この記事は(検証可能)な(参考文献や出典)が全く示されていないか、不十分です。(2016年10月) |
佐藤 泰然(さとう たいぜん、文化元年(1804年) - 明治5年4月10日(1872年5月16日))は、日本の蘭方医。名は信圭(のぶかど)、号は紅園、泰然は通称。初め田辺庄右衛門と称し,旗本伊奈家用人をつとめた。佐藤藤佐の子。順天堂大学の基礎を作った人物として知られている。
生涯
文化元年(1804年)、佐藤藤佐の子として、現在の神奈川県川崎市にて誕生した[1]。
天保元年(1830年)、蘭方医を志し、足立長雋や高野長英に師事。天保6年(1835年)に長崎に留学し、天保9年(1838年)に江戸へ戻ると、両国薬研堀に「和田塾」を開いた(和田は母の姓)。
天保14年(1843年)、佐倉藩主堀田正睦の招きで江戸から佐倉に移住。病院兼蘭医学塾「佐倉順天堂[2]」を開設。また姓も父の佐藤姓を名乗る。
佐倉順天堂の治療は当時の最高水準を極めていた。高弟であった関寛斎の「順天堂外科実験」にその手術例が詳しい。安政年間院内に掲示された「療治定」によると卵巣水腫開腹術、割腹出胎術とある(いずれも麻酔薬を使わない手術)。嘉永4年(1851年)、日本初の「膀胱穿刺」手術に成功。他にも乳癌手術、種痘など蘭学の先進医療を行うとともに医学界を担う人材を育成し、順天堂は大阪の緒方洪庵の適塾とならぶ有名蘭学塾となった。
嘉永6年(1853年)、功績が認められて、正式に佐倉藩士に取り立てられ、町医から藩医となる。ところが安政6年(1859年)、病気を理由に家督を養子の佐藤尚中に譲り隠居。文久2年(1862年)には佐倉を離れ、横浜に移住した。
家族・親族
- 父・佐藤藤佐 - 庄内藩士。天保義民事件で活躍[4]
- 姉・ふく - 斎藤鎌五郎の妻。孫娘ゑいの夫に男爵田中芳男[5]。
- 弟・佐藤然僕 - 江戸詰め庄内藩医[4]
- 妹・きせ - 箱館奉行支配役・長谷川儀三郎の妻。娘の佐喜は(花岡真節)(1839-1884)の後妻。花岡は幕府奥医師・(桐原鳳卿)に師事し婿養子となり(桐原姓となり、のち復姓)、奥医師・将軍侍医を務め、泰然の二男・松本良順らとともに長崎医学校、江戸(西洋)医学所、東京医学校を設立、大学東校教授のち東京帝国大学医学部教授、初代医学部長、医学部付属病院初代病院長を務めた[6]。花岡の子に東京帝大法学部教授・弁護士の花岡敏夫、外交官の花岡止郎など[7][8]。
- 養嗣子・佐藤尚中 - 小見川藩医・山口甫僊の次男、舜海と称す。
- 長男・佐藤百太郎
- 長女・つる - 林洞海の妻
- 次女・きは - 関宿藩主・久世広周のお抱え医師・三沢精確(良益)に嫁す。
- 長男・山村惣三郎 - 幕臣山村八蔵の養子となり、箱館奉行支配組頭を務め、維新後は順天堂の会計を務めた[9]。
- 次男・松本良順 - 松本良甫の養子、のちに順と改名。男爵。将軍侍医、初代陸軍軍医総監。
- 八男・松本本松 - 男爵
- 三男・大三郎(早世)
- 三女・とみ - 白戸隆忠の養女、のちの陸軍省初代軍馬局長・白戸隆盛(石介、1833年生)を婿に迎える。
- 四男・綱四郎(早世)
- 四女・ふさ - 山内作左衛門(山内堤雲の兄)に嫁す
- ふさの孫・玉枝 - 海軍少将・森電三の妻
- 五男・林董 - 林洞海の養子、外交官・政治家・外務大臣。伯爵
脚注
- ^ 林董『後は昔の記』(東洋文庫、1970年)、p.9
- ^ 「順天」とは、中国古書にある「天の道に順」の意
- ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.35
- ^ a b 佐藤桃太郎荘司芳雄、庄内日報社、1989年11月
- ^ 舎密局について芝哲夫、『生産と技術』1964年9号
- ^ 親族・花岡真節の墓所解体「生命と微量元素」講座<荒川泰昭>
- ^ 花岡敏夫『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
- ^ 花岡真節谷中・桜木・上野公園路地裏徹底ツアー
- ^ 『探墓巡礼 谷中編~箱館戦争関係人物を歩く~』編集雑記探墓巡礼顕彰会-歴史研究会連携団体による墓碑調査プロジェクト、2018-08-13