概要
航空自衛隊では、アメリカ合衆国からの対外有償軍事援助 (FMS) によって(AIM-9B サイドワインダー)を取得し、F-104戦闘機に搭載していた[3]。一方、防衛庁の技術研究所(当時)では、昭和31年度から空対空ミサイルについての部内研究および部分試作に着手し、昭和33年度からは委託技術調査も行っていた。そして昭和36年度には、航空自衛隊の要求を踏まえて研究開発構想が定められ、まずAIM-9Bと同等の性能を目標とした赤外線追尾方式のミサイルが開発されることになった。これが本ミサイルである[2]。本格的な自主開発ミサイルとしては日本で初のもので、研究開発の進め方、管理手法、評価方法など、後のミサイル開発の定型となった[4]。
昭和37年度より試験用ミサイルの試作が開始され、1963年7月には、新島試験場でパラシュートに吊り下げられた目標に対する地上発射試験を成功させた。昭和40年度に基本要目が決定され、1965年9月から11月にかけて、F-86Fによる空中発射試験が行われた。その後、1966年7月より、38発のミサイルを用いて3次にわたる総合性能確認試験を行ったのち、昭和42年度での実用試験を経て、1969年に制式化され、部隊装備のため量産段階に移行した[2]。
航空自衛隊では、AIM-9Bと並行して装備された[2]。ただし信頼性が低かったため、量産契約は1回で終了し、量産は早期に中止された[5]。なお、FMS購入したAIM-9Bの単価は約100万円だったのに対し、AAM-1は、初年度である昭和43年度で約350万円、翌昭和44年度には約419万円であった[3][注 2]。
シーカー部
後部安定翼
脚注
注釈
出典
参考文献
- 技術研究本部 編『防衛庁技術研究本部二十五年史』1978年。 NCID BN01573744。
- 木原正雄「戦後日本における兵器生産とその特徴について - ロケット・ミサイル兵器の生産を中心に」『經濟論叢』第115巻第3号、京都大學經濟學會、280-312頁、1975年3月。doi:10.14989/133596。 NAID 120002691605。
- 久野治義『ミサイル工学事典』原書房、1990年。ISBN (978-4562021383)。
- 防衛庁 (1969年). “”. 2003年10月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年9月22日閲覧。
- 三菱重工業株式会社 社史編さん委員会 編『海に陸にそして宇宙へ 続三菱重工業社史 1964-1989』三菱重工業、1990年4月。 NCID BN04680503。
- 宮脇俊幸; 本多敏; 坂元健一; 中里英明; 山崎英治; 西井茂樹「第3章 我が国における赤外線誘導空対空ミサイルの研究開発・量産の経緯」『赤外線誘導空対空ミサイルの動向』日本経済団体連合会〈防衛生産委員会特報〉、2018年、18-35頁。 NCID AA12152420。