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甘粕事件

甘粕事件(あまかすじけん)は、関東大震災直後の1923年大正12年)9月16日アナキスト(無政府主義思想家)の大杉栄と作家で内縁の妻伊藤野枝、大杉の甥橘宗一(6歳)の3名が不意に憲兵隊特高課に連行されて、憲兵隊司令部で憲兵大尉(分隊長)の甘粕正彦らによって扼殺され、遺体が井戸に遺棄された事件である。

甘粕事件
場所 日本 東京府
標的 無政府主義者
日付 1923年大正12年)9月16日
攻撃手段 絞殺
死亡者 大杉栄伊藤野枝・橘宗一
犯人 甘粕正彦、(森慶次郎)、平井利一、本多重雄、鴨志田安五郎
動機 関東大震災の最中、アナキストらが不穏な動きを起こし政府を転覆しようとすると憂慮
対処 軍法会議により、2件の殺人と1件の共同正犯とされた甘粕には懲役10年(→恩赦減刑2年10ヶ月)
森に懲役3年(→1年3ヶ月で恩赦仮出所)
平井・本多・鴨志田の3名は無罪
(テンプレートを表示)

軍法会議の結果、甘粕正彦と同曹長森慶次郎ら5名[注 1]の犯行と断定されたが、憲兵隊の組織的関与は否定された。

亀戸事件と共に代表的な戒厳令下の不法弾圧事件で[1]、(地震の混乱で発生した事件)の1つ。

事件の経緯

事件の発覚

 
事件を報じる毎日新聞の紙面。10月の報道規制解除後のもの。

関東大震災で東京や神奈川が混乱に陥るとして戒厳令が発せられていたさなか、1923年(大正12年)9月16日、大杉栄は、内縁の妻伊藤野枝(作家)を連れ、鶴見区三笠園[注 2]に住居があった辻潤(伊藤の前夫)を見舞ったが、辻が留守であったので、近くの神奈川県橘樹郡鶴見町[注 2]に住む実弟の大杉勇宅を訪問。偶然、大杉の末妹あやめとその息子の橘宗一(6歳)[注 3]が滞在していて、宗一が「東京の焼跡を見に行きたい」[2]というので、これを理由に同行して東京に戻ることとなった。

夕刻に自宅付近に帰ってくるが、伊藤が果物を買っていると、張り込み中の憲兵隊に強引に連行され、淀橋警察署[3]から自動車で麹町憲兵司令部に連れて行かれて消息を絶った[4]。行方不明になった大杉を、その友人で読売新聞記者であった安成二郎[注 4]が探すが、見つからずに事件性を直観。宗一は大杉の末妹あやめが日系貿易商の夫と米国で生んだ子供であったため米国籍を持っていたことから、家人は警察に行く前に直ちに米国大使館に駆け込んでこれを伝え、その後、警察に捜索願を出した[5]

警視庁は捜索願を受けて驚き、調べてみたところ、淀橋警察署が憲兵隊による検束を報告した。そこで警視庁が憲兵隊に問い合わせると、憲兵はすでに帰したと返答した。警視庁は行方不明の大杉が何か良からぬ計画でも行っているのではないかと思い、血眼で行方を捜した[6]とされる。

大杉はアナキストの大立者であり[7]、戒厳令が解除され新聞の報道規制が解かれると、18日の報知新聞の夕刊で「大杉夫妻が子供と共に憲兵隊に連れて行かれた」[8]という記事が出て、噂はすぐに広まった。以前より陸軍が何かやるらしいと聞いていたが沈黙していた警視庁官房主事の正力松太郎後述)は、新聞に出たことから事態を憂慮し、警視総監湯淺倉平に相談。湯淺総監は新任の後藤新平[注 5]内相[注 6]に報告するが、後藤に自分では対処できないとして総理に報告するように言われて、湯淺総監は直接、総理大臣山本権兵衛に会って報告した。山本首相が閣議で田中義一陸相に聞くと「知らん」と言い、戒厳司令官福田雅太郎を呼んで問いただしてみても関知していなかったので、憲兵隊の捜査が開始された[8]。するとすぐに内部の犯行が明らかになった。田中陸相が改めて憲兵司令官小泉六一を呼んで問いただすと、小泉は甘粕の犯行を認めた上で賛美したため、田中は叱責して小泉に謹慎を命じた[9]。憲兵隊司令部では9月19日中には甘粕と森が衛戍監獄に収監された[6]。また古井戸から遺体が引き上げられた[10]。また、朝日新聞記者は偶然のきっかけから警察より情報を入手した。

9月20日、「甘粕憲兵大尉が大杉栄を殺害」の一報を読売新聞と時事新報号外で発し[11]大阪朝日新聞は東京からの記者の電話でこの日は2度号外を出した[注 7]。時事新報は記者を憲兵隊本部に張り込ませ、大杉だけではなく伊藤野枝と子供が殺されたこと、現場の井戸も確認した[12]

これらの経過中、米国大使館からは、自国民(宗一)が危険に瀕しているとみて日本政府に抗議、事態を解明、保護を図るよう求めて来ており、閣議では、既に国際問題化し複数の新聞社が情報を掴んでいる以上、揉み消しは不可能との結論になったとされる。

軍は突如として9月20日付で、東京憲兵隊渋谷分隊長兼麹町分隊長であった甘粕正彦憲兵大尉と東京憲兵隊本部付(特高課)森慶次郎憲兵曹長が「職務上不法行為」を行ったとして軍法会議に送致し、福田雅太郎戒厳司令官を更迭、憲兵司令官小泉六一少将と東京憲兵隊長小山介蔵憲兵大佐を停職処分とすると発表した。また同時に本件に関する新聞記事を差し止める情報統制の決定をした[13]。以後、新聞各紙は核心部分をすべて○○の伏字として事件を報じた。報道は止められたが、情報は各社に電話で拡散したため、検閲を掻い潜った九州日報は21日にも号外を出している[14]

戒厳令下で不眠不休で治安維持に当たっていた軍隊に、世論は普段反軍的な者さえも含めて支持や敬意を表明していたが、突然の司令官更迭について新聞で詳細が報じられないことから、何事が起こったのかと騒然となった。流言飛語が盛んになっていたこともあり、人心不安が高まった[13]

批判が強まる中で、軍は前日の予審の結果を受けて9月25日に第一師団司令部[注 8]発表として、甘粕大尉が16日の夜に大杉栄と他2名を某所に連行して殺害した、と公表したが、他2名が何者であるかは公表させなかった。10月8日に記事差し止め処分が解除されると、新聞は他2名が、伊藤野枝と橘宗一であることを報じ、日本を騒がせるアナキストであり恋愛スキャンダル(日蔭茶屋事件)でも世間に有名になった大杉・伊藤の2人に加え、6歳の小児までも殺されたとあって世間は騒然となった[15]

軍法会議

9月24日に軍法会議予審があり、事件の概要が明らかにされた。軍法会議の公判[注 9]も極めて性急に行われた。それらによると、甘粕大尉らは、大震災の混乱に乗じてアナキストらが不穏な動きを起こし政府を転覆しようとすると憂慮し、アナキストの主要人物であった大杉と伊藤を殺害することを決めたという。

予審で明らかになったところでは、9月16日に大杉ら3人が鶴見から帰る途中、自宅付近で甘粕大尉と東京憲兵隊本部付の森慶次郎曹長(後に明らかになるところによれば、さらに鴨志田と本多の両名を加えた4名)が張り込みをしており、子供だけは帰宅させてくれという大杉の要望を拒否して、強引に3人を拉致し、麹町憲兵分隊に連行した。東京憲兵隊本部で夕食を出したが、大杉と伊藤は食べず、橘だけが食べた。大杉はナイフを借りて伊藤が持っていた梨を2人で食べた。午後8時、3人は別々の部屋に移された。

 

甘粕は予審調書で大杉と伊藤とを自分が絞め殺したと認め、その様子を以下のように語った。大杉は応接室で森曹長と雑談のような取り調べを受けていたが、入室した甘粕は背後から柔道の締め手で大杉の首を右手で絞め、森は苦しみもがく大杉の足を押さえた。15分ほどでぐったりして亡くなった[16]。その後、念のためとしてさらに麻縄で絞めた。午後9時15分、次に甘粕は階下の隊長室に入れられた伊藤のもとを訪れ、しばらく会話して油断させると、同様に絞殺した[注 10]。後に発見された検死資料で明らかになった激しく執拗な暴行については、語られておらず、公判でも明らかにされることは無かった。

甘粕は最初、「個人の考えで3人全てを殺害した」として、大杉と伊藤との間の子供と誤解された橘宗一の死に関しても認めたが、軍法会議では、橘の死の経緯を調書で省略したことに官選弁護人塚崎直義が疑念を持って追及した[17]。特に甘粕の母親が「正彦は特に子供好きでした。罪とがもない子供を手にかけるなど、あり得ない」[18]と涙ながらに主張したことにより、自白を一部撤回。自分は「子供は殺していない。菰包(こもづつ)みになったのを見て、初めてそれを知った」と証言を変えて、大杉と伊藤を殺したのは認めたが、子供殺しは自分ではないとした。橘は連行するために自動車に乗せた最初から甘粕に懐いていた。甘粕は便所に行ってくるといってその場を離れ、少年の死には立ち会っていないと主張した。

この供述の撤回により予審の内容が覆されたことで、塚崎弁護士は捜査のやり直しと公判の中止を申請した[19]

このため、陸軍省から橘宗一殺しの再調査が命令されると[20]、たちまち10月5日、鴨志田安五郎と本多重雄という2名の憲兵上等兵が橘殺しの共犯であるとして自首し、6日には平井利一憲兵伍長も見張り役として伊藤の死に関与していたことを告白して自首。被告人は5名となった。

鴨志田と本多は子供殺しを認めたが、甘粕と森が「上官の命令だからやりそこなうな」と話していたと証言して波紋を呼んだ。しかし憲兵隊の小泉少将と小山大佐がこの証言を否定した後、以後は軍上層部が関与した疑惑は追及すらされなかった。結局は森曹長が鴨志田に「おまえがやれ」と命令したとされ、鴨志田と本多が手を下すことになった。2人も子供殺しに躊躇したが、命令に逆らえずに、鴨志田が首を絞め、本多が押さえて殺した。森は「甘粕大尉が子供も殺せと命令した」と主張し、自分に命令したのは甘粕であるとした。甘粕は投げ槍な態度で「森が言うのですからその通りでしょう。私は軍人であります。命令しました」[18]と自分が責任を被ってやるのだと言わんばかりの答弁をして、再度、供述を翻した。

甘粕と森は遺体の処分について話し合ったが、構外に運び出すと露見するとして森が難色を示し、本部裏の古井戸に投げ込むこととした。甘粕は3名の着物をハサミで切って裸として菰に包み、古井戸に落とした。衣類は翌17日に別の場所で焼却した。何も知らない人足に指示して、古井戸は馬糞や煉瓦を投げ込んで埋められた。

動機については、関東大震災の混乱に乗じて無政府主義者が朝鮮人を扇動して騒動を起こすという噂を信じていたとされた。甘粕は「大杉の次は堺利彦福田狂二を殺す予定だった」と述べた[21][注 11]。さらに、最も危険視された無政府主義者の大杉栄が検挙されていないから「やっつけろ」という意見が淀橋署にあったが、警察ではできないから憲兵の方でやってくれないかという話だったとも、甘粕と森は主張したが、淀橋署員らは「記憶にない」と殺害依頼を否定し[22]、真相解明に至らなかった。 また新聞では橘宗一の殺害理由を伊藤野枝の殺害を目撃したがためであると報じられたが、公判ではこれは取り上げられず、前述のように甘粕が命令した事実のみが認定され、子供の死に関して理由や経緯などについても解明されなかった[23]

なお、判士の一人として審理に携わっていた小川關治郎法務官は甘粕の追及に厳しかったとされているが、第1回公判の後、弁護側が小川が被害者と同郷かつ遠縁であるとの理由で忌避申請し、交代させられている。しかし、小川法務官の三女である長森光代の証言によれば、大杉家の所在地が小川の出生地と近いことは事実だが、小川自身はもとより誰からも大杉と遠縁だったと聞いたことはない、地元の識者も否定しているとしている[24]。この交代の経緯については、当時から不審感をもって受けとめられていたようで、その頃社会主義者の弁護で知られた弁護士の山崎今朝弥は「(小川法務官は)大杉君の妹の亭主の兄の妻の妹の夫の祖父の従兄弟の養家先の孫である」と揶揄している[25]。その後、小川法務官に代わり判士となった告森法務官も遠縁にあることが判明したともいわれるが、代わることはなかった。

世論と判決

このスキャンダラスな事件については、軍法会議の内容が連日詳しく報道された。現代とは異なり、亀戸事件・朴烈事件など大震災直後に起こった社会主義者労働活動家・朝鮮人に対する警察や軍隊による不法拘束や虐殺についてすら世論は2つに割れていたが[注 12]、甘粕に対しては、弁護士の塚崎のもとには鴨志田や本多等の下士を罰するのみで「甘粕を減刑させたら承知せぬぞ」という社会主義者からの脅迫が届いていた[26]。一方で、「甘粕は国士である」との肯定的な評価から「国賊・大杉を処断した甘粕大尉に減刑を」との署名が数十万名分も集まるなど甘粕大尉を支持する声も強かった。また甘粕も命令を受けて行動したのみで真犯人を庇って責任を1人で被ったのであって、真相は闇の中であるという意見も根強くあった[27]

しかし軍法会議は事件の背後関係には立ち入らないまま、11月24日に検察求刑、最終弁論があって、12月8日、殺害を実行および命令したとして甘粕大尉を首謀者と断じて懲役10年[注 13]、森曹長には同3年[注 14]、命令により殺害して遺体を遺棄した本多・鴨志田の2名は命令に従ったのみとして無罪[注 15]を、また見張りとして関与した平井伍長は証拠不十分により無罪[注 16]と、判決を下して終了した。甘粕に懲役10年が告げられると、傍聴人の中からは有罪が不満であるとして草履を投げる者や怒号を上げる者があって一時騒然としたが、本人らは黙して退出。無罪となった3名は安堵の表情で退出した。

事件の余波

 
仮出所後の1926年11月3日、アナキスト殺害について記者会見に臨む甘粕正彦(中央)。

公判中の10月4日、甘粕大尉の弟で学生の甘粕五郎は、(ギロチン社)の(田中勇之進)に襲撃された[28]

労働運動社(神田北甲賀町)で行われた大杉ら3名の葬儀・告別式では、国賊の葬儀などさせぬという右翼の一団[注 17]が車2台で乗りつけ、そのうちの1人下鳥繁造[注 18]が焼香の際に遺骨を奪い、制止する(古田大次郎)や和田久太郎に高笑いして、大杉栄の遺影に銃弾を放って逃走するという事件があった。遺骨は下鳥から寺田稲次郎に、寺田から大化会会長岩田富美夫が受け取って車で逃走。下鳥らはその場でアナキスト30名ほどに囲まれるが私服警官に投降し、寺田は逃走中の岐阜駅で捕まった。逃走に成功した岩田は、数ヶ月後に北一輝猶存社)の仲介で3名を起訴猶予とすることを条件として、自ら警視庁に出頭して湯淺総監に遺骨を返還した。岩田は逮捕を免れ、釈放された。

アナキストらは大杉殺害の報復として、関東戒厳司令官の福田雅太郎を標的とした狙撃事件(犯人は古田大次郎[注 19]、和田久太郎、村木源次郎)、福田に糞尿を投げつけた糞喰らえ事件(犯人は古河力作の弟(古河三樹松)と義弟池田寅三)などを相次いで起こしたが、次々と逮捕された。

アナキストのうち特に朝鮮出身者は中華民国の上海や満州地方に渡ってテロリズムに傾倒するが、日本出身者では転向したり活動を抑圧される者が多く、日本のアナキスト運動は急速に衰退に向かった。

甘粕大尉は3年弱、千葉刑務所において刑に服したが、摂政宮の御成婚による(恩赦)による減刑で、1926年(大正15年)の10月に仮出所で釈放された。その後、陸軍の官費で夫婦でフランスに留学し、満州に渡って満州事変に関わることになった。

異説・陰謀説

事件の主犯は甘粕ではないとする説は事件当時の大正時代から根強く存在している。甘粕が模範的な士官と思われたことから「甘粕は事件自体に関与していない」「大杉以外の殺害は知らなかった」などのさまざまな説が生まれた。満州時代の甘粕は、満州映画協会幹部らとの私的な席で「ぼくはやっていない」という発言をし[29]、陸士同期の半田敏治満洲国国務院総務庁参事官[30])にも酒の席で「俺は何もやっちゃおらんよ」と語っていた[31]。しかし一方で奉天特務機関の貴志彌次郎少将[注 20]は吉薗周蔵(後述)に「甘粕に騙されるな」[32]と注意しており、甘粕の経歴や裏の顔を指摘する声もあって、そこから発展して様々な異説や陰謀説も生まれた。主なものは以下。

  1. 憲兵司令官小泉六一主犯説 (憲兵司令部副官 上砂勝七[33]の説)
  2. 戒厳司令官福田雅太郎主犯説[注 21]
  3. 麻布第三連隊主犯説(脚本家笠原和夫の説)[注 22]
  4. 陸軍幹部謀略説(竹中労などの説)
  5. 陸軍内秘密結社説(事件当時の読売新聞陸軍部長中尾竜夫の説)
  6. 甘粕=フリーメーソン説(評論家三宅雪嶺ほかの説)[34]
  7. 大杉密偵説(吉薗周蔵の説)

これらは大別すると、憲兵隊または軍が組織として主義者の殺害を命令したが事後に軍組織の関与を隠蔽して、実行者である甘粕らが命令者の責任を被ったというものと、実行者ではない甘粕らが命令者と実行者の両方の責任を被ったというもの、または非公式な組織や個人の命令や指示で甘粕らが実行したというもの、などに分けられる。

多くが指摘することは、渋谷と麹町の分隊長である憲兵大尉甘粕正彦が、直属の部下ではない、憲兵司令部付曹長である森慶次郎に命令していた点であった。2人に指示ができる命令者は、甘粕よりも立場が上でなくては組織上おかしく、これらが小泉や小山、福田が主犯と疑われる理由の1つとなっている。また軍隊内の結社説も、命令系統の無視を理由の1つとしている。

大杉一家「死因鑑定書」

戦後見つかった3人の死因鑑定書は、当時遺体の引き上げにも立会って、20時間かけて解剖を行った陸軍衛戍病院(現国立国際医療研究センター)勤務の外科田中隆一軍医本人によって作成されたもので、鷹津軍医名義で提出されたものの控えであった。彼は退役して開業後、40歳で再召集されて中国戦線で戦没したが、1976年昭和51年)8月に自宅に保存されていた遺品の中から他の資料と共に再発見された。以下はその抜粋の要約[35]

男性屍 女性屍 小児屍
発見場所
死体は3体とも東京憲兵隊本部構内東北隅弾薬庫北側中央、弾薬庫の土台石を取り除いた廃井戸の中、地面から4尺下の場所にあった。
井水は甚だ不潔な濁水であった。3死体は菰包みにされ麻縄で縛られていた。
発見時の遺体
晒木綿の越中褌を着用 全裸 全裸
遺体の身長
5尺4寸1分(163.9cm) 5尺(151.5cm) 3尺9寸2分(118.7cm)
遺体の状況
顔面は全体的に紫藍色で浮腫状に膨張。
両眼共に閉じ、上眼瞼、特に左側は暗赤色で皮下に溢血があった。(窒息死の証拠)
両眼球は突出し、角膜は暗赤色で高度に混濁して瞳孔は見えなかった。
舌は歯列より1厘出ていた。
顔面は高度に紫藍色で、死後の腐敗により汚染され青色になっていて、浮腫状に膨張。両眼は閉じ、眼球は突出。
舌は歯列より0.5厘出ていた。
胸骨完全骨折。前胸部にすこぶる強大な外力による傷。蹴る、踏みつけるなど。絶命前に受けたもので、直接の死因ではないが、死を容易にしたのは確実。
その他の特徴
頭髪は長く、後頭部で結髪。
子宮肥大。産褥期にあり、出産後3週間経過と推定。

死因鑑定書の内容は、「死因は窒息、手段は前頸部を絞圧した」扼殺であるという点は公判で採用されたものだが、遺体の状況は調書や軍法会議で甘粕が語った殺害状況とは矛盾するもので、激しい暴行を受けていたことを示すものだった。

正力松太郎の談話

事件発生当時の1924年(大正13年)9月は警視庁官房主事で、年末の虎ノ門事件で警務部長を罷免となって読売新聞社長に転じた正力松太郎は、1924年10月の社内の招待会で談話して甘粕事件の陸軍の組織的犯行を示唆し、「陸軍が14日に大杉を殺すと言って来た。大杉と吉野作造博士と外の2人[注 23]」・・・中略・・・「4人を殺すと言って来た、そんなバカなことがあるかと言って置くと、16日になって淀橋署から大杉が憲兵隊に連れられて行ったという報告が来た。殺したナと思ったが、黙ってゐた。」と語り、「子供が一緒でなければ大杉事件はまるで知られずに済んだのだ」と発言した。また軍隊が面目をつぶされた後藤内相と湯浅総監とを恨んでいたと言い、殺さんとする動きがあったとも述べた[注 24][8]

吉薗周蔵の手記

月刊(ニューリーダー)誌2003年8月号と11月号の落合莞爾連載『陸軍特務 吉薗周蔵の手記』の中で、甘粕事件についての言及があった。吉薗周蔵手記の内容は検証困難なもので今なっては異説の1つに過ぎないが、落合の説明によれば、吉薗や甘粕、あるいは藤田嗣治も、上原勇作元帥(前陸相)の特命を受けて行動する立場であったという。一方で、大杉栄は後藤新平に買われていた「」で度々多額の金を無心していたといい、伊藤野枝は大杉の指示で、ユダヤ系[注 25]フランス人のポンピドゥー牧師の拠点である神田メソジスト教会を探っていたとされる。

教會ニ モグリ込ムダルハ 野枝
大杉榮 伊藤野枝ハ 共産党デハアルガ 後藤新平ノ草デアッタ由。
同席ノ藤根[注 26]サンモ認ムル。
 タコロガ 大杉ハ サノ根ガサモシク サモシヒ故ニ 後藤ニ直接 會ヒニ行ッタラシヒ。何度カ ニ行ッタ模様。
サレハ 自分ニハ納得デキル。自分ノ見タル大杉モ マカトニ サモシヒ表情ヲ シテヲッタ。
デアルニ當然ノカトナガラ 大杉ハ 閣下ノ事モ 甘粕ノ事モ ユスッタデアラフ。
トナレバ 大杉ヲ アアマデ始末シタルハ閣下ノ命モアラフガ ナルホド 甘粕サンノ意向モアラフ。

— 周蔵手記、ニューリーダー誌2003年8月号

落合は、吉薗の別の記述から、上原と後藤のアヘン栽培(当時合法)やモルヒネ国産化で利権争いをしていたと指摘。上原はポンピドゥー牧師の妹とかつて愛人関係にあり、一女をもうけた。その上原の隠し子である混血女性と甘粕は愛人(もしくは妻)関係にあったとされ、それらの事実を伝えたのが王希天であり、彼も関東大震災のどさくさに軍隊によって殺されたが、政治スキャンダルを起こす目的で密事を探られた私怨、もしくはそのことでゆすられたことが、大杉夫妻殺害の動機ではないかと、吉薗は考えていた[注 27]とする。

題材とした作品

長唄
  • 西岡真理国立国会図書館デジタルコレクション 『噫々甘粕大尉の唄』正美会、1923年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/924100 国立国会図書館デジタルコレクション 
映画
テレビドラマ
漫画

その他

無罪判決を受けた本多重雄憲兵上等兵は、「昭和天皇桐生行幸誤導事件」の本多重平警部の実弟である。

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ 平井利一伍長の関与は証拠不十分とされたので、判決で不法行為を行ったとされたのは4名。
  2. ^ a b 現在の横浜市鶴見区
  3. ^ 父親は橘宗三郎でこの時は渡米中で不在だった。宗一はアメリカとの二重国籍を持っていて、失踪後、あやめはアメリカ大使館に駆け込んで真相究明を訴えたので、隠蔽が難しくなった。
  4. ^ 安成は、村木源次郎(アナキスト)と共に、大杉一家の死体検分と火葬にも立ち会った。
  5. ^ 後藤新平はこの年の6月にアドリフ・ヨッフェを招請して日ソ国交回復の端緒をつくったことで、陸軍の一部から「赤」呼ばわりされていたので、陸軍との関わりを避けた。
  6. ^ 当時、警視庁は内務省管轄。
  7. ^ 東京朝日新聞は震災と検閲で印刷できず。このため大阪朝日新聞が発行した。
  8. ^ 軍法会議は同師団の管轄となった。
  9. ^ 第1回公判は10月4日に始まったが供述の撤回により一時中断。10月8日にやり直され、11月16日から第2回公判。11月22日に結審した。
  10. ^ 甘粕の供述はその後に行われた検死調書の結果とは合わないものであった。検死では両名には長時間暴行された形跡があったが、甘粕の供述では尋問らしい尋問は行われておらず、わずか10〜15分で死に至っている。
  11. ^ この話は上砂勝七の回顧録とも内容が一致する。
  12. ^ 当時、軍隊に対する支持は高く、反対に社会主義者やアナキスト、共産主義者に対する評価は低かった。
  13. ^ 求刑は懲役15年。
  14. ^ 求刑は懲役5年。
  15. ^ 求刑は両名とも懲役2年。
  16. ^ 求刑は懲役1年6ヶ月。
  17. ^ 岩田富美夫、寺田稲次郎、下鳥繁造、他2名。
  18. ^ 下鳥は後に市ケ谷刑務所で病死した。
  19. ^ ギロチン社のメンバー。古田は銀行員を殺害した小坂事件もあり、死刑。
  20. ^ 貴志も上原勇作の腹心である。
  21. ^ 特に証拠はないようだが、古田や村木、和田ら無政府主義者は、指揮命令系統のトップであった福田大将が大杉を殺す命令を出したに違いないと判断して、暗殺を計画した。
  22. ^ 森曹長と刑務所で面会した憲兵大佐斉藤美夫が「大杉を殺したのは麻生三連隊だ」と言う森の証言を聞いたというもの。
  23. ^ 大山郁夫と安成二郎(質問者本人)であろうと想像するが、正力は明言せず。
  24. ^ 1924年10月14日読売新聞前編輯局長招待会での談話の記録。(当時は第5部長/婦人部であった)安成二郎が後に『自由思想』2号で「大杉栄虐殺に関するメモ」として寄稿したもの。
  25. ^ 吉薗はユダヤ陰謀論者のようでユダヤつながりの話が度々登場する。
  26. ^ 藤根大庭のこと。建築家・請負師。周恩来の日本での下宿先の大家。
  27. ^ ただし特にゆすりについては吉薗も確信があったわけではなく、想像の範囲を出ていない。別の記述で、甘粕の処遇を上原にたずねて、甘粕を庇い無政府主義者の終焉を喜ぶ上原の言葉で、吉薗は事件が上原の命令であったに違いないと思うに至るわけであるが、上原の発言は当時の一般的な保守論調に沿ったものであって、特に命令を示唆した内容ではないので、あくまでも私見に過ぎず異説である。
  28. ^ 後に『暴圧 〜関東大震災と軍部〜』とタイトルを変更しVHSにて販売されるも、現在は廃盤。2021年6月に公開時と同じ『大虐殺』のタイトルでDVD化された。

出典

  1. ^ 松村, 明 編『大辞林』(3版)三省堂、2006年。ISBN (978-4385139050)。 
  2. ^ 帝都罹災児童救援会 1924, p.301
  3. ^ 新宿警察署
  4. ^ 帝都罹災児童救援会 1924, pp.300-301
  5. ^ 帝都罹災児童救援会 1924, p.306
  6. ^ a b 帝都罹災児童救援会 1924, pp.306-307
  7. ^ 上柳延太郎『危険思想に面して』松華堂、1924年。 []
  8. ^ a b c 安成二郎『無政府地獄―大杉栄襍記』新泉社、1973年。ISBN (978-4787773067)。 []
  9. ^ 佐野 2008, p.126
  10. ^ 1923年9月21日付九州日報号外
  11. ^ 山川均; 賀川豊彦; 和田久太郎; 村木源次郎; 安成二郎; 山崎今朝弥; 岩佐作太郎; 内田魯庵 ほか『新編 大杉栄追想』土曜社、2013年。ISBN (978-4990558796)http://www.doyosha.com/2013/08/21/%E5%A4%A7%E6%9D%89%E6%A0%84%E8%BF%BD%E6%83%B3-%E3%83%97%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%83%AA%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%B9/ []
  12. ^ 佐野 2008, pp.64-69
  13. ^ a b 帝都罹災児童救援会 1924, pp.298-299
  14. ^ 小野秀雄『号外百年史』読売新聞社、1969年。 
  15. ^ 帝都罹災児童救援会 1924, pp.299-301
  16. ^ 帝都罹災児童救援会 1924, p.302
  17. ^ 塚崎 1937, pp.110-113
  18. ^ a b 角田 2005
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  21. ^ 高田 1932, p.293
  22. ^ 佐野 2008, pp.76-77, 105
  23. ^ 塚崎 1937, pp.114-119
  24. ^ 『ある軍法務官の日記』(株)みすず書房、2000年8月10日、222頁。 
  25. ^ 『地震・憲兵・火事・巡査』岩波文庫。 
  26. ^ 塚崎 1937, p.115
  27. ^ 友納友次郎国立国会図書館デジタルコレクション 『教育革命焦土の中から』明治図書、1925年、207-214頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/981909/112 国立国会図書館デジタルコレクション 
  28. ^ 佐野 2008, p.69
  29. ^ 武藤富男 著「満州建国の黒幕・甘粕正彦」、平塚柾緒 編『目撃者が語る昭和史 第3巻 満州事変』新人物往来社、1989年、183-184頁。 
  30. ^ 半田敏治(はんだとしはる) 植民地官僚経歴図、アジア歴史資料センター
  31. ^ 佐野 2008, pp.460-462
  32. ^ 「ニューリーダー」2001.06月号[要文献特定詳細情報]
  33. ^ 上砂勝七『憲兵三十一年』東京ライフ社、1955年。 (ASIN) B000JB544W []
  34. ^ 佐野 2008, pp.70-71
  35. ^ 佐野 2008, pp.135-141
    全文は1984年版(復刻判)の「大杉栄追想」に収録。2013年版の新編には付いていないので注意。

参考文献

  • 佐野眞一『甘粕正彦乱心の曠野』新潮社、2008年。ISBN (978-4104369041)。 
  • 高田義一郎「国立国会図書館デジタルコレクション 大杉榮、伊藤野枝及び少年橘宗一」『兇器乱舞の文化 : 明治・大正・昭和暗殺史』先進社、1932年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1062338/161 国立国会図書館デジタルコレクション 
  • 塚崎直義「国立国会図書館デジタルコレクション 甘粕事件の眞相」『弁護三十年』岡倉書房、1937年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1268397/62 国立国会図書館デジタルコレクション 
  • 角田房子『甘粕大尉』筑摩書房〈ちくま文庫〉、2005年。ISBN (978-4480420398)。 
  • 帝都罹災児童救援会(編)国立国会図書館デジタルコレクション 『関東大震大火全史』帝都罹災児童救援会、1924年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/981875/188 国立国会図書館デジタルコレクション 

関連項目

外部リンク

  • 日本ペンクラブ 電子文藝館 招待席・主権在民史料 「関東大震災」[] (今井清一)
  • 関東大震災と新聞[] (池見哲司)
  • 神戸大学・電子図書システム・甘粕事件判決
  • 甘粕事件弁論:軍法会議公判における塚崎直義弁護士の弁論速記
  • 『(甘粕事件)』 - コトバンク
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