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西塚十勝

西塚 十勝(にしづか とかち、1912年7月10日 - 2006年12月23日)は、北海道出身の日本中央競馬会 (JRA) 調教師。元騎手大正から平成まで競馬と関わり続け、「中央競馬に西塚あり」とまで言われた競馬界の重鎮であった。

西塚は様々な災難を逃れてきた驚異的な強運の持ち主であったことでも知られている。

長男は同じく元調教師の(西塚安夫)(養子のため、血の繋がりはない。)、孫はかつて安夫厩舎に所属し、安夫の死後は移籍して現在は尾関知人厩舎の調教助手を務める(西塚信人)である。

経歴

その他の活動

自身が両親を亡くして苦労をしてきた経験から、身寄りのなくなった知り合いの子供や養護施設の子供を引き取るなど慈善活動にも力を入れていた。なお、西塚は結婚はしたが血の繋がった子供はいなかった。

強運のエピソード

西塚は調教師としても(コマミノル)(オークス)やミスカブラヤエリザベス女王杯)などで大競走制覇の実績を残しているが、日本の事件・事故史に残る様々な災難をあわやのところで逃れてきたことから、「厄除大師」「ミスター強運」などの異名を持つほどであった。テレビ番組『ザ!世界仰天ニュース』でも取り上げられたことがある。

関東大震災
1923年9月1日、西塚は横浜の奉公先で関東大震災に遭遇した。いつものように向かいの瀬戸物屋の商品がカチャカチャとぶつかり合う光景(西塚本人は「カタカタショー」と呼んでいた。)を眺めようと道路に飛び出した途端にパン屋の1階部分が完全に倒壊し、すんでのところで難を逃れた。なお、横浜は直後に猛火で焼け野原となっており、脱出できなければ焼死必至の状況だった。
洞爺丸事故
1954年9月26日、移動のため函館から青函連絡船4便に乗船予定だった。切符も持っていたが、知人に誘われて湯の川温泉での宴会に出席する。ところが、宴会が深夜まで続いてしまい席を立ちそびれ、その4便洞爺丸に乗り遅れた。洞爺丸は出港した後台風15号の強風によって七重浜沖で転覆、死者・行方不明者あわせて1139人という大惨事になったが、西塚は遭難を免れた。
ばんだい号墜落事故
1971年7月3日、西塚と同じ北海道出身の同僚で友人だった柏谷富衛調教師と共に東亜国内航空63便(函館行)に搭乗予定であり、車で待ち合わせ場所の丘珠空港へ向かった。しかし、直前に知人と立ち寄った料理屋で女将が料理を失敗(白米を炊き忘れる。)するというトラブルに巻き込まれて出発が遅れてしまい、「これは(飛行機に)間に合いそうにないな」と、宿泊する宿のことを考えていた。それでも10分遅れで丘珠空港に到着した際、偶然にも飛行機はまだ離陸していなかった。西塚は最初は搭乗しようとしたが(チケットは二人分、柏谷が持っていた。)、航空会社が既にキャンセル待ちの人を乗せてしまっていたのを見て「一度乗せてあげた人を降ろしたらかわいそうだから」と搭乗を辞退した。「札幌で一泊しないか」と柏谷を誘うも、カウンターでずっと待ち続けていた柏谷は「俺はお前ほど暇じゃねぇんだ!」と怒り(この時、自厩舎の主な管理馬に天皇賞リキエイカンがおり、柏谷の仕事が忙しいのは事実だった。)、一人で乗り込んでしまった。ところがその「ばんだい号」が函館を前にして横津岳に墜落、柏谷を含む乗員・乗客全員が死亡する大惨事となった。西塚は命拾いしたが、「あの時、柏谷をもっと強く引き止めておけば…。」と終生悔やんでいたという。
ホテルニュージャパン火災
1982年2月7日夜、西塚は東京の常宿だったホテルニュージャパンの9階にチェックインし、その後友人4・5人と新宿で飲み明かす。飲み終わったあとにふと懇意にしていた女性のバーに寄ることを思い付き、明け方までそこで過ごした。明け方、永田町のホテルに戻ると大火災が発生しており、結果的に死者33人を出す大惨事となっていた。もしもバーに寄らずにまっすぐホテルに戻っていたとすると、寝静まった頃合に火災が発生していた計算になる。出火場所は西塚がチェックインしていたのと同じ9階だった。

なお、関東大震災以外はすべて現地の愛人宅で過ごしていたために難を逃れたというのが真実であるとする、親族や牧場オーナーの証言も死後に伝えられている[1]。もっとも、この様に災難に対しては強運を持つ人物ではあったがいざ本業の競馬となると、ダービーカブラヤオーについて生産牧場でもある十勝育成牧場の共同経営者であったにも関わらず、馬体のみすぼらしさから「馬房が一杯で空きがありませんので勘弁してください」という理由をつけて預託引き受けを断ってしまったというエピソードがある[2]

実績

  • 成績:5514戦510勝(1954年以降の中央競馬成績)
  • 重賞勝利:11勝

優勝馬

主な厩舎所属者

※太字は門下生。括弧内は厩舎所属期間と所属中の職分。

  • 古賀一隆(1965年-1968年 騎手)
  • 西塚安夫(1972年-1986年 調教助手)
  • 星野信幸(1987年-1988年 騎手)

脚注

  1. ^ 週刊新潮2012年2月9日号・「私はこうして死から逃れた!」-ホテルニュージャパン火災から30年
  2. ^ 瀬戸慎一郎. “”. Yahoo!スポーツナビ+. 競馬最強の法則WEB. 2016年4月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年3月16日閲覧。

関連項目

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