況での抗生物質の不適切使用は戒められる[25]

ヒロポン

ヒロポン (Philopon) とは、大日本製薬(現・住友ファーマ)によるメタンフェタミンの商品名。同社の登録商標の第364236号の1である。成分名は塩酸メタンフェタミン。剤型は結晶あるいは粉末、または錠剤である[注釈 1]。ヒロポンの名は、ギリシア語Φιλόπονος(ピロポノス/労働を愛する)が由来である。

2023年現在、処方箋医薬品として「ヒロポン」「ヒロポン錠」が製造されており、都道府県知事から施用機関の指定を受けた医療機関からの注文に対応している。また本薬品に関しては、製造業者から施用機関までの流通過程、施用した患者までが包装単位で記録保管されるなど、他の医薬品とは別格の極めて厳しい管理がなされている。治療上薬剤を投与する場合は処方箋の交付が医師法第22条で義務付けられているが、覚醒剤を投与する場合は例外的に処方箋を交付する必要がない。また、医師が自身に覚醒剤を自己処方することは禁じられている。

ヒロポン史

市販開始

 
ドイツにおけるメタンフェタミン市販薬「Pervitin」

欧米諸国においては、日本に先駆けてメタンフェタミンやアンフェタミンによる覚醒剤の市販が開始された。特に製薬会社スミス、クライン、フレンチが販売したアンフェタミンの吸入器ベンゼドリン」は大ヒット商品となり、欧米諸国で愛用されていた[26]。 同盟国であったナチス統治下のドイツにおいては、1936年ベルリンオリンピックで、アメリカの選手が使用した「ベンゼドリン」の効果に着目が集まると、1937年にメタンフェタミン製剤の「Pervitin」が発売されて、ドイツ国民に広まっていった。同じスポーツ選手のほかにも、一般労働者はおろか家庭の主婦やダイエット目的の女性までもが愛用するようになっていた[27]ドイツ国防軍も危険性を認識していなかったために、主に兵士に、積極的に覚せい剤を支給していた。軍支給分では足らずに家族から取り寄せる兵士もいたほどで、第二次世界大戦初期の電撃戦で、短期間に連続した行動を求められる兵士の士気向上に効果を発揮した。ドイツ軍はメタンフェタミンの錠剤を1940年4月〜7月のわずか4か月の間に3500万錠を製造し、ドイツ陸海空軍の兵士に支給した。その錠剤は見た目がチョコに見える事から「Panzerschokolade」(タンクチョコレート)と呼ばれたが、ラベルに「Stimulans」(覚醒剤)と表示され「不眠を維持したいときに服用すること。2錠あたり3〜8時間の睡眠の代わりになる。」と効果が説明されていた[28]

特に、ドイツ空軍[29]ではメタンフェタミンは「パイロットの塩」との別名で呼ばれており、「塩」に例えられるほどの必需品として乱用されて、ドイツ空軍活躍の原動力ともなっている。バトルオブブリテンでは、ドーバー海峡を挟んだ長距離の航空作戦となったことから、疲労回復と長時間の覚醒のためにドイツ空軍パイロットが「Pervitin」を常用するようになっていた[30]。またアドルフ・ヒトラー自身も持病のパーキンソン病治療のために毎日メタンフェタミンを注射されていたという証言もある[31]

日本においても、欧米諸国に追随してアンフェタミンやメタンフェタミン製剤が、疲労倦怠感を除き眠気を飛ばすという目的の一種の強壮剤である「除倦覺醒劑」として販売された。日本人の長井がメタンフェタミンを発表したこともあり、あたかも日本で「覺醒劑」が開発されたという誤認もあるが、薬の知的財産権の概念が乏しかった当時によくあっていたこととして、日本におけるメタンフェタミン製剤は先に市販していた外国の製剤のコピー品であり、1940年(昭和15年)に参天堂が「ホスピタン」を発売したのを皮切りにして、日本の製薬会社各社がそれに続いた。「ヒロポン」は「ホスタピン」に遅れて1941年(昭和16年)に販売が開始された[32]。ほかにも小野薬品工業が「ネオパンプロン」、富山化学工業ネオアゴチン」を発売したが、「ヒロポン」が最大のシェアを確保したため「ヒロポン」という商品名がアンフェタミン系をも含む覚醒剤の代名詞となった。

市販が遅れた日本における覚醒剤研究は、先んじて市販していた他国を追随する形になり、メタンフェタミンの副作用などの毒性も深く研究されることはなかった[33]。覚醒剤研究の一例として下記のような論文も発表されているが

之を服用すれば心氣を爽快にし、疲勞を防ぎ、睡魔を拂ふ等の興奮効果があり、しかも習慣性、蓄積作用等がないので、現在歐米各國の民間に於て興奮劑乃至能率増進劑として好んで使用されてゐる。即ち米國では Benzedrineデンマークでは Mecodrinハンガリアでは Aktedron 等の名稱を以て盛に賣出されて居る。時局柄、產業、事務等各方面に於ける本劑の利用も或は一顧の價値あらんかと、ここに御紹介する次第である。

と、先に市販されている他国の例も出して、除倦覚醒効果が強く有用な薬品であるとしていた一方で、常習性はないと分析していた。また不眠、食思不振、頭痛、焦燥感などの副作用も臨床実験で報告されていたが、効果・副作用を分ける基準が、主として被験者の主観によるものが大きいとして特に問題にされていなかった[34]

戦時中

 
一般に市販されていたメタンフェタミン製剤ヒロポンの広告。疲労防止や回復といった効果が強調されている。

日本でメタンフェタミン製剤が発売されてまもなく太平洋戦争が開戦したため、ドイツ等のヨーロッパ諸国のように一般市民に蔓延する前に軍事目的に利用されることとなった。その目的は、厚生省薬務課長の覚醒剤の製造認可に関する質疑応答の通り、「ヒロポン等につきましては、特別に製造許可をいたしました当時は、戦争中でありましたので、非常に疲労をいたしますのに対して、急激にこれを回復せしめるという必要がございましたものですから、さのような意味で特別な目的のため許したわけでございます」と「疲労回復」や「眠気解消」が目的であった[35]

薬学の専門家からは、メタンフェタミン自体が鎮咳剤エフェドリン誘導体として開発された経緯もあり、初めは咳止め効果を期待していたが、覚醒効果の方が顕著だったために、主に眠気解消剤として夜間作業に関わる兵士用、特に夜間に飛行するパイロットに使用されていたという指摘もあり[36]、ドイツ空軍に倣って日本軍においても航空機パイロットに対しても支給された。パイロット用の機能性食品としてドイツ側からの情報に基づき、メタンフェタミンを混合したチョコレートが試作されたこともあった[37][38]。この「ヒロポン入りチョコレート」について勤労奉仕隊で生産に携わったとする証言もあるが、陸軍航空技術研究所においては、他にも栄養剤やブドウ糖を混合したチョコレートも試作しており、「ヒロポン入りチョコレート」が広く支給されたとの記録はない[39][37]

メタンフェタミンの注射薬は「暗視ホルモン」と呼ばれ、航空兵にはナチス・ドイツからの輸入品で夜間視力が向上すると説明されていたという。夜間戦闘機月光搭乗員として、6機ものB-29を撃墜した大日本帝国海軍エース・パイロットである少尉黒鳥四朗(偵察員・銃手)と飛行兵曹長・(倉本十三)(操縦士)のペアが、夜間視力が向上するとの事で、「暗視ホルモン」を注射されたと回想し[40]、元海軍軍医が太平洋戦争末期に鹿児島の基地で出撃する特攻隊員に同様な注射をしていたという証言もあるが[39]、実際に鹿児島の串良基地などから出撃しながら生還した特攻隊員や出撃の様子を見ていた関係者からは、特攻隊員が何等かの注射をされていたという証言はない[41][42][43][44][45][46][47][48]。また、戦後にGHQに接収された海軍航空技術廠の資料によれば、「暗視ホルモン」の成分は、牛や豚の脳下垂体から抽出された(メラノフォーレンホルモン)とされ、ナチス・ドイツからの輸入品ではなく日本国内で製造され、台湾沖航空戦で既に使用されており、メタンフェタミンとは全く関係のないものであった[49]

かつてより、「普通、命は惜しいもの。異様な興奮状態にならなければ自らの命を絶つことはできない」などと、特別攻撃隊の隊員を興奮させるために軍がメタンフェタミンを使用していたとの主張もあるが[50]、歴史学者吉田裕は、「よく戦後の特攻隊に関する語りの中で、出撃の前に覚醒剤を打って死への恐怖感を和らげて出撃させたんだという語り・証言がたくさんあるんですけれども、これは正確ではないようです。覚醒剤を使っていたのは事実のようです。日本のパイロットは非常に酷使されていて(中略)疲労回復とか夜間の視力の増強ということで覚醒剤を大量に使っていて」と史実とは異なると指摘している[51]

また厚生省薬務課長によれば「大体、戦争中に陸軍・海軍で使っておりましたのは、全て錠剤でございまして、飛行機乗りとか、或いは軍需工場、軍の工廠等におきまして工員に飲ませておりましたもの、或いは兵隊に飲ましておりましたものはすべて錠剤でございました、今日問題になっておりますような注射薬は殆ど当時なかったと私は記憶しております。」との国会答弁通り、戦時中の覚醒剤は広い範囲で使用されており、特攻隊員に限定的に使用されているものでもなかった[52]

特攻隊員が覚醒剤を使用していたという話が蔓延した経緯として、戦後のGHQによる日本軍の貯蔵医薬品の開放指令により[53]、旧日本軍の貯蔵医薬品と一緒に大量に開放された覚醒剤は、一般社会へ爆発的に広まり中毒者が激増し社会問題化したが、他の多くの社会問題と同様に覚醒剤も暗黒時代であった戦時中の象徴であったとする主張がなされるようになり、事実とは異なる証言や回顧が巷に氾濫する事となった。

その一例として、自らも薬物中毒で苦しんだ経験を持つフランス文学者平野威馬雄が、戦時中に軍需関係の会社の従業員していた人物より戦後の1949年に聞いた「頭がよくなる薬が手に入った。これは部外秘というやつで、陸海軍の特攻隊の青年だけに飲ませる“はりきり”薬で、ヒロポンという名前だ。長くない命に最後まで緊張した精神を維持させる薬だ。」という話を紹介しているが、一般に流通していたヒロポンを「部外秘」としたり、特攻隊の青年だけに飲ませていたといったような、事実に反した話が広まっていたことがうかがえる[54]。これは軍部を非人道的機関と位置づけ、覚醒剤禍の元凶として批判すべき対象とした際に、特攻隊員がその象徴として利用されていたことの例の一つであったとされている[55]

戦後

 
覚醒剤密造・販売の摘発の様子

覚醒剤は「本土決戦兵器」の一つとして量産され、終戦時には大量に備蓄されていた。日本の敗戦により、一旦はGHQに押収されたが、のちに1945年12月4日付連合国最高司令官指令SCAPIN-389「CUSTODY AND DISTRIBUTION OF JAPANESE MILITARY MEDICINAL NARCOTIC STOCKS」において「1、この司令部が定める期日には、この司令部が定める金額の日本軍用医薬品麻薬備蓄の一部は、米軍によって認可された医薬品卸売業者の管理下に放出される。」との日本軍用医薬品麻薬の開放指令により、他の医療品とともに覚醒剤も大量に市場に流出した[56]

戦後になると覚醒剤は、以前の「疲労回復」や「眠気解消」といった目的に加え、精神を昂揚させる効果によって、タバコの様な嗜好品の一つとして蔓延した。そして、複数社が製造販売していたメタンフェタミン製剤のなかで、大日本製薬の一商標に過ぎなかった「ヒロポン」が、そのシェアの大きさからいつしか覚醒剤の代名詞の様に呼ばれるようになった。戦前、戦中と異なり、より効果が強い注射による摂取が増加してきたことによって、メタンフェタミン中毒症の症状はより激化する傾向となっており、終戦直後の1946年(昭和21年)には早くも慢性覚せい剤中毒者が東京大学神経科に入院し、精神医学会からも「注射薬も費出されるということになってしまいまして、注射に頼る人が大分出て来た。こうなってから私どもが全く思いがけなかった程癖になる人、受醒剤の嗜癖の状態というべきことが起ってきたのであります」「相当量続けて使っているという人に著しい精神症状呈して来るものがあるということに気付いたのであります」などと乱用による薬物依存症発生の指摘があっているが[33]、これらの薬物依存症の患者はヒロポン中毒者の略で「ポン中」などと呼ばれていた[57]

さらに、1947年(昭和22年)に作家織田作之助漫才師ミスワカナがヒロポンの大量摂取により死亡したと報道されると(両名の死因については諸説あり)[58]、世間の注目度が増してその毒性について研究が進むことになった。同年の内科学会においては「一般健康人が本剤を使用するのは大いに注意する要がある。我々の調査でも本剤は習慣性があり投與量増加しなければ効果なく、又疲労感は一時的にはないが後より強い疲労現はれ、注意散漫し集中的な仕事は出来ない。中事生等盛んに試験中にのんでゐるが尿意を常に催し、集中した勉強は出来ない」「私は本剤の如きは飽迄、医師の監督の下に慮方し又剤薬として管理される要あるを提唱する」と、学生が受験勉強用に飲用するなど、国民が広く使用している実態と、毒性に対して効果は限定的であり、医師の管理の元に使用すべきとの提言もなされている[33]

 
ヒロポンを互いに注射する姿の漫才の林田十郎(左)と芦乃家雁玉(右)。1948年

しかし、この頃には未だその悪影響よりは効果の方が強調されており、1949年(昭和24年)11月25日の国会においても「この頃はやるヒロポンの注射であるのでありまして、果して結果がいいかどうか。これはその麻藥を使用するところの医者が藪医者であるか名医であるかに全くよるのでありまして、」と処方次第との答弁があっている[59][33]。この時期芸能界にも蔓延し、多くの芸能人が常用していたことが、のちに明らかになっている。当時芸能界で活動したコロムビア・トップが、参議院議員に転身後国会において、ヒロポンが蔓延した当時の芸能界を証言したことがある[60][注釈 2]。そのほか、ビートたけしなども芸能界によるヒロポン蔓延について様々な場において触れており、例えば初代三波伸介東八郎の早世の原因にあげている[61]。加えて、中毒者が行う不潔な注射器の使い回しは、ウイルス性肝炎の伝染機会を増加させ、輸血後肝炎が感染拡大する遠因となった。

また、ヒロポンは警察から少年犯罪激増の元凶と捉えられていた。1949年の警察の見解として「少年ヒロポン患者薬代欲しさから盗みやユスリ・・都内に『ヒロポン禍』が目立ってふえ、とくにこれに伴う青少年犯罪が激増しつつある」「恐るべきヒロポン禍薬欲しさのスリ窃盗犯罪青少年の半数は中毒」「青少年のカクセイ剤中毒患者は毎年増加の傾向にある、法規制の改正により製造を中止する以外ない」という発表があっている[62]。これらの動きもあって、1949年(昭和24年)になってようやく、厚生省はヒロポンなどのメタンフェタミン製剤を劇薬に指定し、他のメタンフェタミン製剤の製造業者も含めて、覚醒剤としての製造を禁止するよう勧告したが、それまでの製造分で市中には大量のヒロポンや他社のメタンフェタミン製剤が流通しており、乱用に歯止めがかからなかった。当時、都市には戦火で身寄りを失ったいわゆる「浮浪児」が多数路上生活していたが[63]、その「浮浪児」のヒロポン乱用は止まらず、40~50本も乱用しているような子供もいたという[64]

そして、1950年(昭和25年)から1951年(昭和26年)にかけて埼玉県で少年百数十名による集団強姦事件が発生、この少年の殆どがメタンフェタミン製剤「ネオアゴチン」の常習者であり、過度の使用の結果いずれも中毒症に陥り、幻覚、幻聴、被害妄想の症状が現れていることが判明、また、捜査の過程で「ネオアゴチン」の製造が販売制限量を超えていたことも判明し、製造会社は薬事法違反の行政処分を受けている。この事件によって世間よりより強力なメタンフェタミンへの規制が求められ[65]、1951年(昭和26年)に覚せい剤取締法を施行された。同法により日本では「限定的な医療・研究用途での使用」を除き、覚醒剤の使用・所持がすべて厳禁されている[注釈 3]

しかし、覚せい剤取締法が施行されても、覚醒剤中毒者による凶悪事件は後をたたず、1954年(昭和29年)4月19日に、授業中の小学校内で生徒が覚醒剤中毒者によって殺害されるといった衝撃的な文京区小2女児殺害事件が発生すると、より取り締まりが強化されていくこととなった[66]

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ かつてはアンプル(注射液)もあったが現在は廃止されている。
  2. ^ この質疑において、楠木繁夫、柳家三亀松、霧島昇、樋口静夫、三門順子などの実名を挙げている
  3. ^ ここで言う「限定的な医療・研究用途での使用」とは、同法により規定された少数の研究・医療機関への販売や、統合失調症ナルコレプシーの治療等であり、日本薬局方上は処方薬処方箋医薬品)の覚醒剤として残っている。

出典

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参考文献

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  • 山下格、森田昭之助『覚醒剤中毒』金剛出版、1980年。 
  • 佐藤哲彦『覚醒剤の社会史』東信堂、2006年。
  • 石川哲也『薬物乱用防止の知識とその教育』(薬事日報社)、2000年。 
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  • 桑原敬一『語られざる特攻基地・串良 生還した「特攻」隊員の告白』文藝春秋〈文春文庫〉、2006年。ISBN (4167717026)。 
  • 三国 雄大『高知海軍航空隊 白菊特別攻撃隊』群青社、2001年。ISBN (978-4434014383)。 
  • 渡辺洋二『彗星夜襲隊 特攻拒否の異色集団』光人社〈光人社NF文庫〉、2003年。ISBN (4769824041)。 
  • 渡辺洋二『特攻の海と空―個人としての航空戦史』文藝春秋〈文春文庫〉、2007年。ISBN (978-4167249151)。 
  • 「丸」編集部 編『特攻の記録 「十死零生」非情の作戦』光人社〈光人社NF文庫〉、2011年。ISBN (978-4-7698-2675-0)。 
  • 特攻 最後の証言制作委員会『特攻 最後の証言』文藝春秋〈文春文庫〉、2013年。ISBN (4167838893)。 
  • 肥田真幸『艦攻艦爆隊』光人社〈光人社NF文庫〉、2019年。ISBN (978-4769831266)。 

関連項目

外部リンク

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