» www.Giftbox.Az - Bir birindən gözəl hədiyyə satışı
ウィキペディアランダム
毎日カテゴリ
共有: WhatsappFacebookTwitterVK

ジョナサン・パーマー

ジョナサン・チャールズ・パーマーJonathan Charles Palmer, 1956年11月7日 - )はイギリス出身の元レーシングドライバーF1ドライバーで実業家医師の資格を持っていることから、「フライング・ドクター」の愛称を持つ。

ジョナサン・パーマー
基本情報
フルネーム ジョナサン・チャールズ・パーマー
国籍 イギリス
( イングランド)
出身地 同・ロンドンルイシャム
生年月日 (1956-11-07) 1956年11月7日(66歳)
F1での経歴
活動時期 1983-1989
所属チーム '83 ウィリアムズ
'84 RAM
'85,'86 ザクスピード
'87-'89 ティレル
出走回数 88 (83スタート)
優勝回数 0
表彰台(3位以内)回数 0
通算獲得ポイント 14
ポールポジション 0
ファステストラップ 1
初戦 1983年ヨーロッパGP
最終戦 1989年オーストラリアGP
(テンプレートを表示)

2014年GP2シリーズチャンピオンのジョリオン・パーマーは息子[1]

プロフィール

初期の経歴

ブライトン・カレッジに学んだ後、パーマーは(ガイズ病院)(英語版)医学生となった。パーマーは資格を得て、カックフィールド病院とブライトン病院で医師としての勤務が始まっていたが、一方で自動車競技への情熱も持ち1978年よりフォーミュラ・フォードへの参戦を開始。1980年にイギリス・フォーミュラ・フォード1600で上位の走りを見せた。

F3/F2時代

1981年からイギリスF3選手権ウェスト・サリー・レーシングより参戦[2]ラルト・RT3トヨタを駆り開幕戦シルバーストンでデビューウィンを飾ると[3]、以後開幕4連勝を含む全20戦中7勝を挙げる圧勝でシリーズ・チャンピオンを獲得。同選手権にはロベルト・モレノラウル・ボーセルティエリー・タッシンなどが同時期参戦していた。

1982年から(ヨーロッパF2選手権)にステップアップ。ホンダ F2エンジンのワークスチームである「ラルト・レーシング」から参戦。チームメイトのケネス・アチソンと共にラルト・RH6/82・ホンダ((RA262E))をドライブ。第10戦ドニントン・パークラウンドにてF2での初ポール・ポジション(以下、PP)を獲得し、決勝でも3位表彰台を獲得するシーズンベストの走りを見せた。シリーズ・ランキング9位。

1983年のヨーロッパF2選手権もラルトから継続参戦。チームメイトはアチソンに替わりマイク・サックウェルとなった。ラルト・RH6/83H・ホンダで全12戦中4度のPP獲得、シーズン6勝(FL3回)を挙げ、表彰台登壇11回と言う圧勝にてシリーズチャンピオンを獲得する。

グループC

パーマーはスポーツカー世界選手権(WEC)にリチャード・ロイド・レーシングから出場し好結果を出している。1984年の世界耐久選手権では、キヤノンポルシェ・956の14号車でヤン・ラマースとのコンビで参戦し、第5戦ブランズハッチでは、ヨーストレーシングポルシェより2周差をつけ、リチャード・ロイドチーム初となるWEC優勝を果たした。この勝利後すぐにチームが新たに製作した956 GTiをデビューさせた[4]。GTiは結果を出し、第8戦イモラで2位になった。ドライバーズチャンピオンシップでラマースとパーマーはWEC年間6位に入った[5]

F1

1983年、F2とWECへの参戦と掛け持ちでウィリアムズF1のテストドライバーに起用された。F2タイトル獲得確定後の1983年ヨーロッパグランプリにてウィリアムズのサードカー((FW08C))でのスポット参戦が実現しF1デビュー、初戦13位で完走を果たす。このスポット参戦はF2タイトル獲得の褒美のようなものだったので、翌年の正シートはまた新たに探さなければならなかった。ティレル[6]スピリット・レーシングを含む多くのF1チームの元に交渉しに行ったが、F1シートを希望し、なおかつパーマーより高額の持参金(スポンサー)を持つ同年代ライバルが多数おり[7]将来が決まらない難しい日々が続いた。

1984年、開幕直前に下位チームではあったがRAMとの交渉に成功し、レギュラーシートを得てF1フルシーズン参戦を果たす。RAMレーシングは前年のF1で最も小さい規模のチーム[8][9]であり、多くは望めなかったが開幕戦ブラジルGPでパーマーは非力なRAM・01を8位に導き[10]、第3戦から導入されたRAM・02でもチームメイトのフィリップ・アリオーより多くの完走をもたらした。

1985年にドイツのザクスピードへ移籍。下位チームながら自製の直4ターボエンジンと自製シャシーで参戦しておりマシントラブルの発生も多かったが、パーマーは在籍二年目の1986年にチーム完走率を高める堅実な走りを見せて評価を受けた[11]

 
ザクスピード時代(1985年ドイツグランプリ

1987年からティレルに移籍、ターボエンジン全盛期のF1界でノンターボマシン・DG016をドライブし全16戦中13戦で完走、うち6位以内入賞を3度と健闘し7ポイント獲得。同年に設けられた自然吸気エンジン搭載車のタイトルである「ジム・クラーク・カップ」を獲得。

1988年はチームメイトがF1ルーキーのジュリアン・ベイリーとなり、ベイリーが10度の予選落ちを喫する苦戦の中、パーマーがチームのエースとして奮闘。同年のマシン017に上位を窺える戦闘力は無かったが、完走者が少なかったモナコグランプリデトロイトグランプリでしぶとく完走し5位に食い込むなど、計5ポイントを得てドライバーズ・ランキング14位。

1989年はティレルでの3年目となり、第2戦サンマリノグランプリからは良好なシャシー素性を持つ018に乗る機会を得て決勝6位となりチームにポイントをもたらした。カナダGPではウェットレースの中ファステスト・ラップを記録[12]したが、チームメイトであるミケーレ・アルボレートが第4戦メキシコグランプリで3位表彰台、第7戦フランスグランプリからアルボレートに替わって加入した新人ジャン・アレジがデビュー戦で4位を獲得し話題となる中、パーマーは堅実ながら予選成績で下位が多く、決勝最高位が6位2回と獲得ポイントも差をつけられドライバーズ・ランキング25位で終了となり1990年のF1レギュラーシートを確保できず、同年の日本グランプリがパーマーにとって最後のF1決勝レース出走となった(最終戦のオーストラリアグランプリでは予選不通過)。

以後はロン・デニスからのオファーを受けてマクラーレン・ホンダのテスト・ドライバーに就任。(MP4/5B)、4/6及び4/7Aの開発に携わった。

引退後

イギリスツーリングカー選手権(BTCC)に参戦した他、1991年から1997年までBBCのF1中継の解説者を務めた。また、ジュニアフォーミュラの「(フォーミュラ・パーマー・アウディ)(英語版)」を主宰する他、現在はオウルトンパークブランズ・ハッチなど複数のサーキットを所有する「モータースポーツ・ビジョン」社の共同経営者となっている[13]

2008年には、翌年より国際自動車連盟(FIA)が復活させた(FIA F2選手権)シリーズの運営責任者に選ばれているなど、引退後のイギリスのモータースポーツ界の重鎮の1人として活躍している。

エピソード

  • F2時代まで、平日は医師として勤務し、週末にサーキットに足を運びレースに参戦する多忙な生活を送っていた。F1にステップアップ後は医師を辞めレーサーに専念。1987年、看護師の女性と結婚し秀才カップルと呼ばれた[14]。パーマーは「彼女がモーターレーシングに対して関心がない点がよかった。これは僕にとって日常が平穏であるために重要なんだ」とコメント。
  • 趣味はヘリコプターの操縦。ヘリコプターだけでなく飛行機操縦ライセンスも所持しており、「フライング・ドクター」という愛称の由来となった。パーマーはヘリの操縦について「チョッパーと呼ばれる小さいヘリが好きで、空を飛ぶというチャレンジをして自分の操縦技術を向上させることができる点が魅力」と語り、「レーサーとして、ビジネスとしてクルマを運転するという感覚は、プレッシャーも凄くてちょっとした悪夢なんだ。その悪夢から遠ざかることができるのがいいんだ」とインタビューで述べている[15]

レース戦績

全日本フォーミュラ2選手権

チーム シャーシ エンジン タイヤ 車番 1 2 3 4 5 6 7 8 順位 ポイント
1982年 ラルト・レーシング ラルト・RH6/82 (ホンダ・RA262E) 15 SUZ FSW SUZ SUZ SUZ
3
SUZ
8
8位 15
1983年 ラルト・RH6/83 (ホンダ・RA263E) B 11 SUZ FSW NIS SUZ SUZ FSW SUZ SUZ
Ret
NC 0

ヨーロッパ・フォーミュラ2選手権

エントラント シャーシ エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 順位 ポイント
1982年 ラルト・レーシング ラルト・RH6/82 ホンダ SIL
15
HOC
Ret
THR
11
NÜR
14
MUG
5
VAL
5
PAU
6
SPA
6
HOC
Ret
DON
3
MAN
Ret
PER
DNS
MIS 9位 10
1983年 ラルト・RH6/83 SIL
Ret
THR
3
HOC
1
NÜR
4
VAL
2
PAU
3
JAR
3
DON
1
MIS
1
PER
1
ZOL
1
MUG
1
1位 68

F1

所属チーム シャシー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 WDC ポイント
1983年 ウィリアムズ FW08C BRA USW FRA SMR MON BEL DET CAN GBR GER AUT NED ITA EUR
13
RSA NC 0
1984年 (スコール・バンディット) (RAM) 01 BRA
8
RSA
Ret
NC 0
02 BEL
10
SMR
9
FRA
13
MON
DNQ
CAN DET
Ret
DAL
Ret
GBR
Ret
GER
Ret
AUT
9
NED
9
ITA
Ret
EUR
Ret
POR
Ret
1985年 ザクスピード 841 BRA POR
Ret
SMR
DNS
MON
11
CAN DET FRA
Ret
GBR
Ret
GER
Ret
AUT
Ret
NED
Ret
ITA BEL EUR RSA AUS NC 0
1986年 861 BRA
Ret
ESP
Ret
SMR
Ret
MON
12
BEL
13
CAN
Ret
DET
8
FRA
Ret
GBR
9
GER
Ret
HUN
10
AUT
Ret
ITA
Ret
POR
12
MEX
10
AUS
9
NC 0
1987年 ティレル DG016 BRA
10
SMR
Ret
BEL
Ret
MON
5
DET
11
FRA
7
GBR
8
GER
5
HUN
7
AUT
14
ITA
14
POR
10
ESP
Ret
MEX
7
JPN
8
AUS
4
11位 7
1988年 017 BRA
Ret
SMR
14
MON
5
MEX
DNQ
CAN
6
DET
5
FRA
Ret
GBR
Ret
GER
11
HUN
Ret
BEL
12
ITA
DNQ
POR
Ret
ESP
Ret
JPN
12
AUS
Ret
14位 5
1989年 017B BRA
7
25位 2
018 SMR
6
MON
9
MEX
Ret
USA
9
CAN
Ret
FRA
10
GBR
Ret
GER
Ret
HUN
13
BEL
14
ITA
Ret
POR
6
ESP
10
JPN
Ret
AUS
DNQ

ル・マン24時間レース

チーム コ・ドライバー 使用車両 クラス 周回 総合順位 クラス順位
1983年   キヤノン・レーシング
  GTi エンジニアリング
  ヤン・ラマース
  (リチャード・ロイド)
ポルシェ・956 C 339 8位 8位
1984年   GTi エンジニアリング   ヤン・ラマース C1 239 DNF DNF
1985年   リチャード・ロイド・レーシング   ジェームス・ウィーバー
  (リチャード・ロイド)
ポルシェ・956 GTi C1 371 2位 2位
1987年   リキモリ・エキップ   ジェームス・ウィーバー
  プライス・コブ
ポルシェ・962C C1 112 DNF DNF
1990年   ヨースト・ポルシェ・レーシング   ボブ・ウォレク
  フィリップ・アリオー
C1 DNS DNS
1991年   チーム・サウバー・メルセデス   スタンレー・ディケンズ
  クルト・ティム
メルセデス・ベンツ・C11 C1 223 DNF DNF

イギリスサルーン / ツーリングカー選手権

チーム 使用車両 クラス 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 順位 ポイント クラス
1983年 (チェイレスモア・BMW モータースポーツ) BMW・635CSi A SIL OUL THR BRH THR SIL DON SIL DON BRH SIL
5
30位 2 14位
1991年 BMW チーム・フィナンス BMW・M3 SIL
7
SNE
Ret
DON
Ret
THR
6
SIL
111
BRH
6
SIL
5
DON
1

4
DON
2

3
OUL
5
BRH
1

7
BRH
2

6
DON
Ret
THR
2
SIL
21
7位 66
  1. ^ – レースは大雨の為、途中で中止され、ポイントは付与されなかった。

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ “ジョリオン・パーマー”. ESPN F1. 2015年5月21日閲覧。
  2. ^ 40years ago and our race debut in British F3 with Jonathan Palmer. West Surrey Racing 公式twitter 2021年9月23日
  3. ^ We made a winning race debut in British F3 at Silverstone. Jonathan Palmer. West Surrey Racing 公式twitter 2022年3月1日
  4. ^ “”. Group C Ltd.. 2007年9月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年12月19日閲覧。
  5. ^ “World Championship — final positions and tables”. World Sports Prototype Racing. 2007年12月19日閲覧。
  6. ^ "新時代のジャッキー・スチュワート" マーチン・ブランドル インタビュー「ティレルのシート候補にはブランドルのほかにワトソンやパーマー、ベロフもいて交渉は時間がかかった」 オートスポーツ No.394 48-52頁 三栄書房 1984年5月1日発行
  7. ^ スピリットはバルディと契約:バルディの持参金はJ.パーマーやF.バラビオの額より低額だったが、すでにスーパーライセンス所持者であることが有利に働き契約した。 オートスポーツ No.394 37頁 1984年5月1日発行
  8. ^ RAMレーシングのスタッフは総勢25名で、最小のF1チームであった
  9. ^ Ian Bamsey: The 1000 bhp Grand Prix Cars, 1988 (G.T. Foulis & Co. Ltd), (ISBN 978-0854296170), S. 99.
  10. ^ 実際にチェッカーフラッグを受けた順位は9位。後日ティレル勢の成績が「水タンク事件」により全抹消されたため繰り上がった。
  11. ^ ZAKSPEED ツーリングカーからF1へ・ザコウスキーのつぎなる夢 グランプリ・エクスプレス '87西ドイツGP号 18-19頁 1987年8月15日発行
  12. ^ Molson Grand Prix of Canada - FASTEST LAPS Formula1.com 18 Jun 1989
  13. ^ ジョナサン・パーマーのMSV社、シルバーストーン買収に向けて交渉開始F1速報 2016年9月26日
  14. ^ J.パーマーがイギリスGP予選前日の7月9日に結婚式を挙げる(新妻は8月に出産予定)。お相手はパーマーと同じく医師免許を持つジル・ウッドラフさん。秀才カップルの誕生だ。GPX 1987年フランスGP号 28頁 山海堂 1987年7月20日発行
  15. ^ ジョナサン・パーマー 陰に隠れた挑戦者・人呼んで"The Flying Doctor" GPX 1988年カナダGP号 15頁 山海堂 1988年7月2日発行

関連項目

ウィキペディア、ウィキ、本、library、論文、読んだ、ダウンロード、自由、無料ダウンロード、mp3、video、mp4、3gp、 jpg、jpeg、gif、png、画像、音楽、歌、映画、本、ゲーム、ゲーム。