来歴・人物
プロ入り前
育英高時代は、3年次の1990年夏の選手権に出場。初戦で、中川申也(2年)のいた秋田経法大附高に延長の末に2-3で敗れる。
1990年度プロ野球ドラフト会議でオリックス・ブルーウェーブから2巡目指名を受けて入団。
オリックス時代
プロ入り後3年間は一軍への昇格はなかった。
4年目の1994年に一軍初昇格、9月21日にはプロ初先発を経験。しかし一軍での勝利を挙げられない年が続いた。
1999年春にはチームメイトのイチロー・星野伸之と共に米大リーグ、シアトル・マリナーズの春季キャンプにも招待された。だが、登板機会は少なく、その後も振るわないシーズンが続いた。
2000年に春のキャンプで投手コーチの河村英文から「おれについてきたらタイトルをとらせてやる」と言われ[1]、戎は「正直言って、それまでは人の意見はまったく聞きませんでした。信頼感というんでしょうか。ヨシ、この人についていこうと心に決めたんです」と述べている[1]。同年先発陣が故障、不振相次ぎ「下に誰かいないか」と言われた二軍投手コーチの佐藤義則が戎を推薦し[2] 、6月半ばに一軍に昇格し27日には1994年以来の先発登板で勝ち星は付かなかったもの好投[1]。7月4日の日本ハムファイターズ戦でプロ初勝利[1]、立て続けに勝利を重ねて、5試合の先発で3勝負けなしだったこともありオールスターゲームにも監督推薦で出場する。6月末からの先発ながらリーグトップの8完投を記録。チーム唯一の規定投球回数をクリアし8勝を挙げ防御率は3.27と高かったものの、河村コーチの言葉通り[1]、最優秀防御率のタイトルを獲得した。この数字は1リーグ制、2リーグ制を通してタイトルとしては最も高い数字である。戎は「周りのアドバイスを聞くことが、いかに大事か。いまの自分があるのも、それを教えてくれた河村さんのおかげです」 と述べている[1]。
2001年は、7月6日に開幕から毎試合得点を挙げていた西武ライオンズを相手にグリーンスタジアム神戸で3安打の完封勝利を挙げたが、前年とは対照的に負けが先行し8月末には先発ローテーションから外れてしまった。ちなみにこの年最優秀防御率を獲得したネイサン・ミンチーも防御率3.26と高めで、パ・リーグでは2年連続で防御率3点台の最優秀防御率投手が出たことになった。
2002年は先発での登板が1試合のみでそれ以外の5試合が中継ぎという状況下だった。そして、シーズン途中の6月25日に副島孔太とのトレードでヤクルトスワローズへ移籍することが発表された。
この年から背番号1を加藤伸一から引き継いで着用していたが、開幕からわずが2ヶ月余りで変更することとなった。
ヤクルト時代
2002年は1試合の登板に終わった。移籍前から通算するとこの年は10試合しか登板できなかった。
2003年は5試合の登板で1勝3敗、防御率7.36の成績で終わり、シーズンオフに戦力外通告を受けた。その後入団テストを受けて大阪近鉄バファローズへ移籍。
近鉄時代
2004年は近鉄最後の年となったが投手陣の事情が厳しかったにもかかわらず、一軍へ上がれないまま再び10月6日に戦力外通告を受けて現役を引退した[3]。
引退後
引退後はオリックス時代のチームメイト・髙嶋徹の勧めで複合アミューズメント施設ラウンドワンに勤務しており[1]、北心斎橋店の支配人[1]、伊丹店の支配人、高松店の支配人を経て、現在JR尼崎駅前店で副支配人を務めている。[4]。
詳細情報
年度別投手成績
年 度 | 球 団 | 登 板 | 先 発 | 完 投 | 完 封 | 無 四 球 | 勝 利 | 敗 戦 | セ 丨 ブ | ホ 丨 ル ド | 勝 率 | 打 者 | 投 球 回 | 被 安 打 | 被 本 塁 打 | 与 四 球 | 敬 遠 | 与 死 球 | 奪 三 振 | 暴 投 | ボ 丨 ク | 失 点 | 自 責 点 | 防 御 率 | W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1994 | オリックス | 3 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 34 | 7.0 | 8 | 1 | 5 | 0 | 1 | 6 | 1 | 0 | 5 | 5 | 6.43 | 1.86 |
1995 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 5 | 1.0 | 1 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 9.00 | 2.00 | |
1997 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 10 | 2.0 | 4 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1 | 1 | 4.50 | 2.00 | |
1998 | 11 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 93 | 21.0 | 30 | 1 | 4 | 0 | 0 | 17 | 2 | 0 | 16 | 16 | 6.86 | 1.62 | |
1999 | 10 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 84 | 16.1 | 25 | 0 | 7 | 0 | 2 | 11 | 1 | 0 | 13 | 7 | 3.86 | 1.96 | |
2000 | 21 | 17 | 8 | 1 | 0 | 8 | 2 | 0 | -- | .800 | 552 | 135.0 | 119 | 10 | 32 | 1 | 8 | 73 | 3 | 0 | 59 | 49 | 3.27 | 1.12 | |
2001 | 20 | 19 | 2 | 2 | 1 | 5 | 9 | 0 | -- | .357 | 511 | 117.1 | 124 | 14 | 44 | 0 | 5 | 63 | 1 | 0 | 56 | 48 | 3.68 | 1.43 | |
2002 | 6 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 1 | -- | .500 | 74 | 16.2 | 16 | 3 | 8 | 0 | 2 | 10 | 0 | 0 | 7 | 7 | 3.78 | 1.44 | |
ヤクルト | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | -- | .000 | 19 | 4.1 | 4 | 0 | 3 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 3 | 2 | 4.15 | 1.62 | |
'02計 | 7 | 2 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 | 1 | -- | .333 | 93 | 21.0 | 20 | 3 | 11 | 0 | 2 | 12 | 0 | 0 | 10 | 9 | 3.86 | 1.48 | |
2003 | 5 | 5 | 0 | 0 | 0 | 1 | 3 | 0 | -- | .250 | 98 | 22.0 | 36 | 6 | 1 | 1 | 0 | 9 | 0 | 0 | 18 | 18 | 7.36 | 1.68 | |
通算:9年 | 80 | 44 | 10 | 3 | 1 | 15 | 16 | 1 | -- | .484 | 1480 | 342.2 | 367 | 36 | 105 | 2 | 18 | 192 | 8 | 0 | 179 | 154 | 4.04 | 1.38 |
- 各年度の太字はリーグ最高
タイトル
- 最優秀防御率:1回(2000年)
表彰
- ジュニア日本選手権MVP:1回(1994年)
- 月間MVP:1回(2000年7月)
記録
- 初登板・初先発:1994年9月21日、対千葉ロッテマリーンズ25回戦(グリーンスタジアム神戸)、3回5失点
- 初奪三振:同上、3回表にヘンスリー・ミューレンから
- 初勝利・初先発勝利:2000年7月4日、対日本ハムファイターズ14回戦(東京ドーム)、8回2失点
- 初完投勝利:2000年7月9日、対大阪近鉄バファローズ16回戦(グリーンスタジアム神戸)、9回3失点
- 初完封勝利:2000年8月3日、対千葉ロッテマリーンズ17回戦(千葉マリンスタジアム)
- 初セーブ:2002年4月23日、対千葉ロッテマリーンズ5回戦(千葉マリンスタジアム)、7回裏から救援登板、3回無失点
- オールスターゲーム出場:1回 (2000年)
背番号
- 30(1991年 - 1998年)
- 65(1999年 - 2001年)
- 1(2002年 - 2002年途中)
- 23(2002年途中 - 2003年)
- 66(2004年)
脚注
関連項目
外部リンク
- 個人年度別成績 戎信行 - NPB.jp 日本野球機構