この記事にはや(外部リンク)の一覧が含まれていますが、(脚注)による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。 |
林 董(はやし ただす、1850年4月11日(嘉永3年2月29日)- 1913年(大正2年)7月10日)は、江戸時代末期(幕末)の幕臣、明治時代の日本の外交官、政治家。伯爵。蘭方医佐藤泰然の五男で初代陸軍軍医総監・男爵の松本良順は実兄。幼名は信五郎、名は董三郎(とうさぶろう)とも。変名、佐藤 東三郎(さとう とうさぶろう)。
生涯
嘉永3年(1850年)、下総佐倉藩(現在の千葉県佐倉市)の蘭方医佐藤泰然・たき夫妻の末子として生まれた。幼少期に佐倉藩の藩校成徳書院(後に千葉県立佐倉高等学校)にて学ぶ。文久2年(1862年)、姉つるの夫で江戸幕府御典医林洞海の養子となり林董三郎と改名、両親と横浜に移り住み宣教師ジェームス・カーティス・ヘボンのヘボン塾(後の明治学院大学)で英語を学んだ。
慶応2年(1866年)、幕府の留学生として川路太郎・中村正直らとイギリスへ渡りユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン、キングス・カレッジ・ロンドンで勉強していたが、慶応4年(明治元年、1868年)6月に帰国、幕府滅亡後は縁戚の榎本武揚率いる脱走艦隊に身を投じ、箱館戦争時には佐藤東三郎と名乗った。翌明治2年(1869年)の敗戦後捕らえられるも明治3年(1870年)に釈放、兄松本良順の紹介で陸奥宗光と知り合い、翌4年(1871年)の陸奥の神奈川県知事赴任に伴い横浜へ戻り県庁へ出仕、続いて外務省に転勤して岩倉使節団に加わり、再度の外遊へ赴いた。
工学校設立を急いでいた工部少輔山尾庸三の指示で、ヘンリー・ダイアーを始めとする外国人教師雇用の交渉をまとめ、明治6年(1873年)5月に帰国、工部大輔に昇進した山尾庸三のもとで工部大学校設立に尽力、以後工部省に移り工部省権大書記官まで進み、明治15年(1882年)に宮内省書記官も兼任、同年の有栖川宮熾仁親王のロシア皇帝アレクサンドル3世戴冠式列席に随行した。翌明治16年(1883年)に帰国、明治18年(1885年)の伊藤による内閣制度誕生につき工部省が廃止されると、代わりに新設の逓信省へ大書記官として就任、駅逓局長、内信局長を歴任した後、明治21年(1888年)に香川県知事、明治23年(1890年)に兵庫県知事を経験した[1]。
明治24年(1891年)、外務次官に任じられ外務省へ戻り、第1次松方内閣の外務大臣で旧知の榎本武揚、および第2次伊藤内閣の外務大臣陸奥宗光の外交を支えた。明治28年(1895年)に日清戦争の処理と三国干渉の対応に追われ、5月に清へ特命全権公使として赴任、10月に日清戦争の功績で男爵に叙せられる。明治30年(1897年)に第2次松方内閣下の駐露公使に任命されロシアへ赴任(スウェーデン・ノルウェー特命全権公使も兼任)、明治32年(1899年)のオランダのハーグで開かれた万国平和会議に委員として出席、翌明治33年(1900年)に駐英公使となりイギリスへ移り住んだ。
明治34年(1901年)、ドイツ代理大使から日独英三国同盟の提案が行われ、これをきっかけにして日英間の交渉が始まった。林は本国の指示でイギリス外務大臣の第5代ランズダウン侯爵ヘンリー・ペティ=フィッツモーリスと交渉を重ね、明治35年(1902年)1月30日、ロンドンで第一次日英同盟を調印した。この功績で2月に子爵に昇叙された。また明治36年(1903年)5月、イギリスのエンパイア・ロッジ・ナンバー2108にてフリーメイソンに入会[2]。翌37年(1904年)には同ロッジのマスター(総責任者)に就任。日本人初のロッジ・マスターとされる。
日露戦争後の明治38年(1905年)12月2日、ロンドンの在英日本公使館が昇格して大使館となった。それに伴い林は初代駐英大使に任命され、日本の外交官としては初めての特命全権大使となった。同年に第二次日英同盟を締結、明治39年(1906年)に日本へ帰国して西園寺公望首相の下で外務大臣として入閣(第1次西園寺内閣)。翌明治40年(1907年)に日仏協約・日露協約・第三次日韓協約と次々締結、功績により伯爵に叙せられた。明治41年(1908年)の倒閣で外務大臣を辞職、明治42年(1909年)から翌43年(1910年)にかけて口述筆記『後は昔の記』を制作・刊行。
明治44年(1911年)に西園寺が再び政権を樹立すると逓信大臣として第2次西園寺内閣へ入り、一時外務大臣も臨時の形で兼ねたが、大正元年(1912年)に内閣総辞職で引退。翌大正2年(1913年)7月10日に脳溢血のため[3]葉山で死去、享年63。墓所は東京都港区の青山霊園と神奈川県大磯町の妙大寺にある[4]。
官歴・履歴
- ※日付は明治4年まで旧暦
- 嘉永3年(1850年)2月29日、誕生。幼名信五郎。
- 文久2年(1862年)6月、幕府医家林洞海の養子となり、林董三郎を称す。
- 慶応2年(1866年)10月26日、幕命により英国留学生((キングス •カレッジ •ロンドン))となり、横浜より出航。
- 慶応4年(1868年)6月、横浜に帰航。その後幕府海軍副総裁榎本武揚に従軍し、開陽丸乗組見習となる。8月、蝦夷函館に赴く。
- 明治2年(1869年)5月、蝦夷函館政権降伏し、捕虜となり、弘前藩預けの上、禁錮に処せらる。
- 明治3年(1870年)4月、禁錮の処分を解かれ、横浜に赴く。
- 明治4年(1871年)9月、神奈川県奏仕出仕に就き、維新政府の地方官僚となる(神奈川県知事は陸奥宗光)。10月、岩倉具視遣外使節団(岩倉使節団)随行二等書記官に異動。11月、外務省七等出仕を兼帯(工部大輔伊藤博文へ依頼による)。11月12日、横浜より出航。時に林董三郎を称す。
- 明治6年(1873年)5月、横浜に帰航。6月9日、工部省工学寮の工学助(奏任六等)を兼帯(奏任六等外務省二等書記官)し、工部大学校設立に従事(工部卿は伊藤博文)。
- 年月日不詳、工部寮少丞に異動。
- 年月日不詳、工部省権大書記官に異動。さらに工部省大書記官に異動。
- 明治15年(1882年)4月、奏任四等宮内省大書記官を兼帯(有栖川宮熾仁親王の欧州歴訪随行員となったため)。月日不詳、(参事院)員外議官補を兼帯。
- 明治16年(1883年)2月、宮内省大書記官の兼帯を解く。
- 明治18年(1885年)12月22日、工部省廃止に伴い、新設の逓信省大書記官に異動。
- 明治19年(1886年)3月3日、高等官(勅任官)二等逓信省駅逓局長に異動(第1次伊藤内閣。逓信大臣は榎本武揚)。
- 明治20年(1887年)3月10日、逓信省内信局長に異動。
- 明治21年(1888年)12月3日、香川県知事に転出。
- 明治23年(1890年)3月、兵庫県知事に転出。
- 明治24年(1891年)6月15日、高等官(勅任官)一等外務次官に転出(第1次松方内閣。外務大臣は榎本武揚)し、外務省総務局長兼帯。8月16日、総務局廃止に伴い、同局長兼帯罷む。
- 明治28年(1895年)5月21日、外務次官の任を終える。任 特命全権公使[5]。6月22日、清国駐剳特命全権公使として着任(第2次伊藤内閣。外務大臣は陸奥宗光)。10月31日、男爵を授爵し、勲一等瑞宝章に叙勲受章。11月8日、遼東還付条約締結。
- 明治28年(1896年)7月21日、日清通商航海条約締結。11月2日、清国駐剳特命全権公使の任を終える。
- 明治30年(1897年)5月25日、露国駐剳特命全権公使として着任(第2次松方内閣。外務大臣は大隈重信)。同日、スウェーデン並びにノルウェーの特命全権公使を兼帯。
- 明治32年(1899年)9月5日、露国駐剳特命全権公使・スウェーデン並びにノルウェーの特命全権公使の任を終える。12月27日、勲一等旭日大綬章に叙勲受章。
- 明治33年(1900年)7月6日、英国駐剳特命全権公使として着任(第2次山縣内閣。外務大臣は青木周蔵)。
- 明治34年(1901年)7月21日段階で従三位。
- 明治35年(1902年)2月27日、子爵に昇叙。第一次日英同盟締結に活躍し成功を得る。
- 明治37年(1904年)、不平等条約の改正外交に現場として活躍。
- 明治38年(1905年)12月2日、駐英公使が大使に昇格するに伴い、英国駐剳特命全権大使となる(第1次桂内閣。外務大臣は小村寿太郎)。第二次日英同盟締結に活躍。
- 明治39年(1906年)3月19日、英国駐剳特命全権大使の任を終える。 4月1日、勲一等旭日桐花大綬章に叙勲受章。5月19日、外務大臣として入閣(第1次西園寺内閣)。以後、日仏協約・日露協約・第三次日韓協約(反故条約)締結に及ぶ。
- 明治40年(1907年)9月14日、伯爵に昇叙。
- 明治41年(1908年)7月14日、西園寺内閣総辞職に伴い、外務大臣を辞す。
- 明治43年(1910年)5月段階で正三位。
- 明治44年(1911年)8月30日、逓信大臣(第2次西園寺公望内閣)となり、外務大臣を臨時兼任。10月16日、外務大臣臨時兼任を解く。
- 大正元年(1912年)12月5日、西園寺内閣総辞職に伴い、逓信大臣を辞す。
栄典
- 位階
- 1873年(明治6年)11月15日 - 正六位[6]
- 1886年(明治19年)11月16日 - 正五位[7]
- 1888年(明治21年)12月6日 - 従四位[8]
- 1893年(明治26年)12月27日 - 正四位[9]
- 1899年(明治32年)12月20日 - 従三位[10]
- 1906年(明治39年)10月20日 - 正三位[11]
- 1913年(大正2年)7月10日 - 従二位[12]
- 勲章等
- 1887年(明治20年)11月25日 - 勲四等旭日小綬章[13]
- 1889年(明治22年)11月25日 - (大日本帝国憲法発布記念章)[14]
- 1895年(明治28年)10月31日 - 男爵・勲一等瑞宝章[15]
- 1899年(明治32年)12月27日 - 旭日大綬章[16]
- 1902年(明治35年)2月27日 - 子爵[17]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 旭日桐花大綬章[18]
- 1907年(明治40年)9月14日 - 伯爵[19]
- 外国勲章佩用允許
家族
『平成新修旧華族家系大成』と『近代日本の万能人・榎本武揚』と『蘭医佐藤泰然』を参照[24]。
- 実父:佐藤泰然
- 実母:たき
- 実兄:(山村惣三郎)・松本良順
- 義兄:佐藤尚中 - 父の養嗣子
- 実姉:きわ - (三沢精確)(良益)に嫁ぐ
- 姪婿:三沢元衛(今村信行弟)・緒方惟準(緒方洪庵次男)・箕作麟祥・田村初太郎 - きわ・三沢精確夫妻の娘きみ・よしえ・もと・さく姉妹の夫
- 養父・義兄:林洞海
- 養母・実姉:つる
- 義兄弟・甥:林研海・西紳六郎 - 洞海・つる夫妻の実子
- 義兄弟・姪婿:榎本武揚・赤松則良 - 洞海・つる夫妻の娘たつ・さだ姉妹の夫
- 従兄弟:山内作左衛門・山内堤雲 - 父の姉妹の息子
- 妻:操(1858年 - 1942年) - (蒲生重民)の娘、山内作左衛門の養女
- 長女:菊(1874年 - 1968年) - 福澤諭吉の次男・福澤捨次郎(時事新報社長)に嫁ぐ
- 長男:(雅之助)(1877年 - 1958年) - 伯爵位を継承。娘婿に(潮田勢吉)、小室雅夫(小室信夫の孫)。
- 孫:岩崎忠雄(1909年 - 1990年) - 雅之助の長男、岩崎小弥太の婿養子
- 義孫:岩崎淑子(1913年 - 1994年) - 岩崎俊弥の次女、岩崎小弥太の姪で養女、忠雄の妻
著書
翻訳
- ジョン・スチュアート・ミル『彌児經濟論』吉松四郎、1875年
- テート『訓蒙天文略論』島村利助、1876年
- ホンフレー・プリドウ『馬哈黙(マホメット)伝』干河岸貫一、1886年
- 賓雑吾(ベンサム)『刑法論綱』干河岸貫一、1879年
- 日本立法資料全集 別巻 406 信山社出版、2006年
- 『泰西政史』抄訳 回春堂、1881年
- マキァヴエリ『羅馬史論』博文館、1906年
- 『修養の模範』訳編 丙午出版社、1909年
脚注
- ^ 『新版 日本外交史辞典』P842、朝日新聞社、P1342 - P1343、臼井、P848、榎本、P291 - P292。
- ^ “七人の有名な日本人メィーソン”. 東京メソニックセンター. 2009年6月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年3月30日閲覧。
- ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)23頁
- ^ 『新版 日本外交史辞典』P842、朝日新聞社、P1343、臼井、P848、榎本、P293。
- ^ 『官報』第3567号「叙任及辞令」1895年5月23日。
- ^ 『太政官日誌』明治6年、第152号
- ^ 『官報』第1019号「叙任」1886年11月20日。
- ^ 『官報』第1635号「叙任及辞令」1888年12月10日。
- ^ 『官報』第3151号「叙任及辞令」1893年12月28日。
- ^ 『官報』第4943号「叙任及辞令」1899年12月21日。
- ^ 『官報』第6995号「叙任及辞令」1906年10月22日。
- ^ 『官報』第286号「叙任及辞令」1913年7月12日。
- ^ 『官報』第1324号「叙任及辞令」1887年11月26日。
- ^ 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。
- ^ 『官報』第3704号「叙任及辞令」1895年11月1日。
- ^ 『官報』第4949号「叙任及辞令」1899年12月28日。
- ^ 『官報』第5593号「叙任及辞令」1902年2月28日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年3月31日。
- ^ 『官報』第7266号「授爵・叙任及辞令」1907年9月16日。
- ^ 『官報』第2430号「叙任及辞令」1891年8月5日。
- ^ 『官報』第2503号「叙任及辞令」1891年10月31日。
- ^ 『官報』第4051号「叙任及辞令」1896年12月28日。
- ^ 『官報』第7992号「叙任及辞令」1910年2月16日。
- ^ 村上、P19 - P20、霞会館、P376、榎本、P292、P332。