音樂と文學社(おんがくとぶんがくしゃ、1916年3月 - 1921年11月)は、かつて存在した日本の出版社である。同人雑誌『音楽と文学』(1916年3月 - 1919年)を編集するために大田黒元雄が設立し、大田黒の著書を出版した。
略歴・概要
1915年(大正4年)2月、著書『現代英国劇作家』((洛陽堂))を、同年5月、著書『バッハよりシェーンベルヒ』(合資会社山野楽器店)と2冊の著書を上梓した大田黒元雄が、1916年(大正5年)3月、日本最初の音楽批評誌『音楽と文学』を創刊した。編集発行は「東京府下大森山王」(東京都大田区山王)の自宅においた「音楽と文学社」、発売元は岩波書店とした[1]。こうして「音楽と文学社」は発足した。
同人メンバーは、大田黒のほか、帝劇洋楽部解散を目前にした小林愛雄、のちに出版社「音楽之友社」を興す堀内敬三、のちに『トオキイ音楽論』(往来社、1932年)を著す(中根宏)、のちに音楽評論家の重鎮として知られることになる野村光一、作曲家の菅原明朗、「丸木砂土」のペンネームで知られる当時三菱商事社員の秦豊吉、森村財閥の(森村豊)、登山家の(田邊主計)、音楽評論家・作詞家となる(二見孝平)、東京電気株式会社(のちの東京芝浦電気、現東芝)の(関重廣)、東京帝国大学(現東京大学)名誉教授の子息(弘田親輔)、そして(石井誠)の12人の仲間であった[1]。途中、堀内は1917年にアメリカに渡り、同誌は、1919年(大正8年)には休刊した[1]。
同社は、『音楽と文学』誌のほかに、大田黒の著書・訳著書を多く出版した。販売元はいずれも岩波書店、東京堂(現東京堂書店)であった。
1921年(大正10年)11月、大田黒は、二度目の外遊に出発、それと同時に同社の活動は停止した。1923年(大正12年)3月に大田黒が帰国するころ、編集者の長谷川巳之吉が、出版社「第一書房」を興しており[2]、大田黒の出版・執筆活動にかける情熱は、「第一書房」に注がれていった。
ビブリオグラフィ
- 雑誌『音楽と文学』 (1916年 - 1919年)
- 大田黒元雄『近代音楽精髄』 (1916年)(東京,音楽と文学社,1916)
- 大田黒元雄『歌劇大観』 (1917年) - その後、第一書房ほか、版元を変え、増補改訂新編
- 大田黒元雄『洋楽夜話』 (1917年)
- 大田黒元雄『露西亜舞踊』 (1917年)
- 大田黒元雄『続洋楽夜話』 (1917年)
- 大田黒元雄『続バッハよりシェーンベルヒ』 (1918年)
- 大田黒元雄『音楽日記抄』 (1919年)
- 大田黒元雄第一訳著集『水の上の音楽』 (1919年)
- 大田黒元雄第二訳著集『微笑と嘲笑』 (1919年)
- 大田黒元雄第三訳著集『ペトルーシュカ』 (1920年)
- 大田黒元雄『第二音楽日記抄』 (1920年)
- 大田黒元雄『第三音楽日記抄』 (1921年)