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ホテルニュージャパン火災

ホテルニュージャパン火災(ホテルニュージャパンかさい)は、1982年昭和57年)2月8日未明、東京都千代田区永田町2丁目のホテルニュージャパン(株式会社ホテルニユージャパン経営、地下2階、地上10階建、延床面積4万6,697平方メートル)で起こったホテル火災である。

ホテルニュージャパン火災
火災後の跡地(1993年8月30日撮影)
1996年に解体されるまで放置されていた
現場 日本東京都千代田区永田町2丁目13番8号
北緯35度40分32.9秒 東経139度44分19.3秒 / 北緯35.675806度 東経139.738694度 / 35.675806; 139.738694座標: 北緯35度40分32.9秒 東経139度44分19.3秒 / 北緯35.675806度 東経139.738694度 / 35.675806; 139.738694
発生日 1982年(昭和57年)2月8日
3時24分
類焼面積 4186 m2
原因 宿泊客の寝たばこの不始末
死者 33人
負傷者 34人

直接の原因は宿泊客の寝タバコの不始末だったが、同ホテルの内部構造上の問題に加え、当時同ホテルのオーナー兼社長だった横井英樹が行った利益優先主義に基づく経営や杜撰な防火管理体制なども被害拡大の要因となった。後に横井は、杜撰な防火管理体制の下に経営を行い、防火および消火設備の維持管理や従業員に対する指導を怠り、被害を拡大させたとして刑事責任を問われ、業務上過失致死傷罪により禁錮3年の実刑判決を受けている。

概要

火災は1982年昭和57年)2月8日に発生。同日の宿泊客は442人。うち9階と10階に宿泊していたのは103人で、この多くは中華民国台湾)や韓国からのさっぽろ雪まつりツアー(61人)の宿泊者だった。

出火時刻は日本時間の午前3時24分[1]。主に火元の9階と10階を中心に7階から10階(塔屋の一部を含む)の範囲の4,186平方メートルが焼損し、約9時間後の同日12時36分に鎮火した。

東京消防庁の調べでは、出火の原因は9階938号室に宿泊していたイギリス人の男性宿泊客[注 1]の酒に酔った寝タバコが原因であった。極初期のボヤで一度目が覚め、毛布で覆って完全に消火したつもりで再び寝入ったが火は消えておらず、覆った毛布に着火して部屋中に燃え広がったと見られる。消防に通報が入ったのは出火から約15分後の3時39分10秒頃だが、この通報は通行人のタクシー運転手からのものであり、この間はホテルの従業員からの通報はなかった。

この火災でホテルの宿泊客を中心に死者33名(台湾人12名(うち1人は妊婦)、日本人11名、韓国人8名、アメリカ人(日系アメリカ人)1名、イギリス人1名[2][信頼性要検証])・負傷者34名を出す惨事となった。廊下での焼死など火災による死者が多かったが、有害ガスを含んだ煙から逃れるために窓から飛び降りて命を落とした者も13名いた。なお、9階と10階の生存者の中には火災で非常口から避難ができず、シーツロープ代わりにして窓から下の階へ避難した者や消防隊に救出された者もいた。

延焼範囲が広がった原因

利益第一主義と防災に対する無関心

ホテルニュージャパンが開業した1960年(昭和35年)当時の消防法では、防火設備に乏しい建物でも営業に問題は無かったが、1972年(昭和47年)5月13日深夜に発生した千日デパート火災[注 2]を教訓に、特定防火対象物においてはスプリンクラーや防火扉などの設置義務と不燃材による内装施工必須、さらには既存不適格の防火対象物に対する設置基準と技術基準の遡及適用の実施を盛り込んだ改正消防法が1974年(昭和49年)に施行された。

それから5年後の1979年(昭和54年)に当時経営難で存続の危機に瀕していたホテルニュージャパンを買収し、同ホテルのオーナー兼社長へ就任した横井英樹は、ホテル経営については全くの素人であり、改正消防法に基づくスプリンクラーや防火扉の設置や、不燃材による内装施工を消防当局より命ぜられた旨の報告を部下から受けても、経費削減を理由にそれらの安全や災害対策関連の予算執行を認めず、消火器を買い増す旨を指示しただけだった。さらに設備点検費や更新費の滞納により定期点検業者を撤退させた結果、館内の消防用設備の故障が長期間に亘って放置された。

同ホテルは、度重なる消防当局からの指導にもかかわらず(しかし東京消防庁は「適」の合格点を与えていた[3])、経費削減を理由にスプリンクラー設備などの消防用設備を設置せず(スプリンクラーヘッド自体はあるが配管がつながっていなかったものもあった[4])、消防当局や専門業者による防火査察や設備定期点検も拒否し続けていた。

刑事裁判の記録によれば「社長の横井英樹は消防当局より『当時のホテルニュージャパンは建物の老朽化が著しかったため、改正消防法に適合させるにはスプリンクラーや防火扉などの新設のみならず、館内の電気設備や給排水設備の全面改修も必要である』旨を知らされていた。しかし横井は、関係当局や部下からの進言、勧告、上申に対して聞く耳を一切持たずに無視し、専ら儲けと経費削減のみで安全対策への投資はしない方針を貫いていた」と書かれている。その一方で横井は、安全対策関連の経費削減とは裏腹に、宿泊客の増加に繋がりそうな事案には惜しみない投資をしていた。例えばロビーなど客の目にとまる部分を豪華な内装へ変更したり、高価な美術品を展示したりすることなどである。

こうした横井の態度に業を煮やした東京消防庁は、1981年8月に「消防法に基づく館内防災設備の改善命令」を麹町消防署署長から発令し、横井に対して「消防署からの再三にわたる命令を無視して、ホテルの館内防災設備の不備と欠陥状態を今後も改善しない場合には、直ちに消防法に基づく営業停止処分を科す」旨の最後通牒を突きつけたことで、横井はようやく危機感を抱いて「スプリンクラーを設置するなど消防設備の改善を行う」と表明し、重い腰を上げた。しかしスプリンクラー設置に関しては、一部フロアにスプリンクラーヘッドを取り付けただけの見せかけで、水が全く出ない状態だった。スプリンクラー設置をはじめとする館内の防火環境改善工事は、火災発生2日前(2月6日)に着工される旨が決まり、その矢先に今回の火災事故が起きた[5]

保守管理されていなかった消防用設備

火災報知機や煙感知器も故障したまま修理されず放置されていた。館内非常ベルは手動式で、警備員または従業員が操作しない限り鳴らない仕組みだった。更にホテルの館内放送設備も壊れたまま手をつけず、その使用方法にも誤りがあった。

今回の火災覚知後に非常放送用テープを作動させようとしたが、再生装置の駆動ベルトが切れていて回転せず、放送用マイクもヒューズが切れていて使い物にならず、結局は非常放送ができなかった。さらに館内放送用の配線端子とケーブルも一部が接触不良の状態になっていた[6]

必要不可欠な設備を停止

通常は24時間常時稼働しているはずの全館加湿装置が電気代を節約する目的で横井の独断により止められ、暖房のみが稼働する状態になっていた。このため火災発生時のホテル内は異常に乾燥しており、延焼が起こりやすくなっていた。

避難行動に不向きな内部構造

ホテルニュージャパンは、当初の計画では高級アパートとして建設する予定だったが、高度経済成長で急増する宿泊施設の需要に対応する目的で急遽「ホテル」へ用途を変更した。3本の中廊下を120度の角度でY字型に組み合わせ、廊下の先端で同様の構造を持つ別棟を組み合わせたフラクタルな構造になっており、どの部屋からも外の景色が見えるようにするためのデザインになっていた。

住居の用途で使用する分には問題とならない構造であるが、不特定多数が利用する宿泊施設としては問題があった。初めて利用する宿泊客や外国人客には方向感覚が麻痺しやすく解りにくい特殊な構造であり、内部が迷路のような空間になることで火災発生時の避難行動に支障を生じさせる要因になった。さらに本件ホテルには非常口への誘導表示はあったものの、それらは役に立たなかった。延焼階には煙が充満し、停電も発生していたことから宿泊者が火災発生を覚知した時点で避難するには既に手遅れになっていた。視界は全く利かず、避難者は非常口を確認できなかった。

従業員の削減と経営者の横暴

1960年の開業当時のホテルニュージャパンには320人の従業員が在籍していた。しかし、同ホテルを買収して社長に就任した横井は、利益第一主義を掲げて安全対策費用も含めた経費削減を徹底させた。横井の独裁に耐えかねて離職者が続出したほか、横井も自分の意にそぐわない従業員を容赦なく解雇した。その一方で従業員の新規採用や欠員補充は一切行わなかったために火災発生当時の在籍従業員は134人にまで減少していた。火災発生当夜の当直従業員はわずか9人だった。そのため各従業員は、担当以外の業務を幾つも兼任しなければならず、一人あたりの仕事量が急増していた。こうした激務に対して従業員らは横井に対して上申や要望を出したが、ことごとく退けられた。自転車操業による給与の滞りも重なって従業員の士気は著しく低下し、防災訓練や館内防火設備の把握すらも、まともにできない状態になっていた。さらに横井は、日銭を増やすためにホテルの駐車場を有料化し、そこには受付業務担当の従業員は置かず、安全管理が本業の警備員に駐車場の受付もやらせた。さらには経費削減のため警備員の夜間定期巡回の廃止や人員の大幅削減にまで踏み切っていた。ホテル駐車場の料金収入は、館内防災設備の改善費用としては使われず、横井自身の懐に入るのみだった[7]

防火教育の不足および初動対応の不手際

2月8日午前3時17分頃、フロントマンをしていた当直従業員Aが別の当直フロント担当Dと勤務を交替した。この時に当直勤務に就いていた従業員はAを含めてルームサービス係B、ページ係C、フロント係Dの計4人がいた。従業員Aは、仮眠を取るために9階の当直従業員用の仮眠室として使用している一般客室968号室へ向かった。9階に上がった従業員Aは、きな臭さを感じたことからエレベーターホールに設置していた灰皿を確認したが異常はなかった。その直後にAは西棟中央ホール寄りの北側に位置する938号室から煙が噴出し、廊下の上部に煙の層が出来ているのを発見した。従業員Aは、火災を発見した時の対応を知らなかったことから客室のドアを直接ノックして声掛けをしたり、宿泊客に対して大声で緊急事態を知らせたりするなどの行動を取らなかった。内線電話でフロントに連絡することも行わなかった。従業員Aは、客室内を確認する必要があると考え、マスターキーを取りにフロントへ戻った。従業員Aから火災発生の一報を受けた別の当直従業員BとCの2人は、Aと共にマスターキーを持って9階へ上がった。従業員Bが938号室の宿泊客に対してノックと声掛けをしたところ、客室内から英語で助けを求める声が聞こえたので、従業員Cはマスターキーを使ってドアを開けた。

一方、警備員らも内線電話による火災発生の緊急連絡をフロントから受けた。警備員Aは、仮眠していた4人を起こした。警備員Bに対してすぐ非常ベルを鳴らすよう命じた後、自身は9階の火災現場へ向かった。ところが警備員Aは、一人での対応には不安を感じたため、他の警備員と一緒に対応しようと考え、宿泊客らに対して直ちに避難を呼びかけるなどの対応を取らず、宿泊客らを部屋に残したまま警備室へ戻ってしまった。警備員Bは手動式非常ベルの操作方法を知らず、火災発生の緊急館内放送も行わなかった[注 3]

938号室のドアが開いたとき、客室内から全裸の外国人男性客がよろけながら出てきた。その時に当直従業員3人が938号室の内部を確認した時は、火がベッドの内部深くを燻焼したあと、表面へ燃え移る形で出火し、その勢いを増し、天井や壁を這うように燃焼していた。従業員Bは同階中央ホールに設置されていた消火器を使用し、初期消火を試みたが、消火し切らないうちに薬剤が尽きてしまった。従業員Bは直ぐに別の消火器を探したが、9階では見つけられずに8階の中央ホールまで取りに行った。従業員Aは9階の消火栓を使おうとした。ところが消火栓の使い方が解らず、開閉バルブを開けることができなかった。消火器を持って9階へ戻ってきた従業員Bと従業員AとCの3人はこれ以上の消火活動は無理だと判断し、宿泊客に対する避難誘導、廊下全体の煙の広がり具合を確認するなどの行動を全くせず、火元の938号室のドアを開けたまま真っ先に従業員専用エレベーターで9階から4階を経由して1階フロントへ戻ってしまった。そのため、938号室がフラッシュオーバー現象による爆発燃焼を起こして炎が廊下へ吹き出し、廊下と各部屋は瞬く間に炎と煙に包まれていった。従業員Aが煙を最初に発見してから本格的な火災に発展するまで、わずか10分程度の出来事だった。

938号室のドアを開ける段階で、従業員が消火器または屋内消火栓に繋がるホースなどの消火設備をあらかじめ用意していれば、迅速な消火活動ができたはずである。だが、火炎を目視した後に消火器や消火栓を準備したため、初期消火が遅れた。初期消火においては、消火栓が使用できず、使われた機材は消火器1本だけであり、初期消火は不十分であった。ホテルの従業員が119番通報したのは、938号室の異変が認知されてから約20分後の、初期消火を諦めた後であったため、最初に119番通報したのはホテル関係者ではなく、偶然ホテルニュージャパンの前を通り掛かり、火災を目撃した勤務中のタクシー運転手だった(2報目は議員宿舎関係者、ホテルは3報目)。こうした初動の不手際が重なり、初期消火に失敗したことで938号室で発生した火災は、その勢いを増していった。火災発生時に就寝中だった9階以上の宿泊客は、938号室に近い別の部屋に宿泊していた女性客が悲鳴を上げたことで初めてその近くの宿泊客が火災発生に気づいて避難を開始するものの、そこから離れた部屋に宿泊していた客がこの時点で火災に気付くことはなく、彼らが火事に気づいた時は既に手遅れで、猛火と煙に行く手を阻まれ、非常口への経路を塞がれ逃げ場を失う形となってしまった。

この間、従業員らによる組織的かつ適切な避難誘導は確認されなかった。そもそも従業員控室は、専用の部屋が用意されておらず、経費削減の一環から各階の客室を使用していたために一斉の緊急呼び出しができず、各従業員が待機する各客室へフロントから内線電話を掛けて呼び出す必要があったために非常招集に時間が掛かる状態だった。その上彼らは、火災発生時にもしも小火程度で収まって大事に至らなかった場合は「無意味な騒ぎを起こした」と横井から叱責されるのを恐れ、非常事態においても社長の顔色を窺うような雰囲気に陥っており、火災発生に際して緊急事態を大声で周囲に知らせず、通常の巡回時と同様に小声で各部屋を軽くノックするだけであった。

客室内の防火対策の不備

客室内の内装には防炎加工なしの化繊を用いた絨毯やカーテン、シーツ、毛布類が使われていたことから、延焼した際に可燃性の有毒ガスを多量に発生させ、フラッシュオーバー現象による燃焼拡大の危険性を高めた。客室間の間仕切り壁はコンクリートブロックが使われていたが、その一部に穴を開けて木レンガを配し、そこに角材を打ち付け、その上に可燃性の壁紙を貼ったベニヤ板を貼り付けていた。使用されたコンクリートブロックも継ぎ目に対してモルタルによる埋め戻しが不十分で所々に隙間があり、壁を燃やした炎がその隙間や燃えた木レンガの穴を通って隣室に燃え移った。さらに設備関係の配管用に壁やスラブに開けられた貫通孔(スリーブ)がきちんと埋め戻されておらず、客室ドアも木製だったために防火区画としての機能を有しておらず、煙を感知すると自動的に閉まる仕組みの随時閉鎖型防火戸(防火扉)も大半は廊下に敷かれていた絨毯に阻まれて火災発生時に閉鎖せず、その機能を果たさなかった[注 4]。以上のような防火管理の不備や施工上の欠陥が炎や煙の通り道を数多く生み、延焼の拡大を早める要因となった。さらに、スプリンクラー設備の配管が最初から設置されておらず、天井にスプリンクラーヘッドを単体で接着して、あたかもスプリンクラーが設置されているかのように偽装して消防当局を欺いていたことも明らかになった[注 5]

消防の対応

東京消防庁は、3時39分入電の「タクシー運転手からの119番通報第一報」を受け、消防車など21台、救急車1台を出場させたが[注 6]、「上階が激しく延焼し、要救助者が多数発生している」という状況報告を受け部隊を増強し、午前4時2分に最高ランクの出場態勢である「火災第4出場」、さらに基本運用規程外の応援部隊を出場させる「増強特命出場」と、多数の負傷者に対応するための「救急特別第2出場」をあわせて発令した。消防ポンプ車48台、はしご車12台、救助車8台、救急車22台、消防ヘリコプター2機を始めとする消防隊等123隊、消防職員627名、消防団員22名を投入。消防総監が現場に出向き「(本部指揮隊車)」(東京消防庁本庁にだけある、指揮車の中で最も大きく重装備の車種)を使って出場全部隊を陣頭指揮するという、品川勝島倉庫爆発火災以来の、全庁を挙げての消火活動と救助活動を行い、特別救助隊やはしご隊を中心に逃げ遅れた宿泊客63名を救出した[注 7]

また、この火災が起きた翌朝に日本航空350便墜落事故が発生し、相次ぐ惨事に東京消防庁やマスコミ各社は対応に追われた。

火災後の顚末

横井らの対応

 
増上寺敷地内にあるホテルニュージャパン火災犠牲者慰霊の聖観世音菩薩像

本件ホテルの代表取締役社長である横井英樹は、火災発生現場に蝶ネクタイ姿で登場し、報道陣に対して拡声器で「本日は早朝よりお集まりいただきありがとうございます」「9階10階のみで火災を止められたのは不幸中の幸いでした」などと緊張感に欠ける発言をしたことに加え、「悪いのは火元となった宿泊客」と責任を転嫁する発言をした。

横井はまた、火災当時に人命救助よりもホテル内の高級家具の運び出しを指示したとされるが、その一方で同ホテルに保管されていた藤山愛一郎による中国近現代史料コレクション「藤山現代中國文庫」が焼失している。火災発生当時、警備室で対応にあたっていた警備員は、ホテル内にある家具類の搬出場所を指示した横井からの電話応対に追われていたため、いち早く現場に駆けつけて救助活動を始めようとしていた東京消防庁麹町消防署永田町出張所・第11特別救助隊隊長(当時)の高野甲子雄より「9階に行く非常階段を教えて欲しい」と言われても「今、社長と電話中だ」と言ってすぐに返事をしなかった。業を煮やした高野が警備員の胸倉を掴みながら「客の命がかかっているんです。すぐに教えてください!」と一喝したことで、警備員は初めて事の重大さと差し迫った危機を認知し、非常階段の場所を高野らに教えたという。横井は後に高野に「口止め料」として賄賂を持ち掛け、「どれだけ多くの人が亡くなったか分かっているのか!それを持って出ていけ!」と激怒した高野に追い返されたことも明らかになっている。

高野は本件火災において、外国人客(救助後に病院へ搬送されるも死亡が確認された)の救助活動中にフラッシュオーバー現象に遭って身体が炎に包まれ、喉元に激しい気道熱傷を負った(救出直後に水を飲んだことで大事には至らなかった)[注 8]。当初、当該外国人客の救助には高野の部下である浅見昇が向かっていたが、部隊の中で最も俊敏な体力を有する浅見は、煙が充満した10階フロアで館内捜索と救助を実施していたため、空気呼吸器のボンベ内の空気を大量に消費していた。男性客の救助活動中に空気ボンベの残量が少なくなった旨の警報が鳴ったため、同僚隊員より「すぐに外へ脱出しろ」と指示された。このため浅見は、やむを得ず要救助者の宿泊客を部屋に残して屋上へ戻り、空気ボンベを交換後再度、先の要救助者の救助活動を自ら志願した。しかし、部屋の中はいつフラッシュオーバーが起きてもおかしくない状況だったため、高野自らが救助活動を行った。火傷を負った高野は救助活動続行を志願していたが、同行していた救急隊員に制止されて病院へ搬送されている。

横井の元部下は「横井は火災発生当時、ただ黙って途方に暮れ呆然としてばかりいて、部下に対して何一つ指示を出していなかった」と証言しているほか、当時の裁判記録には「儲けと経費削減に終始し安全を軽んじた横井の経営方針は『客を欺くのに等しい行為』と言われても仕方がない」とまで書かれている(フジテレビ系列『奇跡体験アンビリバボー』2015年10月8日放送分より)。

さらにホテルニュージャパンでは、必要最低限の人員による過酷な労働環境、従業員や警備員への給与遅滞、部下からの上申や要望が横井にことごとく退けられたことよる士気の低下、横井の極端なワンマン体制による組織間の意思疎通不足と、仕事に対する意欲低下が蔓延しており、加えて従業員への防災教育が完全に疎かになっていたため、火災発生時に火元の9階と上階の10階で宿泊客を避難誘導した従業員が誰一人としておらず、客はそれぞれ独自の判断で避難を余儀なくされた。1人の日系アメリカ人の実業家の客が、9階にいた他の宿泊客を避難誘導するために自主的に最後まで行動し、出張に同行していた部下を避難させた後に一酸化炭素中毒で死亡した。そのような中で従業員の大半は、社長の横井と共に呆然と立ち尽くすのみだった。

横井は火災発生翌日(2月9日)以降の記者会見で謝罪はしたものの、防火管理体制の不備などを報道陣より指摘されても、自身の責任については終始曖昧な発言を貫いた。横井の責任逃れともとれる言動は、遺族などから手厳しく非難された。

のちに横井は衆議院地方行政委員会へ参考人招致され、その席上では「従業員に対しては日頃からお客様の安全を守るように教育してきた」と述べていた。しかし実態は横井の答弁と正反対で、少ない人員の割に膨大な仕事量という環境から、従業員への防災訓練はほとんど行われていなかった(NHKアーカイブス「ホテルニュージャパン火災」動画より)。

ホテルニュージャパンは、火災発生から2日後の1982年2月10日に東京都より「消防法違反と業務上過失致死傷による営業禁止処分」を受けた。同年3月2日、東京消防庁は消防法第5条に基づき2階以上の部分の使用停止を命令。さらには同日、東京都都市計画局が建築基準法第9条第7項に基づき、是正措置が完了するまで2階以上の使用を禁止する命令を出した。同ホテルは火災事故直後、「出火お詫び」と題する文章が書かれた横井直筆の貼り紙を正面玄関前に掲示していたが、ほどなくして廃業している。また、犠牲となった宿泊客33人の仮通夜が営まれた港区芝公園四丁目の増上寺敷地内には、「ホテルニュージャパン火災事故の犠牲者を慰霊しその教訓を後世に伝えるための観音像」が火災事故から5年後の1987年2月8日に横井によって建立された。

同ホテルを事務所としていた戸川猪佐武は火災で損害を受けたため、他のテナントと共に社長の横井に対する損害賠償訴訟を起こした。

廃業後の建物

建物地下にあったナイトクラブ「ニューラテンクォーター」はホテルとは別営業だったため、火災後も1989年まで営業を続けていた。その閉店後、旧ホテルニュージャパンの建物は横井に対して多額の貸付を行っていた千代田生命保険によって、貸付金の回収を目的とした競売にかけられるが、火災等の曰く付きの土地を購入しようという投資家は見当たらず、千代田生命が自己落札し自ら敷地を保有した。

その間建物は都心部でも一際恵まれた好立地でありながら廃墟のまま放置され続けていたが、火災から14年後の1996年に解体された。跡地は千代田生命によって再開発事業が行われ、ビルが建設されていたが、2000年に千代田生命は経営破綻する。その後、プルデンシャル生命保険森ビルと合弁会社を設立して土地と建設途中のビルを購入し、2002年にオフィスや賃貸マンションからなる「プルデンシャルタワー」として開業させている。

裁判

最高裁判所判例
事件名 業務上過失致死傷
事件番号 平成2(あ)946
1993年(平成5年)11月25日
判例集 刑集第47巻9号242頁
裁判要旨
ホテルの客室から出火し、スプリンクラー設備やこれに代わる防火区画が設置されておらず、従業員らにおいても適切な初期消火活動や宿泊客らに対する通報、避難誘導等ができなかったため、多数の宿泊客らが死傷した火災事故において、ホテルを経営する会社の代表取締役社長として、ホテルの経営、管理業務を統括する地位にあり、その実質的権限を有していた者には、スプリンクラー設備又はこれに代わる防火区画を設置するとともに、防火管理者を指揮監督して、消防計画を作成させて、従業員らにこれを周知徹底させ、これに基づく消防訓練及び防火用・消防用設備等の点検、維持管理等を行わせるなどして、あらかじめ防火管理体制を確立しておくべき注意業務を怠った過失があり、業務上過失致死罪が成立する。
第二小法廷
裁判長 中島敏次郎
陪席裁判官 藤島昭木崎良平大西勝也
意見
多数意見 全員一致
参照法条
刑法(平成3年法律31号による改正前のもの)211条
(テンプレートを表示)

オーナー兼社長の横井英樹について業務上過失致死傷罪禁錮3年の実刑判決が確定(1993年11月25日最高裁)した[8][9]

その他

  • 犠牲者の中には、フォークバンドの高石ともや&ザ・ナターシャー・セブンマネージャープロデューサーであった(榊原詩朗)がいた。
  • 日本中央競馬会所属の調教師だった西塚十勝東京滞在時の定宿にしており、火災当日は火災現場となった9階にチェックインしていた。チェックイン後に飲食のためなどに外出し、そのまま深夜まで戻らなかったため難を逃れた。
  • ビートたけしは火災当日にホテルニュージャパンに宿泊しようとしたが持ち合わせがなく、やむを得ず新宿に在住していた高田文夫に借金し、そのまま(新宿プリンスホテル)に宿泊したために難を逃れた。なお、たけしがストーリーテラーを務めるフジテレビの『奇跡体験!アンビリバボー』2015年10月8日放送回においてこの火災事故が関係者へのインタビューや再現ドラマを交えながら紹介された[10]
  • 当時吉本興業は東京での定宿としてホテルニュージャパンを利用していたが、桂文枝(当時は桂三枝)は「廊下が霞がかっていたり、寝つきが悪い」ことを理由とし、吉本に「追加料金を出すから宿を代えてくれ」と頼むと、他のタレントもこれに追従してホテルニュージャパンを使わなくなった。火災が発生したのはその数か月後だった。
  • 23年後の2005年(平成17年)3月に品川同性愛者殺害事件を起こした犯人は、当時大学受験での宿泊中に火災に遭遇し、受験票と筆記用具を部屋に置いたまま避難している。
  • 横井の孫であるヒップホップミュージシャンZeebraは当時、慶應義塾幼稚舎に在学中であったが、本事件を契機にいじめに遭い最終的には転学している。なお、2019年にZeebraは「祖父が取り返しのつかない事をしたのは自分の運命です。ご迷惑を掛けた方には申し訳ない気持ちしかありません。自分はその分少しでも善行が出来ればと思って生きてます」とツイートした[11][12]

本件に類似した火災

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ なお、当の原因であるこの宿泊客は、部屋の前を通る通路の右手奥の行き止まりのところで焼死体となって発見されている。
  2. ^ 大阪府大阪市南区(現・中央区)難波新地(千日前)の千日デパートで発生。国内で発生したビル火災では史上最悪となる118名の死者と81名の負傷者を出した。ビルに限定しなければ、1943年(昭和18年)3月6日北海道虻田郡倶知安町で発生した布袋座火災で208名の死者を出している。
  3. ^ 刑事裁判記録には「従業員と警備員は『非常ベル発報、緊急館内放送、119番通報』という一連の行動をとる際に手が震え、ボタンを押すことやダイヤルを回す動作がうまくできなかった」と書かれている。
  4. ^ 当時の刑事裁判記録には「警備員は防火扉がある場所を知らず、かつそれを閉鎖するための機器操作方法も知らなかった」とも書かれている。
  5. ^ 当時東京消防庁麹町消防署永田町出張所で第11特別救助隊長をしていた高野甲子雄は、火災発生半年前の1981年7月に定期防火査察でホテルニュージャパンを訪れた際、「消防法違反を複数指摘して同社の社長(横井秀樹)へ改善指導した」旨を上司(麹町消防署長)へ報告しており、「改善不備を放置すればいつか大火災が起きる」ことを心配。その不安が今回的中してしまう形となった。
  6. ^ ホテルニュージャパンの火事を目撃したタクシー運転手からの119番通報を受けて出動した高野甲子雄率いる救助隊員第一陣(東京消防庁麹町消防署永田町出張所・第11特別救助隊)が午前3時45分に現場へ着いた時は、既に9階と10階が猛火と煙に包まれ・そこへ取り残された多数の宿泊客が窓から身を乗り出して救助を求めるという、今までに経験したことのない大火事となっていた。高野らは当初通用階段を用いて各階の状況を確認しようとしたが、避難する客が殺到して身動きが取れなかったため、停電で真っ暗になった非常階段経由で各階の状況を強力ライトを用いて確認。火元となった938号室のある9階は「非常階段と廊下を仕切る鉄製扉が長時間高温に晒され続けたことによる熱膨張で開かなかったため」状況確認ができず、10階の扉を開けて充満した煙の中から3名の客を救出。その後は屋上へ向かい、生命の危険と隣り合わせの中で部屋に取り残された客をロープを用いて救助した。その一方で犠牲となった33人のうち13人は「高温の猛火と大量の煙に耐えかねて窓から飛び降りた」ことによるものだった。
  7. ^ この火災における東京消防庁(麹町消防署)永田町出張所特別救助隊員の救出劇は、NHKの『プロジェクトX』で「炎上―男たちは飛び込んだ 〜ホテルニュージャパン・伝説の消防士たち〜」として2001年(平成13年)5月22日に放送された。(プロジェクトX 4Kリストア版2021年5月4日放送 NHK)
  8. ^ フラッシュオーバー現象発生時における炎の温度は約900 ℃に達するため、防火服を着用していても必ずしも安全とは限らない。

出典

  1. ^ "特異火災事例 株式会社 ホテルニュージャパン" (PDF). 消防防災博物館. 一般財団法人 消防科学総合センター. 2019年8月29日閲覧
  2. ^ “”. 誰か昭和を想わざる. 2008年4月11日時点のよりアーカイブ。2015年10月10日閲覧。
  3. ^ JNN NNN ホテルニュージャパン火災 横井英樹 社長[]
  4. ^ 死者33名 史上最悪の「人災」ホテルニュージャパン火災を振り返る
  5. ^ フジテレビ系列『奇跡体験アンビリバボー』2015年10月8日放送分より
  6. ^ 自衛消防訓練マニュアル 近代消防社
  7. ^ フジテレビ系列「奇跡体験アンビリバボー」2015年10月8日放送分より
  8. ^ 最高裁平成5年11月25日決定-刑法判例百選I58事件。
  9. ^ なお、当時の業務上過失致死傷罪の自由刑の長期は3年だった
  10. ^ 奇跡体験!アンビリバボー:実録!国内大災害SP★ホテルニュージャパンの悪夢 - フジテレビ
  11. ^ https://twitter.com/zeebrathedaddy/status/1143169154700066816
  12. ^ https://www.nikkansports.com/entertainment/news/201906250000143.html
  13. ^ 『讀賣新聞』1983年11月24日夕刊15頁「伊豆でホテル火事 "横井系列"これも欠陥だらけ 誘導なく、非常ベル鳴らず 老人ら472人あわや 6人ケガ」
  14. ^ 静岡新聞』1983年11月24日夕刊1頁「船原ホテルで火災 天城湯ケ島 老人クの客6人重軽傷 避難誘導が遅れる」

関連項目

外部リンク

  • 特異火災事例 株式会社 ホテルニュージャパン (PDF) - 消防防災博物館
  • ホテル・旅館火災の特徴と事例「ホテルニュージャパン火災」 - サンコー防災株式会社
  • (PDF) - 火災の概要、火災後建物内の写真など。
  • - ざ@永田町。出火時の写真など。
  • ホテルニュージャパン火災 - (NHK放送史)
  • ホテルニュージャパンの教訓 - 国際観光施設協会
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