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青木拓磨

青木 拓磨(あおき たくま、1974年2月24日 - )は、日本オートバイロードレースライダー、現在はプロレーサー。群馬県子持村(現渋川市)出身。「青木三兄弟」の次男であり、兄は青木宣篤、弟は青木治親

青木 拓磨
青木 拓磨 TAKUMA AOKI(2014年)
国籍 日本
生年月日 (1974-02-24) 1974年2月24日(49歳)
東京都
レースでの経歴
ロードレース世界選手権
活動期間1993年 - 1997年
初レース1993年 日本GP 250cc
最終レース1997年 オーストラリアGP 500cc
チームホンダ
出走回数 勝利数 表彰台 PP FL 総ポイント
18 0 4 0 0 169

経歴

ロードレースライダー時代

兄弟のふたりと同じくポケバイミニバイクレースを経て、1990年にロードレースデビュー。1991年に国際A級に特別昇格し、全日本ロードレース選手権GP250クラスに参戦。兄弟ふたりが海外進出しても国内に残り、1994年はGP500クラス廃止により国内最高峰となったスーパーバイククラスへ転向。1995年はホンダワークスのHRCに入り、全日本チャンピオンを獲得した。また、NSR500に乗りワイルドカード枠で出場したロードレース世界選手権日本GPで3位表彰台を獲得した。1996年はスーパーバイククラスの連覇を達成。

 
1997年レプソル・ホンダのライダーたち。左から青木、クリビーレドゥーハン岡田

1997年には世界GPのGP500クラス(現MotoGP)にレプソル・ホンダよりフル参戦。NSR500に比べ戦闘力の劣るNSR500Vながら、開幕戦マレーシアGPで一時トップを走行。イモラでは宣篤と兄弟で表彰台に立ち、最終戦オーストラリアはアレックス・クリビーレと優勝を争い、僅差の2位。フル参戦初年度ながら表彰台を3回獲得し、年間ランキング5位を獲得した。

1998年、シーズン前に結婚し、公私ともに充実した時に事故に見舞われる。2月に栃木にあるホンダのテストコースでテスト走行中、右コーナーでハイサイドを起こし、バイクのタンクに乗りかかる格好でコースアウト。速度は50km/hも出ていなかったが、バリアに頭部から突っ込み、脊髄損傷のため下半身不随となる。

四輪ドライバーとして現役復帰

事故翌年の1999年、車椅子に乗って復帰し、ホンダ・レーシング助監督に就任。また、テレビ解説や子供向けバイク教室、参加型ミニバイクレース「レン耐」のプロデュースなど、モータースポーツ普及活動に精力的に取り組む。

それでも、レーサーとしての情熱を諦めることはできず、レース中の事故で下半身不随となった元F1ドライバーのクレイ・レガッツォーニに刺激され、レース復帰を目指す[1]。手動カート「ハンドドライブ・クロス(HDX)」で実績を積み、レガッツオーニがプロデュースしたイタリア製の身体障がい者用運転補助装置「グイドシンプレックス」を取り付けた改造車で海外ラリーに参戦。2007年、アジア・クロスカントリーラリー(タイ)に出場し総合7位、2008年は総合19位・市販車改造ディーゼルクラス優勝、2011年は総合3位の成績を残した。2009年にはダカール・ラリーに初参戦。

 
2008年アジア・クロスカントリーラリーの青木(中央)。

最初に日本自動車連盟(JAF)に競技ライセンスを申請した際には「体に50%の障がいがある人には発給できない」と断られた[1]。その後、発給されたライセンスはジムカーナラリーレイドダートトライアルなど単独走に限定され、他車と競争するレースには参加できなかった。これに対し、拓磨本人も手動での車両操作機構の開発を引き続き進めると共に、出場可能なナンバー付きヴィッツレースで腕前をアピール。さらに、友人である土屋武士らが中心となってJAFに働きかけを行った結果、2010年にライセンスの限定が解除され、国内のサーキットレース参戦が可能になった。14年ぶりに全日本クラスの競技に復帰し、スーパー耐久シリーズST4クラスに土屋と組んで参戦[2]

2013年には国際自動車連盟 (FIA) から国際競技ライセンスを発給され、現在はレーシングドライバーとして(GTアジア)、アジアン・ル・マン・シリーズなど海外のレースにも出場し、「優勝」することを目標に挑戦している。2014年にル・マン24時間レース出場プロジェクトを立ち上げ、2018年にはフランスのSRT41チームより2020年のル・マン24時間レースに特別枠で出場することを発表した[3](2020年の新型コロナウイルス感染症の影響で計画延期)。また、未来を担う青年やハンディをもつすべての人に、「夢をあきらめない、挑戦し続けること」の素晴らしさを伝えるべく、笑顔と勇気を届けるため、全国各地で講演会や訴求活動をしている。

障がいを負って以降バイクには乗れずにいたが、2019年に治親が代表となり、障がい者ライダーを支援する「サイドスタンドプロジェクト」を設立。同年7月の鈴鹿8時間耐久ロードレースの企画「Takuma Rides Again」にて、21年ぶりにバイクに乗って鈴鹿サーキットを走行した[4]。車両は、下半身不随でも走行できるよう改造された特別仕様のホンダ・CBR1000RRが使用された。同年10月の日本GP(ツインリンクもてぎ)では第二弾としてMotoGPマシンのレプリカ、ホンダ・RC213V-Sに乗り、青木三兄弟揃ってのデモランを行った[5]。11月には「鈴鹿Sound of ENGINE 2019」にて、レース中の事故で下半身不随となった元世界GP500王者ウェイン・レイニーとデモランを行った[6]

略歴

  • 1982年 - 初めてポケバイに乗る
  • 1983年 - ポケバイレース開始
  • 1986年 - ミニバイクレース開始
  • 1990年 - ロードレースデビュー
  • 1991年 - 国際A級特別昇格
全日本ロードレース選手権GP250 ランキング13位(日清カップヌードルホンダ
  • 1992年 - 全日本ロードレース選手権GP250 ランキング4位
鈴鹿8時間耐久ロードレース9位(RVF750
  • 1993年 - 全日本ロードレース選手権GP250 ランキング2位
鈴鹿8時間耐久ロードレース3位(マイク・スミス/RVF750)
  • 1994年 - 全日本ロードレース選手権スーパーバイク ランキング2位(6勝)
  • 1995年 - 全日本ロードレース選手権スーパーバイク チャンピオン(5勝/HRCRVF/RC45
  • 1996年 - 全日本ロードレース選手権スーパーバイク チャンピオン(8勝/HRC/RVF/RC45)
鈴鹿8時間耐久ロードレース3位(カール・フォガティ/RVF/RC45)
鈴鹿8時間耐久ロードレースリタイヤ(ウルトラマンレーシング/RVF/RC45)
  • 1998年 - 2月 開幕前のホンダテストコースで脊椎を損傷
  • 1999年 - ホンダレーシング助監督に就任
  • 2000年 - チームキャビンホンダ助監督
  • 2001年 - チームキャビンホンダ助監督
  • 2002年 - ホンダモーターサイクルジャパン レーシングアドバイザー
  • 2005年 - ハンドドライブクロス選手権参戦
  • 2007年 - FIAアジアクロスカントリーラリー T1-G クラス2位 (team takuma-gp/三菱・トライトン)
  • 2008年 - FIAアジアクロスカントリーラリー T2-D クラス優勝 (team takuma-gp/いすゞ・D-MAX)
  • 2009年 - ダカール・ラリー T2-2 リタイヤ ((青木孝次)/team takuma-gp/いすゞ・D-MAX)
FIAアジアクロスカントリーラリー T2-D (team takuma-gp/いすゞ・D-MAX)
  • 2010年 - HONDA EXCITING CUP CIVIC INTER 参戦
FIAアジアクロスカントリーラリー T2-D (team takuma-gp/いすゞ・D-MAX)
  • 2011年 FIAアジアクロスカントリーラリー 総合3位 T1-Dクラス3位(team takuma-gp/いすゞ・D-MAX)
  • 2012年 スーパー耐久ST-2クラス年間ランキング3位
FIAアジアクロスカントリーラリー T1-D (team takuma-gp/いすゞ・D-MAX)
  • 2013年 FIA GT ASIA FUJIラウンド GTMクラス5位 (DIJON RACING/シボレー・コルベットGT3)
FIAアジアクロスカントリーラリー T1-D (team takuma-gp/いすゞ・D-MAX)
  • 2014年 FIA GT ASIA KOREAラウンド GTMクラス 第1戦&第2戦 2戦連続優勝 ディランゴレーシング ランボルギーニ・ガヤルドGT3
  • 2020年 FIAフォーミュラEのサポートレースである国際EVシリーズ(FIA ジャガー I-Pace eTrophy)(英語版)に、第3ラウンドメキシコシティよりTEAM YOKOHAMA CHALLENGEより参戦。
  • 2021年 8月21日16:00スタート、8月22日16:00フィニッシュのFIA世界耐久選手権 第89回ル・マン24時間耐久レースにて総合32位で無事完走を果たす。

ロードレース世界選手権

1993年からのポイントシステム:

順位 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15
ポイント 25 20 16 13 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1
  • (凡例)
  • ボールド体のレースはポールポジション、イタリック体のレースはファステストラップを記録。
クラス チーム マシン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 ポイント 順位 勝利数
1993年 250cc カップヌードル-ホンダ NSR250 (AUS)
-
(MAL)
-
(JPN)
8
(ESP)
-
(AUT)
-
(GER)
-
(NED)
-
(EUR)
-
(RSM)
-
(GBR)
-
(CZE)
-
(ITA)
-
(USA)
-
(FIM)
-
8 24位 0
1994年 250cc NSR250 (AUS)
-
(MAL)
-
(JPN)
5
(ESP)
-
(AUT)
-
(GER)
-
(NED)
-
(ITA)
-
(FRA)
-
(GBR)
-
(CZE)
-
(USA)
-
(ARG)
-
(EUR)
-
11 20位 0
1995年 500cc HRC-ホンダ NSR500 (AUS)
-
(MAL)
-
(JPN)
3
(ESP)
-
(GER)
-
(ITA)
-
(NED)
-
(FRA)
-
(GBR)
-
(CZE)
-
(BRA)
-
(ARG)
-
(EUR)
-
16 23位 0
1996年 500cc NSR500 (MAL)
-
(INA)
-
(JPN)
NC
(ESP)
-
(ITA)
-
(FRA)
-
(NED)
-
(GER)
-
(GBR)
-
(AUT)
-
(CZE)
-
(IMO)
-
(CAT)
-
(BRA)
-
(AUS)
-
0 - 0
1997年 500cc レプソル-ホンダ NSR500V (MAL)
5
(JPN)
4
(ESP)
4
(ITA)
NC
(AUT)
NC
(FRA)
5
(NED)
NC
(IMO)
3
(GER)
3
(BRA)
-
(GBR)
10
(CZE)
6
(CAT)
7
(INA)
7
(AUS)
2
134 5位 0

バイク関連以外での受賞歴

  • アクアピースゴールデンハート賞(2001年) ※アクアピースネットワーク主催[7]

出演

テレビ番組

CM

映画

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ a b 《インタビュー》青木拓磨「目標はル・マン優勝」“挑戦”への情熱を語る - as-web.jp・2010年3月3日
  2. ^ スーパー耐久シリーズ、開幕直前合同テスト ハイブリッド車も特認、車イスの青木拓磨選手も参戦 - Car Watch(2010年3月24日)
  3. ^ 元WGPライダーの青木拓磨が2020年のWECル・マン24時間レースに出場 - autosport web(2018年10月10日)
  4. ^ 【2019 鈴鹿8耐】感動のデモラン 青木拓磨が鈴鹿に帰ってきた! 東京中日スポーツ - YouTube
  5. ^ 青木拓磨がレプソルカラーのホンダRC213V-Sを駆る。26年ぶりに3兄弟揃って走行/MotoGP日本GP - autosport web(2019年10月17日)
  6. ^ 車いすの元GPライダー「ウェイン・レイニー」と「青木拓磨」がバイクで走行 - Automesse web(2019年11月19日)
  7. ^ アクアピースゴールデンハート賞.NPO法人/アクアピースネットワーク.2016年元日閲覧。

関連項目

日本人ライダー一覧

外部リンク

  • takuma-gp - 公式サイト
  • ATHLETEBANK - レースマネージメント
  • 青木拓磨のモータースポーツチャンネル - Youtube
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