近藤 台五郎(こんどう たいごろう、1907年6月1日 - 1991年2月9日)(正字は薹五郎)は、東京府出身の女子医科大学教授(消化器内科)。日本における消化管ファイバースコープ開発,研究の草分け的存在.学生時代はサッカー選手であった。父は近藤次繁。妻は瀧川儀作の三女の信、近藤紘一は息子に当たる。
経歴
東京高等師範学校附属中学校(現:筑波大学附属中学校・高等学校)を経て、水戸高校に入学[2]。在学中はサッカー部に所属し、1927年8月にマニラで開催された第8回極東選手権競技大会のサッカー日本代表に選出され、2試合に出場した[3]。なお、春山泰雄は水戸高校の1学年先輩に当たる。
水戸高校を卒業後は東京帝国大学に入学してア式蹴球部に入部した。在学中の1930年5月に開催された第9回極東選手権競技大会のサッカー日本代表にも選出されたが、出場機会は無かった[2]。
1933年に大学を卒業後はサッカー界から距離を置いて[4]、医業に専念。1944年に上海市の同仁医科大学教授を務めたが、太平洋戦争の終戦と共に1946年に帰国して、東京大学の講師を務めた。その後、1948年に胃腸病院の副院長。1954年に川島胃腸クリニックの副院長を経て、1966年に東京女子医科大学教授に就任した[5]。
日本では1952年に胃カメラ(オリンパス光学,ガストロカメラ)が発売されて使用されていたが,当時アメリカではファイバースコープの開発が進められていた.ファイバースコープは,グラスファイバーを束ねた柔軟なコードを体内に挿入し,検者はスコープで直視下に観察しながら自在に操作することができる.1958年,第1回世界消化器病学会の席上,満を持して胃カメラの画像を発表した日本の研究者グループは,アメリカから発表されたファイバースコープに衝撃をおぼえた.当時のファイバースコープは,まだ画素数が少なく,胃カメラに比べればはるかに画質が劣ったが,盲目的な撮影しかできない胃カメラに対し,自在に方向を変えて直視下に観察できるファイバースコープの優位性は明らかであった.近藤臺五郎はアメリカからファイバースコープを持ち帰り,1963年,近藤の指導のもと町田製作所が国産第1号機を完成,翌年にはオリンパス光学も製品が発売され,その後消化管ファイバースコープの世界的トップメーカーに発展した.
所属クラブ
- 東京高等師範学校附属中学校(現:筑波大学附属中学校・高等学校)
- 水戸高校
- 東京帝国大学
代表歴
出場大会
- 1927年:第8回極東選手権競技大会
試合数
- 国際Aマッチ 2試合 0得点
出典
関連項目
外部リンク
- 近藤台五郎 - National-Football-Teams.com (英語)