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菅原義正

菅原 義正(すがわら よしまさ、1941年5月31日 - )は、日本ラリードライバー。北海道小樽市出身[1]

2013年ダカール・ラリーにて。写真左側の運転席が菅原。

概要

(日本レーシングマネージメント)株式会社取締役会長・(チームスガワラ)前代表。長男にGKダイナミクス株式会社代表取締役の菅原善治、次男にラリードライバーで現チームスガワラ代表の菅原照仁がいる。

学生時代は自動車部でラリーに参加。1965年10月のモーターファン・コンバインドラリーにホンダ・S600でサーキットデビューを果たす。翌々年からMINI・クーパーSで全日本レーシングドライバー選手権に参入し、昭和40年代は主に国内レースで活躍し、1965年1981年の17年間で国内59レースに参戦。ときにはワークスチームを食う活躍を見せたが、菅原も主催者のワークスチーム寄りの姿勢に嫌気が差したため、菅原はサーキットレースから距離を置くようになった[2]。なお、菅原はこの間の1969年にレーサーのマネージメント業務を行う日本レーシングマネージメントを設立している。

1970年代に生沢徹らとともに『チーム子連れ狼』を結成して、二輪やオフロードをメインに活動を行うようになった。ホンダアクティ3台とアコード1台でカラチリスボン間(20,000km/14カ国通過)を走破し、1982年にはスズキジムニー1000でサハラ砂漠アルジェアビジャン間5,000km/5カ国)を横断。1983年ダカール・ラリーにデビューし、以降ファラオラリーパリ・モスクワ・北京ラリーラリーレイド・モンゴル等の海外ラリーレイドに出場するとともに、国内でもツールドブルーアイランド・ラリー(通称TBI)や北海道4デイズ等のラリーレイドに精力的に出場している。

ダカール・ラリーには、デビューから2019年まで一度も途切れることなく連続で出場した上、日本人で唯一モト(オートバイ)・オート(乗用車)・カミオン(トラック)3部門で出場した経歴も持つ。1985年には俳優の夏木陽介との参戦であった。完走記録としては1989年の第11回大会から2009年の第31回大会まで実に20回を数えた。総合優勝は果たせなかったものの、1994〜2005年までに6度の総合2位を獲得した。2005年の第27回ダカール・ラリーからは次男の照仁とともに日野・レンジャー2台体制で出場。日本人初の親子ダカール・ラリードライバーとなった。2007年の第29回ダカール・ラリーで主催者のASOより25回連続出場の表彰を受ける。ダカール・ラリーのカミオン部門において、中型車ベースの車両ながらも大型車のモンスターカミオンと熾烈な戦いを繰り広げる菅原のレンジャーは「リトルモンスター」の名称で恐れられていた。そのレンジャーに取り付けられた鯉のぼりは、今でも菅原のトレードマークとして有名である。

2008年1月ギネス・ワールド・レコーズにダカール・ラリーの最多連続出場(25回)記録保持者として菅原が認定された。

2019年4月23日、菅原はダカール・ラリーからの引退並びにチームスガワラ代表を退く事を発表した。記録は最多連続出場(36回)並びに最多連続完走(20回)。チームスガワラの後任代表には、次男の照仁が就任した[3]。しかし、レーシングドライバーとして引退したわけではなく、2020年からは『Equip SUGAWARA』を設立してヤマハのSSVであるYXZ 1000Rでアフリカ・エコレース(ダカールが南米へ移転した際に代替イベントとして誕生したラリーレイド)に参戦している[4]

略歴

  • 1965年10月 - モーターファン・コンバインドラリーにホンダ・S600でモータースポーツデビュー。
  • 1969年1月 - 日本レーシングマネージメント株式会社を設立。
  • 1982年2月 - スズキ・ジムニーとオートバイでサハラ砂漠(アルジェ~アビジャン)横断。
  • 1983年1月 - 第5回パリ・アルジェ・ダカール・ラリーの二輪部門にホンダXL400で出場。
  • 1984年10月 - ファラオラリーにホンダ・アクティで出場、四輪車部門の最小排気量で完走。
  • 1991年1月 - 第14回パリ・トリポリ・ダカール・ラリーのカミオン部門に日野・レンジャーで参戦、日本人初のカミオン部門での完走者となる。
  • 1992年2月 - 1991年度ラリーアート・ドライバー・オブ・ザ・イヤーのラリーレイド部門に選ばれる。
  • 1992年7月 - 第16回参議院議員通常選挙(比例代表区)にモーター新党公認にて出馬。
  • 2005年 - 拓殖大学客員教授に招かれる。
  • 2008年1月 - ダカールラリーの最多連続出場(25回)記録がギネス・ワールド・レコーズに認定される。
  • 2012年1月 - ギネス・ワールド・レコーズの本人が持つダカールラリーの最多連続出場(30回)記録を更新する。
  • 2019年4月 - ダカール・ラリーを引退する事を発表。

エピソード

  • 2003年ダカールに参戦した際、リビア国境付近で先行車両が地雷を踏み抜き、爆発で部品が飛んできたことが最大の恐怖であったと語っている[5][6]
  • トヨタのドライバーであった見崎清志は1971年のマカオGPに出場するにあたり、菅原からニットラ・AC7(ホンダ・1300のエンジンを流用したレーシングカー)を借りた。決勝ではガスケットが抜けるトラブルに見舞われながらも3位表彰台を獲得した[7]

脚注

  1. ^ 「現代日本人名録2002」日外アソシエーツ
  2. ^ ストーリー 菅原義正日野自動車株式会社
  3. ^ "ダカールの鉄人"菅原義正のダカール・ラリー引退について日本レーシングマネージメント・日野自動車 2019年4月23日
  4. ^ ”鉄人”菅原義正の挑戦は続く。モナコからダカール目指す、アフリカエコレースに参戦
  5. ^ 【イベント】レジェンドに学ぶ「クルマ塾」第4回「ダカールラリーのギネスホルダー菅原義正&プリウスの伝道師 横田紀一郎」モーターマガジンWEB 2021年11月27日閲覧
  6. ^ 地雷爆発はレンジャーの直前だった 朝方にはアシスタンスも到着し、完全整備で後半戦に備える
  7. ^ [レーシングオン No.482 「童夢とトムスのC」 (NEWS mook) 2016年4月1日 三栄書房刊]

公式サイト

  • 日本レーシングマネジメント
  • 日野チームスガワラ
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