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板倉重宗

板倉 重宗(いたくら しげむね)は、江戸時代前期の譜代大名下総関宿藩の初代藩主。京都所司代。板倉家宗家2代。

 
板倉 重宗
板倉重宗像(松雲院蔵)
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 天正14年(1586年
死没 明暦2年12月1日1657年1月15日
別名 十三郎(通称
戒名 松雲院殿秀峯源俊大居士
官位 従五位周防守、従四位下、侍従右少将。従四位上
幕府 江戸幕府小姓組番頭・書院番頭・京都所司代
主君 徳川家康秀忠家光家綱
下総関宿藩
氏族 板倉氏
父母 父:板倉勝重
母:(粟生永勝)の娘
兄弟 中嶋重好(異父兄)、重宗重昌、(重大)
正室成瀬正成の娘
継室戸田氏鉄の娘
重郷重形、鍋(本多利長室)、坂(太田資宗正室)、徳(遠藤慶利正室)、安(内藤正勝正室)、長福(森川重政正室)、久(松平光重正室)、那珂(内藤忠政正室)、慶(松平輝綱正室)、美井(市橋政信正室)、与津(松平典信正室)、鶴(松平輝綱継室)
特記
事項

父と共に2代にわたって所司代職を世襲した(甥の重矩をふくめると3代になる)。

継室である戸田氏鉄の娘ははじめ直江景明に嫁いだが、景明が早世したため重宗と再婚した。
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生涯

板倉勝重の長男として駿府で生まれる[1]永井尚政井上正就と共に秀忠に近侍した(同時期の小姓組番頭は他に水野忠元大久保教隆成瀬正武日下部正冬)。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは秀忠に従った。慶長10年(1605年)の家康・秀忠の上洛に従い、秀忠の将軍就任に伴って重宗も従五位下・周防守に叙任された。大坂の陣では冬・夏の両陣に出陣し、小姓組番頭の職にあって家康・秀忠の間で連絡役を務めた。戦後、書院番頭に任命されて6000石を与えられた。

元和6年(1620年)に父の推挙により京都所司代となり、2万7000石を与えられた。元和9年(1623年)11月19日に従四位下に昇位し、12月23日に侍従に任官される。寛永元年(1624年)4月に父が死去すると、その遺領を弟の重昌と共に分割して相続し、重宗は1万860石を継いで合計3万8000石となった。さらに4月21日には1万2000石を加増されて合計5万石となる。

寛永3年(1626年)、第3代将軍・家光の参内に従う。家光の嫡男・家綱が生まれるとその元服官位について朝廷と交渉した。正保2年(1645年)にはその功績により従四位上・右少将に昇位・任官された。

承応3年(1654年12月6日、30年以上にわたって在職した所司代職を遂に退任した。しかし重宗の影響力は絶大で、翌年11月まで次代の牧野親成を補佐した。その後は家綱の補佐、徳川家の宿老として江戸で幕政に参与し、保科正之井伊直孝大老と同格の発言力を持っていたという。

明暦2年(1656年8月5日、下総関宿5万石を与えられて藩主となった。しかし高齢もあって11月に病に倒れ、幕府から医師の派遣を受けるも12月1日に関宿で死去した。享年71。

人物・逸話

  • 父の勝重が重宗と弟の重昌に、ある訴訟の是非について答えよと言った。重昌はその場で返答したが、重宗は1日の猶予を求めたうえで翌日に弟と同じ結論を答えた。周りのものたちは重昌の方が器量が上だと評価したが、父の勝重は、重宗は重昌同様に結論を早く出していた、ただ慎重を期すためにあのような振る舞いをしただけであり、重宗のほうが器量が上であると評したという(名将言行録)。
  • 京都所司代として訴訟の審理をする際は、目の前に「灯かり障子」を置き、傍らにはお茶を用意した。心を落ち着かせ、当事者の顔を見ないようにすることで(人相などによる)いらぬ先入観を持たないようにし、誤った判決をしないように心掛けたという[2]
  • 所司代として公務にあたって私心無く公平に処し、正直に決断することを常に心がけ、良臣として人々に広く高い評価を受けていたという(徳川実紀)。
  • 重宗は死刑の判決を下した罪人を常に呼び出し「明日に刑を執行するが、申し開きあれば申せ」と述べた。そして罪人が申し開いたことは死刑を延期して何日もかけて調べ、全て言い分が無くなってから刑を執行したという(名将言行録)。
  • 父・勝重から所司代に推挙されたとき、重宗は固辞したという。だが父と秀忠の強い薦めがあって断りきれず、父に「なぜこんな大任を」と述べた。勝重は笑いながら「爆火を子に払うため」と答えたという((責而話草))。
  • 重宗が所司代を退任した際、難しい訴訟をわざと5つほど判決せずに残し、それらについて自分の存念を書いたものを添えて後任の牧野親成に預けた。牧野は重宗の添え書きに従ってその通りに裁いたが、京都の町衆は「周防守(重宗)さえ裁けなかったものを新任の牧野がすぐに裁いた」と褒め称え、それまで侮っていた牧野を信頼したという(名将言行録)。
  • 京の油小路に賀部屋寿幸という貪欲な男がいた。二百両の持参金で嫁を迎えたが、他に五百両持参の話が持ち上がると離縁したくなった。しかし、持参金は返したくないので、家内一同と嫁の乳母を籠絡して狂言姦通を謀り、嫁の鼻を削いで不義の妻として実家に送り返した。実家の訴えを受けて重宗は乳母と下男を拷問にかけて白状させ、寿幸夫妻と乳母、下男など事件に関与した者を一人残らず「都の上・中・下を引き回し」にした。寿幸の財産は没収し、嫁に与えた[3]
  • 重宗が京都所司代の時、叡山松禅院で住僧が留守中に強盗が入り、寺宝什物を盗まれた。所司代に訴えたが、犯人は不明だった。三年後、ある僧が坂本で泊まった時、その宿で出された夜着が緞子なので不審に思い、端を返すと紙札に寺名が記されていた。そこで所司代に訴え出て重宗が宿の主人を捕らえ拷問にかけたところ、十七人が共謀して盗んだことを自白したため処刑された。名奉行でも拷問は必要だったということである[4]
  • 京都に鉈屋某という富豪がいた。ある罪で重宗に牢舎を申し付けられ、その子二人が父を救おうと江戸に訴願した。江戸幕府から老中の書状が届いたが、重宗は読まずに即刻鉈屋を処刑させた。書状の内容は「子が云うには父の罪科は死刑にするほどのものではない。もう一度吟味せよ」というものだった。重宗は老中に対し、「京都の御政務のことは私に委ねられました。裁判のことについて京都を差し置いて江戸に訴え、江戸から指図があっては京都の法令は立ち難く、京都で難渋したことは江戸へ江戸へと下向されるのでは、とても私としては今後裁許できません。京都の成敗が不当とされるなら速やかに退任しましょう。他の者に御役を命ぜられますよう」と答えた。老中たちは驚き、「そんな意味で本件に関与したのではない。だから、これからは京都のことは周防守(重宗)の心任せにせよ」と応じた。このことを聞いた松平勝隆は、「鉈屋の子供は孝行しようとしてかえって不孝をした。父に代わって牢舎を願い出るのが誠の孝道だった。はるかに関東に下って訴願するなどは所司代を軽んずる行動であり、どうして周防守が許容するだろうか」と評した[5]
  • 茶の湯古田織部に学んだ茶人でもあった(茶人系譜)。

系図

脚注

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  1. ^ 上田正昭ほか監修 著、三省堂編修所 編『コンサイス日本人名事典 第5版』三省堂、2009年、115頁。 
  2. ^ 熊倉功夫 『後水尾天皇』 中公文庫(ISBN 978-4122054042)、133-134p
  3. ^ 井上和夫 『戦国の犯科帳』 人物往来社(ASIN) B000JAJ84U、91-92p
  4. ^ 井上和夫 『戦国の犯科帳』 人物往来社(ASIN) B000JAJ84U、176p
  5. ^ 井上和夫 『戦国の犯科帳』 人物往来社(ASIN) B000JAJ84U、206-207p

参考文献

先代
板倉勝重
板倉宗家当主
1620年 - 1657年
次代
板倉重郷
先代
板倉勝重
大名
山城国近江国内)
1620年 - 1656年
次代
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