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深名線

深名線(しんめいせん)は、かつて北海道旅客鉄道(JR北海道)/日本国有鉄道(国鉄)が運営していた鉄道路線地方交通線)である。北海道深川市にある深川駅函館本線から分岐し、雨竜郡幌加内町を経て名寄市にある名寄駅宗谷本線に接続していた。

深名線
(キハ53形気動車)
(朱鞠内駅構内、1994年2月)
基本情報
現況 廃線
日本
所在地 北海道
種類 普通鉄道在来線地方交通線
起点 深川駅
終点 名寄駅
駅数 (旅客駅):21駅
貨物駅:0駅
信号場:0か所
開業 1924年10月25日(雨竜線)
1937年11月10日(名雨線)
全通 1941年10月10日
民営化 1987年4月1日
廃止 1995年9月4日
所有者 北海道旅客鉄道(JR北海道)
運営者 北海道旅客鉄道(JR北海道)
(全線 (第一種鉄道事業者))
使用車両 使用車両の節を参照
路線諸元
路線距離 121.8 km
軌間 1,067 mm狭軌
線路数 全線単線
電化区間 全線非電化
(最大勾配) 25 [1]
(最小曲線半径) 250 m[1]
閉塞方式 (タブレット閉塞式)(深川 - 朱鞠内間)
(票券閉塞式)(朱鞠内 - 名寄間)
路線図
(テンプレートを表示)

営業係数は常にワースト10に入るという大赤字の路線で、赤字83線特定地方交通線の廃止論議にもその都度候補にあげられていた。並行道路の未整備を理由に廃止保留となったが、国鉄分割民営化後に並行道路の整備が進んだことから[新聞 1]1995年(平成7年)9月4日廃止された[新聞 2]

歴史

全通までの経緯

深名線の沿線地域とされる雨竜川上流地域へ、最初の開拓民が幌加内地域に定着したのは1897年明治30年)である[2]。この時点でまず雨竜川沿いに道路が建設され[2]、その後明治時代末期までに士別和寒と結ばれる道路が開設され[2]、幌加内地域の各集落と他の地域を結ぶメインルートとなっていった[2]

この地域における鉄道敷設計画は、1911年(明治44年)に幌加内地域に移住してきた吉利智宏が、深川から三股(後の朱鞠内地区[2])を経て音威子府に至る軽便鉄道の建設を請願したのが始まりとされている[3][注釈 1]。これが、周辺地域の多度志・深川などの地域と連帯した運動となり、1916年大正5年)には「雨竜鉄道期成同盟会」が結成された[2]。これらの運動を受け、1918年(大正7年)には政府によって深川から三股に至る軽便鉄道の建設が決定した[3]。なお、この年には雨竜郡上北竜村から幌加内村が独立発足しており、発足時の人口は4,690人であった[2]

この鉄道は雨竜線として1922年(大正11年)に着工し[4]、深川 - 朱鞠内間を6工区に区分し、他に深川駅構内の拡張工事が行われた[5]。まず深川駅から多度志駅までの区間が第1工区として1922年(大正11年)12月16日に起工し、1924年(大正13年)9月25日に竣工、同年10月25日に開通した[4][5]。続いて第2工区として、多度志駅から鷹泊駅まで1925年(大正14年)6月16日に起工し、1926年(大正15年)11月10日に開通した[3][5]。第3工区となる多度志駅から幌加内駅までの区間は1925年(大正14年)11月16日に起工したが、途中の幌加内トンネルの地質が悪かったことから難工事となり、1日平均1メートルしか掘削できず、工期を予定より1年伸ばして1929年昭和4年)5月15日に竣工し、同年11月8日に開通した[3][5][6]。第4工区は幌加内駅から政和駅まで1928年(昭和3年)11月16日に起工し、第5工区はさらに添牛内駅まで同年11月6日に起工して、どちらも1931年(昭和6年)9月15日に開通し[3][6]、第6工区の添牛内駅 - 朱鞠内駅間は1931年(昭和6年)7月13日に起工し、1932年(昭和7年)10月25日に開通[3][6]というように小刻みに延長している。深川 - 朱鞠内間の総工費は4,467,778円であった[7]。また、1931年(昭和6年)10月10日付で路線名称が幌加内線に改称されている[4]。鉄道建設と並行するように雨竜ダムの建設計画が進められており[4]、1938年(昭和13年)に着工した雨竜ダムの建設工事と、貯水に先立って行われた水没地域の森林伐採・木材輸送には幌加内線が使用された[4]

一方、1922年(大正11年)に公布された改正鉄道敷設法の別表第143項には「天鹽(塩)國名寄ヨリ石狩國雨龍ヲ經テ天鹽國羽幌ニ至ル鐵道」が盛り込まれ[4]、また1929年(昭和4年)からは札沼線石狩沼田駅から多度志駅を結び、朱鞠内駅から天塩線(当時。現在の宗谷本線佐久駅を結ぶ札佐線の建設運動が開始されている[4]。こうした状況下、1935年(昭和10年)には名雨線として名寄駅から朱鞠内駅までの区間が着工され[4]、全区間を4工区に分けて工事が進められた[7]1937年(昭和12年)11月10日には名寄駅から初茶志内駅(当時)までが開通した[4]。さらに、1939年(昭和14年)10月10日には初茶志内駅から朱鞠内駅までが開通[3]、同時に幌加内線と名雨線を統合して深名線に改称された[3]。名寄 - 朱鞠内間の総工費は509万4000円であった[1]

こうして、深川駅と名寄駅の間は、函館本線・宗谷本線を経由する旭川駅回りと、深名線を経由する朱鞠内駅回りの2経路を有することになった。しかし深名線経由の方が13.4 km長く、途中に25 ‰の勾配区間が5か所あり、半径250 mの曲線も多かったため輸送力が小さく、結局沿線の開発とダムの建設に貢献したに留まった[8]

戦後

戦後になると、雨竜ダムによって出現した人造湖は観光資源としての価値を評価され「朱鞠内湖」と命名され、観光地となった[2]。また、ダム建設終了後も木材輸送は活発な状態で[9]、沿線地域の中心的交通機関としての役割を果たしていた[9]。1955年(昭和30年)からはレールバスを導入の上で旅客列車の増発が行われ[4]、それに伴い利用者も増加[9]、レールバスでは需要に応じきれずに通常の気動車へ置き換えられることになった[9]。また、1955年(昭和30年)9月には円山・宇摩・下幌成・新成生・上幌加内・下政和・大曲・共栄の各乗降場が、1956年(昭和31年)5月には湖畔仮乗降場が新設されている[4]

1960年(昭和35年)以降は駅の無人化や貨物扱いの集約など、合理化が行われるようになった[9]。この時期が沿線の人口も最も多い時期で、1960年(昭和35年)の幌加内町[注釈 2]の人口は12,016人に達しており[2]、同年の深名線の輸送人員は140万7千人であった[9]

なお、1955年(昭和30年)前後には道北バスによる幌加内と和寒を結ぶバス路線と、名士バスによって添牛内と士別を結ぶバス路線が運行した記録が残っている[10]。1950年代から1960年代前半(昭和20年代後半から昭和30年代)まではモータリゼーションがまだ進展していなったことから、日本のバス業界は「道路があって人が住んでいればバスが走り、バスを走らせれば儲かる」という状況であった[11]にもかかわらず、これら道北バスと名士バスの開設した2路線については数年で廃止されている[10]など、沿線のバス交通は発達しておらず、1982年(昭和57年)の時点で沿線を運行していたバス路線は、深川から多度志までの間に1日5往復の北海道中央バスの路線バスだけであった[12]

1962年(昭和37年)には朱鞠内駅から羽幌駅に至る鉄道路線として名羽線が着工され、かなりの区間で路盤が完成した。羽幌側では羽幌炭鉱三毛別鉱から産出される石炭積み出しのために羽幌炭礦鉄道が路盤を借り受けて営業していた[4]後述)。

特定地方交通線から除外

ところが、1960年代に入ると価格の安価な輸入木材の台頭および石炭産業の衰退によって沿線の林業および炭鉱が大きな打撃を受けると、たちまち沿線の経済が斜陽化するようになり、人口流出は顕著になった。1965年(昭和40年)には幌加内町の人口は9,195人に減少[2]、さらに1970年(昭和45年)には7,283人にまで減少し[2]、白樺や蕗ノ台では集落自体がなくなった。これと並行するようにモータリゼーションの進展と道路の改良によって、深名線の輸送量も減少の一途をたどることになった[9]。1970年(昭和45年)の深名線の輸送人員は47万2千人に減少、輸送密度にすると457人/日であった[9]。1975年(昭和50年)度には、住民の維持管理が負担となったという自治会からの意向により大曲仮乗降場が廃止されている[10]。建設中だった名羽線の工事も凍結され、1970年(昭和45年)には羽幌炭鉱が閉山、石炭や木材輸送の見込みは全くなくなり、開通する見込みもなくなった[4]

1968年(昭和43年)9月には国鉄諮問委員会によってローカル線廃止勧告(赤字83線)が出されることになったが、深名線もこの中に含まれたため、沿線自治体では「深名線廃止反対期成会」が結成された[9]。このときは廃止にならなかったが、1979年(昭和54年)時点での収支係数[注釈 3]は2,785という大赤字路線であった[13]。その後1979年(昭和54年)に国鉄再建案が閣議で了承され、1980年(昭和55年)に国鉄再建法案が可決し、1981年(昭和56年)3月には施行令が公布された[14]特定地方交通線の選定基準であった1977年(昭和52年)度から1979年(昭和54年)度までの深名線の輸送密度は平均272人/日しかなかった[15]が、冬季における代替道路が未整備という理由により、深名線は廃止候補から外された[15]

しかし、1980年(昭和55年)10月のダイヤ改正では減便が行われ、鷹泊駅以北から深川駅以南への日帰り往復ができなくなった[14]こともあり、乗客の減少は止まらず、1984年(昭和59年)の深名線の輸送密度は123人/日までに落ち込んだ[16]。また、沿線産業の衰退で人口の減少も続いており、1980年(昭和55年)の幌加内町の人口は3,739人と、幌加内村が発足した時点の人口をも下回っていた[2]

収支状況も悪く、1981年度(昭和56年度)の営業係数は2,901で、初めて全国ワーストワンとなった。赤字額は26億8,142万円だった[17]。原因として、1981年8月の集中豪雨で線路が寸断され、利用客が大幅に減った上、災害復旧に1億500万円の経費がかかったこと、慢性的に続く利用減も影響した[17]。1985年度(昭和60年度)の営業係数は3,641で、再び全国ワーストワンとなった。赤字額は26億8,300万円だった[18]

さらに、未整備とされた並行道路も、1989年(平成元年)度までに改良が完了する見込みとなった[19]。1986年(昭和61年)10月には北海道新聞が「廃止対象線に指定してもらい、転換交付金を受けてバス転換に踏み切るべき」との論評を紙面に掲載した[20][21]が、このような報道などに触れた沿線住民、特に幌加内町民は深名線の行く末に不安を抱いたとの評価もある[21]

存廃問題

前述の代替交通の問題から、深名線は国鉄からJR北海道に継承され、引き続き維持されることになった[16]。1990年(平成2年)には乗降客の少ない一部の駅が廃止されている[10]

ところが、1993年(平成5年)12月15日の北海道新聞で「深名線、来年度に廃止」という記事が掲載された[15][新聞 3]。北海道新聞の記事内容は「JRが公言したものではない」という書き方で、他紙ではJR北海道は廃止報道を否定していたと報じられた[15]が、同年11月にはJR北海道では特定地方交通線以外の初の廃止線として、函館本線上砂川支線の廃止が公表されていた[22]ことや、この時点ですでに並行道路の整備は完了しており、年間収入が5000万円程度であるのに対して投入する経費は10億円近くという[15]深名線の状況において、深名線の廃止問題は「浮上してもおかしくない」ともみられていた[15]。また、他のJR北海道のローカル線が経費節減のためにワンマン運転を導入しているにもかかわらず、深名線の列車には車掌が乗務していた[23]ことから、「廃止路線に余分な投資はできない」との憶測まで生じていた[23]。さらに、この廃止報道の後に、地域から廃止に反対する意見や動きなどがほとんど見られなかった[22]

この当時、深名線の1日の利用者数は100人台に乗る程度で通勤定期券の利用者は存在せず[24]、1日16本の列車に対して1列車平均の利用者数は10人程度に過ぎず[25]、輸送密度は80人/日という有様であった[24]。また、ダイヤも国鉄末期の減便(1986年11月1日国鉄ダイヤ改正)によって、幌加内町内でありながら北母子里駅から幌加内駅への日帰り往復が不可能となった[26][27]。しかし、前述したように、当時の深名線沿線においては北空知バス[注釈 4]が運行する深川と多度志を結ぶ路線を除き、バス路線は設定されたことすらほとんどなかったが、これは深名線程度の輸送人員ではバスでも赤字必至とみられたため既存のどのバス事業者も手を出しかねていたと思われる[10]

こうした状況下、JR北海道は1994年(平成6年)12月10日に沿線4自治体[注釈 5]の代表者を札幌市内のホテルに招き、「年々利用者数が減少している現状からは、バス輸送が地域に最も適した輸送手段である」として、正式に深名線の廃止とバス転換の提案を行った[25]。この時点での提案内容は以下のような内容であった[24]

  1. バスの運行はJR北海道自身が行う[注釈 6]
  2. バスの運行ルートは並行道路(国道・道道)とする
  3. バスの停留所は鉄道駅の2倍程度
  4. バスダイヤは鉄道の運行本数と時間設定を基本として決定し、通院に便利な便を新設
  5. 深川と名寄を結ぶ直行便を設定
  6. 運賃は既存の民間バスの賃率を基準とし、一定期間差額補償を行う

沿線自治体では、4自治体の代表により「JR深名線問題対策協議会」を発足させ、JRとの協議が開始された[24]が、鉄道の状況を理解していたため、協議会では絶対反対の態度をとることはしなかった[24]。ただし、バスダイヤの条件については、「所要時間が増加し運賃が上がるのに本数が増えないのは困る」として反発、1995年(平成7年)3月17日には協議会からJR北海道へ「そのままでは同意できないが、現行の鉄道以上のサービスとなる改善の協議には応じる」と回答した[24]。これにJR北海道が対応し、最終的には鉄道の2倍の運行便数という案を提示[24]、これが沿線から評価されたことから、同年5月16日には沿線自治体からはJR北海道に対して、廃止に同意するという意思が示された[31]

JR北海道は同年5月26日に運輸大臣に対して、廃止予定日を9月3日とする深名線の廃止と代替バス路線の免許申請を行い[31]、どちらも同年6月16日には認可され[24]、この時点で深名線は廃止となることが確定した。廃止が近づいた7月25日からは定期列車への増結やイベント列車の運行が行われるようになった[32]。最終日の9月3日には、深川・多度志・幌加内・朱鞠内・名寄の5駅で「お別れセレモニー」が行われた[32]ほか、定期列車への増結に加えて臨時列車が4本増発され[32]、深名線の列車と接続する一部の函館本線の特急列車にも2両から4両の増結が行われた[32]

こうして、1995年(平成7年)9月3日限りで深名線は廃止となり[32][新聞 2][33]、翌9月4日からはJR北海道直営バスによって代替バスの運行が開始された[34][新聞 4][33]

年表

  • 1924年大正13年)10月25日国有鉄道雨龍線として、 深川駅 - 多度志駅間 (14.0km) が新規開業[35]。同区間に多度志駅を新設[36]
  • 1926年(大正15年)11月10日:雨龍線の多度志駅 - 鷹泊駅間 (13.3km) が延伸開業[35]。同区間に幌成[36]・鷹泊[36]の各駅を新設。
  • 1929年昭和4年)11月8日:雨龍線の鷹泊駅 - 幌加内駅間 (16.4km) が延伸開業[35]。沼牛[36]・幌加内[37]の各駅を新設。
  • 1931年(昭和6年)
    • 9月15日:雨龍線の幌加内駅 - 添牛内駅間 (24.9km) が延伸開業[35]。同区間に雨煙別[36]・政和[37]・添牛内[37]の各駅を新設。
    • 10月10日:雨龍線を幌加内線と改称。
  • 1932年(昭和7年)10月25日:添牛内駅 - 朱鞠内駅間 (10.2km) が延伸開業し、幌加内線が全通[35]。同区間に朱鞠内駅を新設[37]
  • 1937年(昭和12年)11月10日:国有鉄道名雨線として、名寄駅 - 初茶志内駅間 (7.2km) が新規開業[35]。西名寄[37]・初茶志内[37]の各駅を新設。
  • 1941年(昭和16年)10月10日:初茶志内駅 - 朱鞠内駅間 (35.8km) が延伸開業[35]。幌加内線に名雨線を編入し、深川駅 - 名寄駅間を深名線と改称[35]。新規開業区間に北母子里[37]・白樺[36]・蕗ノ台[36]・宇津内[36]の各駅を新設。
  • 1946年(昭和21年)6月1日:上多度志仮乗降場を新設。
  • 1949年(昭和24年)
  • 1950年(昭和25年)1月15日:上多度志仮乗降場を駅に変更[36]
  • 1951年(昭和26年)7月20日:初茶志内駅を天塩弥生駅に改称。
  • 1955年(昭和30年)
    • 4月1日:気動車(レールバス)導入に伴い、客貨分離[38]
    • 8月20日:円山[36]・宇摩[36]・下幌成[36]・新成生[37]・上幌加内[37]・下政和[36]・大曲・共栄[37]の各仮乗降場を新設[4]
    • 9月2日:新富仮乗降場を新設。
  • 1956年(昭和31年)
  • 1960年(昭和35年)9月15日:西名寄駅を無人化。
  • 1961年(昭和36年)12月1日:下政和仮乗降場を200mほど深川寄りに移転し、政和温泉仮乗降場に改称[4]
  • 1962年(昭和37年)5月1日:(客貨混合列車)を廃止し、客貨分離を達成。全旅客列車を気動車化[35]
  • 1964年(昭和39年)
    • 4月1日:蕗ノ台駅・白樺駅を無人化。
    • 5月16日:朱鞠内駅が朱鞠内大火で焼失。
  • 1975年(昭和50年)2月:蒸気機関車の運転を廃止[39]
  • 1976年(昭和51年)2月1日:大曲仮乗降場を廃止。
  • 1982年(昭和57年)3月30日:上多度志・幌成・沼牛・雨煙別・添牛内・天塩弥生の各駅を無人化。
  • 1982年(昭和57年)
    • 11月1日:全線の貨物営業を廃止[35]
    • 11月22日:第2次廃止対象線として、廃止承認を申請(保留)[35]
  • 1984年(昭和59年)11月10日:多度志・北母子里を無人化、鷹泊・政和を旅客無人化(運転要員のみ配置)。
  • 1987年(昭和62年)4月1日:国鉄分割民営化に伴い、北海道旅客鉄道(JR北海道)が(第一種鉄道事業者)として全線を承継。雨煙別駅・蕗ノ台駅・白樺駅を臨時駅に改める。円山仮乗降場・宇摩仮乗降場・下幌成仮乗降場・新成生仮乗降場・上幌加内仮乗降場・新富仮乗降場・共栄仮乗降場・湖畔仮乗降場を駅に改める。政和温泉仮乗降場を臨時駅に改める。
  • 1990年(平成2年)
  • 1995年(平成7年)9月4日:全線 (121.8km) 廃止[新聞 2][35]。JR北海道バス(現在のジェイ・アール北海道バス)に転換[新聞 4]

施設

線路の路盤は簡易な構造で、20パーミル以上の急勾配が合計29kmにわたり[4]、半径400メートル以下の急な曲線の区間も合計19kmに達していた[4]

運行形態

幌加内線として深川駅と朱鞠内駅を結ぶ区間が開業したころは、1日4往復の混合列車[注釈 8]で、所要時間は3時間程度であった[4]。名寄まで開通して深名線となった時点では、深川駅と名寄駅を結ぶ列車が3往復で、深川駅と朱鞠内駅・名寄駅と朱鞠内駅を結ぶ区間運転の列車が1往復設定されていた[4]。戦後になると1往復が減便となり、全線で3往復となっていた[4]

1955年(昭和30年)8月にはレールバスが導入され、全線を直通する列車は4往復となり[注釈 9]、これに加えて区間運転の列車が下り5本・上り7本設定された[注釈 9]。翌1956年(昭和31年)11月には区間運転の列車が10往復に増発された[4]。その後、気動車列車に使用する車両はキハ05形に変更され[9]、1966年(昭和41年)4月19日まで使用された[40]

1962年(昭和37年)7月のダイヤ改正からは、朱鞠内駅を境界として運行系統が分断されるようになった[41]。これは、深名線の沿線が北海道でも有数の豪雪地帯であり、列車のダイヤが乱れても影響を少なくするための方策であった[42]。運行本数がもっとも多かったのはこの時期で[41]、深川駅からは朱鞠内駅までの列車が6往復と鷹泊駅までの列車が上り3本・下り1本[41]、名寄駅からは朱鞠内駅までの列車が5往復と天塩弥生駅までの列車が2往復設定されていた[41]

しかし、利用者の減少などに伴い、1980年(昭和55年)10月のダイヤ改正では、深川駅からは朱鞠内駅までの列車が5往復と鷹泊駅までの列車が上り2本・下り1本[41]、名寄駅からは朱鞠内駅までの列車が4往復に減便された[41]。その後さらに減便され、分割民営化直後の時点では深川駅から幌加内駅までが5往復、幌加内駅から朱鞠内駅までは4往復(列車自体は深川駅から直通)、朱鞠内駅から名寄駅までは3往復となった[26]

国鉄分割民営化後、他の道内の路線(札幌近郊の路線を除く)では普通列車や快速列車[注釈 10]において車掌省略のワンマン運転を順次開始していたが、前述したように、深名線についてはワンマン化されることなく営業最終日まで全列車車掌が乗務していた。このため深名線内各駅でのワンマン化対応工事も他の路線が発着する起点、終点の深川駅、名寄駅構内を除き行われなかった。

利用状況

1955年以降国鉄時代の輸送人員・輸送密度の推移は以下の通りである。

年度 輸送人員 輸送密度 幌加内町の人口 出典
旅客数(千人) 貨物量(千トン) 旅客(人/日) 貨物(トン/日) (人)
1955 1,131 125 548 112 12,107 [9]
人口については[2]
1960 1,407 121 662 125 12,016
1965 1,592 94 787 94 9,195
1970 870 53 457 53 7,283
1975 572 21 321 15 4,365
1976 555 14 307 10  
1977 488 14 273 8  
1978 452 17 252 11  
1979 435 15 245 9  
1980 391 13 222 8 3,739
1985   貨物輸送なし 123 貨物輸送なし   [43]
1986   貨物輸送なし 113 貨物輸送なし  

使用車両

 
朱鞠内駅で交換する列車(1994年8月31日)

1941年から1949年にかけては朱鞠内駅構内に朱鞠内機関支区が設けられ、C11形蒸気機関車が6両配置されていた[4]。その後は8620形9600形などの蒸気機関車が列車の牽引を行っており[4]、1970年代まで9600形の牽引する混合列車が残っていた[9]

1955年8月からはキハ10000形レールバスの寒地仕様車(後のキハ01形・キハ02形)が導入され[4]、フリークエンシーの向上が図られた[4]が、時間帯によっては輸送需要に応じきれず[9]、1958年にはキハ05形に置き換えられ[9]、1966年4月19日まで使用された[40]。キハ05形では客室内の片隅にベニヤ板で囲われた簡易便所の設置も行われていた[9]

1966年以降は北海道向けに製造されたキハ21形・キハ22形が運用されるようになり、概ね1両から3両で運用されていた[41]。運行形態の節で述べたように、この時期は朱鞠内駅を境にして運行系統は分断されており、深川駅から朱鞠内駅までは深川機関区、名寄駅から朱鞠内駅までは名寄機関区の気動車が運用されていた[41]

1986年以降は旭川運転所の(キハ53形500番台)が運用されるようになった[26]が、この車両は駆動用エンジンを2基装備した車両であり、冬季でもキハ53形による単行運転が主体となった[26]キハ54形や、駆動用エンジンが1基のキハ40形も運用されることがあった[3]

廃線後の状況

代替バス

沿革節で述べたとおり、代替バスの運行はJR北海道自身が行うことになり[34]、この代替バス運行にあわせて、JR北海道では深川自動車営業所を新設した[34]。運行当初の便数は、深川駅から幌加内までが10往復、幌加内から朱鞠内までが8往復、朱鞠内から名寄駅までが6往復で[34]、鉄道時代に比べて倍増した上、鉄道時代末期の約10年間ほど不可能となっていた母子里から幌加内までの日帰り往復も再度可能となった[24]

深名線沿線にはほとんど既存のバス路線もなかったことから、代替バスの運賃は北空知バスの賃率を基本に設定された[34]。運行開始時点では深川駅から名寄駅までは遠距離逓減制度を導入して鉄道時代と同額の2,160円となった[34]が、深川駅から幌加内までの運賃は990円と、鉄道時代と比較して2割ほど運賃が高くなった[34]。ただし、北空知バスの賃率自体は北海道内でも比較的低いほうであった[34]こともあり、値上がり幅は他のバス転換路線と比較するとさほど大きいものではなかった[34]

廃線跡

 
第3雨竜川橋梁(2011年8月)

田畑や道路用地に転用された一部の区間を除き、2021年現在でも築堤や線路跡が残されている箇所が、多々存在している。

幌加内駅の駅舎は鉄道廃止後もバス待合室として利用されていた[44]が、不審火により焼失し[45]、その後国道上の幌加内交流プラザにバス停留所が設置された[45]。2006年時点では、政和駅の駅舎がそば屋の店舗として使用されている[46]

雨竜川にかかる第3雨竜川橋梁は保存されることになった[47]が、年間900万円の維持費がかかるという[47]

名羽線

改正鉄道敷設法別表第143号のうち、名雨線(名寄 - 朱鞠内間、43km)として開業した区間を除く朱鞠内 - 羽幌間(51.2km)については、名羽線(めいうせん)として1962年4月に着工された[4]。なお、着工に先立つ1941年12月に羽幌炭礦鉄道羽幌線に接続して開業した築別 - 曙 - 築別炭礦間のうち、築別 - 曙間が予定線に並行しており、残りの朱鞠内 - 曙間(34.7km)が工事区間である。

構想は明治末期からあり、沿線の森林開発や炭鉱開発、道北地方のオホーツク海側と日本海側を結ぶ短絡ルートの構築を目的としていた[48]

当初は羽幌駅に直接向かうルートで計画されていたが、羽幌炭礦鉄道が開業したことに伴い同鉄道を経由するルートに変更され、羽幌線との分岐点は羽幌駅から築別方5.3km地点(築別駅から羽幌方1.4km地点)に新設する天塩汐見信号場が予定されていた[48]

1951年日本炭鉱労働組合が賃上げ要求などを求め全国各地の炭鉱で大規模なストライキが発生し、国内の備蓄石炭がほぼ枯渇する事態に陥ってしまった。国鉄や電力会社などが零細鉱の石炭まで確保しようとしていた頃、全国唯一の組合非加盟大規模鉱として羽幌炭鉱が国鉄救済に名乗りを上げ、フル生産体制で国鉄へ石炭を供給することとなった。同鉱が当時から名羽線の開通を切望していたため、国鉄は恩返しの形で名羽線の早期着工を決定したという背景がある。

工事区間は単線で線路等級は丙線、最急勾配20‰、最小曲線半径500m[49][50]。曙 - 上流間はトンネル2ヶ所[48][51]、上流 - 朱鞠内間は橋梁53ヶ所、トンネル21ヶ所が予定されていた[52][53][48][51][50]

日本鉄道建設公団により工事が進められたが、沿線は豪雪地帯であり、建設工事の可能な季節が限られることや、たびたび予算を削られたことで、思うようには進まなかった。

なお、工事線のうち曙 - 三毛別間については、羽幌炭礦鉄道による石炭輸送のため先行して1962年12月に完成し、羽幌炭礦鉄道が借り受けた上で石炭輸送と工事資材輸送に使用されていたが[4][49]、羽幌炭礦鉄道は羽幌炭鉱の閉山により1970年12月に廃止されたため、この区間の輸送は中止された[4]。1970年時点では、路盤工事が朱鞠内方8.2km間、羽幌方の第2羽幌川橋梁が竣工し、第1二股トンネル、第1二股川橋梁、第2 ‐ 第6二股トンネルが施工中だった[49]

また、羽幌炭鉱の閉山で急速な過疎に落ち込み、名羽線の建設は継続か中止かで揺れ動いた。完成、開業したとしても大幅な赤字は必至の見込みだった。羽幌炭鉱閉山の後に計画された新会社設立構想も立ち消えとなり、石炭産出が期待できなくなるとともに、地域住民が去れば人口も急減することから、名羽線建設の意義は薄れたとみる向きもあった[54]

このような状況に対し、羽幌町では羽幌港の整備とともに、鉄道開業こそ羽幌を立て直す唯一の道として工事継続に力を入れ「名寄、幌加内と一緒に鉄建公団、運輸省に陳情したばかり。楽観は許されないが、これからもいろいろ手を尽くし、なんとか開通にこぎつける」との方針を示した。鉄建公団札幌支社でも「炭鉱がつぶれたからといって、公共性が失われたわけではない」として本社から中止命令がない限り、今まで通り継続する考えを示した。一方、国鉄北海道総局は「国鉄側では新線について、とやかく言う権利はない。しかし、他の線区とも合わせて、必要な線区と不必要な線区をはっきり仕分けする時期にきていると思う。もちろん、赤字だけの問題ではないが、大切な税金を使って利用者や貨物が少ない地域に鉄道をつくり、列車を運転するのは考えるべき問題ではないか」との考えだったが[54]、工事は継続された。

1973年時点では、第7二股トンネル、第2二股川橋梁、第1白地畝トンネル、第1カラセミ沢橋梁が工事のメインだった[55]。1976年時点では、曙 - 朱鞠内間のうち、第8二股トンネル、第7中の二股トンネル、第3白地畝トンネル、第4中の二股川橋梁が施工中で、第1中の二股トンネル、苫竜トンネルなど8km区間を除いて路盤工事がほぼ完了していた。羽幌炭礦鉄道と並行していた羽幌 - 曙間は経過地、路盤などを選定中だった[50]

名羽線が開通すれば、羽幌港の大規模整備が順調に進むことによって、羽幌 - 名寄間は新しい道北の産業動脈となり、1985年頃には年間200万tの貨物が出入りするルートとなることが期待されていたという[55]

しかし、路線両端を除けば沿線人口はほとんど無いため、乗車密度の基準を満たすことは困難で、開業後の推定輸送密度は200人/日に過ぎなかった[56][48]。1978年度は6億5,000万円の予算で、うち3億1,100万円の実施をみたが、残りは他線区に流用された[57]。1979年度は5億2,600万円の実施計画が通知され、中の二股川橋梁施工に1億8,500万円、第1中の二股トンネル施工に2億8,200万円(3年間で完成、総額10億2,200万円)、付帯工事として苫竜トンネルのボーリングおよび測量費用に3,400万円などの決定をみたが[57]、実際の1979年度予算額は3億5,000万円に削減され、工事継続に必要な工事費の配分にとどめられ、建設工事の大幅遅れは確実となった[58]。1980年度は第1中の二股トンネル貫通まであと2年程度を要する状態だった[59]

国鉄再建法の施行により1980年に工事が凍結され、苫竜トンネルや白地畝信号場付近の5km区間は未着工に終わった[48]。事業費は1980年までに78億円が投入された[52]

沿線の産業も衰え、接続する両端の路線が特定地方交通線に指定される(深名線は前述のとおり後に除外)ことを踏まえると開業しても輸送はほとんど見込めない[4]ため、北海道や沿線自治体を含め、引き受ける事業者がなく、完成していた鉄道施設は放置され[26]、深名線の車内からも放置されたトンネルや橋桁を見ることが出来た[26]。その後、一部の高架橋が民間会社のトラック輸送路などに使用されていたが、この会社が事業を停止したため再び放置されることとなった。

名羽線関連年表

  • 1940年(昭和15年)4月:朱鞠内 - 羽幌間現地踏査[52]
  • 1947年(昭和22年)7月:運輸省が予定線実測[52]
  • 1952年(昭和27年)3月22日:関係3町村による名羽線全通促進期成会発足[52][60]
  • 1957年(昭和32年)4月3日:鉄道建設審議会において岩内線や石勝線等と共に調査線に決定[52][60]
  • 1959年(昭和34年)11月9日:鉄道建設審議会において建設線に決定[52][60]
  • 1961年(昭和36年)
    • 4月25日:建設工事着工を決定[52][60][61][62]
    • 6月21日:羽幌にて着工祝賀式典。羽幌側で杭打式[52][63][64]
  • 1962年(昭和37年)
    • 2月15日:曙 - 上流間の工事認可[52]
    • 4月22日:三毛別にて曙 - 上流間(6.8km)建設工事起工式[52][60][65]。当時は1967年(昭和42年)の全線完成予定とされる[65]
    • 12月24日:曙 - 三毛別間(3.8km)工事完了。非営業線として工事資材および石炭のみの輸送開始[52][60]
  • 1963年(昭和38年)
    • 5月24日:三毛別 - 上流間(3.1km)工事着手[52][60]
    • 12月21日:三毛別トンネル(1,024m)貫通[52][66]
  • 1964年(昭和39年)10月4日:朱鞠内側で杭打式[52][60][67]
  • 1966年(昭和41年)
    • 7月18日:朱鞠内 - 上流間の工事認可[52]
    • 7月27日:朱鞠内にて朱鞠内 - 上流間(27.9km)建設起工式[52][68]。当時は1970年(昭和45年)までの全線完成予定とされた[68]
    • 7月29日:朱鞠内側工事着工[52]
    • 12月:三毛別 - 上流間の路盤工事完了[52][51]
  • 1969年(昭和44年):上流側(上羽幌 ‐ 二股界隈)路盤工事着手[51]。12月15日、第2二股トンネル(581m)貫通[51][69]
  • 1970年(昭和45年):未着工区間は上流 − 白地畝付近間のうちの13kmで、これまでに工費18億円を投入。全線開業は当初予定の1975年(昭和50年)よりいくぶん遅れる見通しとされる[54]
  • 1973年(昭和48年):これまでに工費24億9,500万円を投入し、羽幌側12km、朱鞠内側8kmの路盤、橋梁、トンネル工事が完了。羽幌側、朱鞠内側とも工事が進み、未着工区間は羽幌町・幌加内町境界の苫竜トンネル(3,225m)や付近の7.8kmとなる。全線開業は1977年(昭和52年)の見通しとされる[70][71]
  • 1976年(昭和51年):これまでに工費41億円を投入。未着工区間は苫竜トンネルを含む7kmとなり、1980年(昭和55年)頃の全線開業予定とされる[53]。第7中の二股トンネル(300m)、第3白地畝トンネル(410m)が完成[60][51]
  • 1977年(昭和52年):第8二股トンネル(678m)、第2二股川橋梁(94m)が完成[60][51]
  • 1979年(昭和54年):中の二股川橋梁(106m)、第1中の二股トンネル(910m)の施工、苫竜トンネルのボーリングおよび測量で予算が付く[57]。未着工区間は苫竜トンネル、白地畝信号場付近の5km[72]
  • 1980年(昭和55年)12月27日:国鉄経営再建促進特別措置法施行[52]
  • 1981年(昭和56年):トンネル工事等、3億円の予算が通過するものの工事は休止となる[52]
    この時点における工事進捗は[52]
    用地処理 85%
    路盤工事 82%
    軌道工事 14%
    未施工部 橋梁:上架部未設置11橋 、トンネル:未開通「第1中の二股」910m、「苫竜」3,225m。
  • 1982年(昭和57年):日本鉄道建設公団羽幌鉄道建設所が閉鎖[60](1981年12月15日で一時休止[73]
  • 1987年(昭和62年)10月13日:名羽線全通促進期成会解散[52][74][75][76]
  • 1989年(平成元年)4月:用地、橋梁、トンネルを鉄建公団から国鉄清算事業団に引き継ぎ。1993年(平成5年)から幌加内町、羽幌町に払い下げ[51]
  • 1995年(平成7年):三毛別、上流、朱鞠内で橋梁、橋脚の撤去が国鉄清算事業団によって行われる[51]

予定駅一覧

朱鞠内 - 白地畝(信) - 上流 - 三毛別 - 曙 [77][60][51][48]

その他、下朱鞠内、中の二股に信号場が予定されていたという[48]

主要トンネル・橋梁一覧

三毛別トンネル(1,024m)、上羽幌トンネル(66m)、第2羽幌川橋梁(252m)、第3羽幌川橋梁(161m)、第1二股トンネル(315m)、第1二股川橋梁(186m)、第2二股トンネル(581m)、第3二股トンネル(91m)、第4二股トンネル(312m)、第5二股トンネル(239m)、第6二股トンネル(60m)、第2二股川橋梁(94m)、第7二股トンネル(380m)、第8二股トンネル(678m)、中の二股川橋梁(106m)、第1中の二股トンネル(910m)、第4中の二股トンネル、第3中の二股川橋梁(57m)、第5中の二股トンネル(213m)、第4中の二股川橋梁(97m)、第6中の二股トンネル(94m)、第7中の二股トンネル(300m)、中の二股陸橋(66m)、第1カラセミ沢橋梁(112m)、第1白地畝トンネル(96m)、第2カラセミ沢橋梁(66m)、第2白地畝トンネル(74m)、第4カラセミ沢橋梁(89m)、第3白地畝トンネル(410m)、苫竜トンネル(3,225m)、第4朱鞠内トンネル(59m)、第5朱鞠内川橋梁(57m)、第4朱鞠内川橋梁(94m)、第3朱鞠内川橋梁(57m)、第2朱鞠内川橋梁(60m)、第3朱鞠内トンネル(33m)、石油沢橋梁(48m)、第2朱鞠内トンネル(88m)、第1朱鞠内川橋梁(106m)、第1朱鞠内トンネル(87m)、第2名羽雨竜川橋梁(77m)、第1名羽雨竜川橋梁(97m)[51][48]

データ

路線データ(廃止時)

  • 管轄(事業種別):北海道旅客鉄道((第一種鉄道事業者))
  • 区間(営業キロ):深川駅 - 幌加内駅 - 名寄駅 121.8 km
  • 駅数:21(起終点駅を含む)
  • 軌間:1,067 mm狭軌
  • 複線区間:なし(全線単線
  • 電化区間:なし(全線非電化
  • 閉塞方式:(タブレット閉塞式)(末期の朱鞠内駅 - 名寄駅間は(票券閉塞式))
    交換可能駅:2(幌加内、朱鞠内)

駅一覧

  • 全駅北海道に所在。
  • 線路(全線単線) … ◇・∨:列車交換可能、|:列車交換不可
駅名 駅間
営業キロ
累計
営業キロ
接続路線・備考 線路 所在地
深川駅 - 0.0 北海道旅客鉄道:函館本線留萌本線 空知管内 深川市
円山駅 4.7 4.7  
上多度志駅 6.1 10.8  
多度志駅 3.2 14.0  
宇摩駅 5.4 19.4  
幌成駅 2.9 22.3  
下幌成駅 1.8 24.1  
鷹泊駅 3.2 27.3  
沼牛駅 10.6 37.9   雨竜郡
幌加内町
新成生駅 2.0 39.9  
幌加内駅 3.8 43.7  
上幌加内駅 3.1 46.8  
(臨)雨煙別駅[注釈 11] 4.3 51.1 1990年3月10日廃止
(臨)政和温泉駅[注釈 11] 5.1 56.2 1990年3月10日廃止
政和駅 2.5 58.7  
新富駅 5.5 64.2 1990年9月1日廃止
添牛内駅 4.4 68.6  
大曲仮乗降場 3.6 72.2 1976年2月1日廃止
共栄駅 3.3 75.5  
朱鞠内駅 3.3 78.8  
湖畔駅 1.9 80.7  
宇津内仮乗降場 4.3 85.0 廃止年月日不明(1956年11月19日以降)
(臨)蕗ノ台駅[注釈 12] 4.5 89.5 1990年3月10日廃止
(臨)白樺駅[注釈 12] 4.1 93.6 1990年3月10日廃止
北母子里駅 5.4 99.0  
天塩弥生駅 15.6 114.6   上川管内 名寄市
西名寄駅 3.2 117.8  
名寄駅 4.0 121.8 北海道旅客鉄道:宗谷本線名寄本線(1989年5月1日廃止)

脚注

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注釈

  1. ^ 第一次世界大戦の影響で着工は1922年(大正11年)となった。この経緯は『鉄路の残響 深名線・71年の記録』(制作:北海道映像記録)に詳しい。
  2. ^ 1959年(昭和34年)に町制施行[2]
  3. ^ 100円の収入を得るための支出額で営業成績を表したもの。
  4. ^ 北海道中央バスから1990年に北海道中央バス100%出資の子会社として分社化されたバス事業者[28]
  5. ^ 深川市・幌加内町・名寄市・上川郡風連町(現・名寄市風連町)。駅などの施設は設けられていなかったが、北母子里 - 天塩弥生間で風連町域を約4.5 km通っていた[29]
  6. ^ この当時は、バス事業はJR北海道直営で行われており、分社化されたのは2000年4月1日からである[30]
  7. ^ これらの駅は冬季休業中に廃止されたため、営業最終日は1989年11月30日
  8. ^ 旅客列車と貨物列車を1つの列車にまとめた運行形態。
  9. ^ a b 全線直通列車と区間運転列車のうち、各1往復は機関車牽引の混合列車であった。
  10. ^ 臨時のSL列車やトロッコ列車等のイベント列車、当時運転されていた快速「海峡」などのような指定席連結列車を除く。
  11. ^ a b 毎年12月1日 - 4月20日の間は全列車通過していた。
  12. ^ a b 毎年12月1日 - 4月30日(1987年(昭和62年)までは4月20日)の間は全列車通過していた[26]

出典

  1. ^ a b c 『北海道鉄道百年史 中巻』 134頁
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『鉄道ジャーナル』通巻183号 125頁
  3. ^ a b c d e f g h i 『鉄道ジャーナル』通巻330号 75頁
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad 『鉄道ジャーナル』通巻183号 126頁
  5. ^ a b c d 『北海道鉄道百年史 中巻』 131頁
  6. ^ a b c 『北海道鉄道百年史 中巻』 132頁
  7. ^ a b 『北海道鉄道百年史 中巻』 133頁
  8. ^ 『北海道鉄道百年史 中巻』 135頁
  9. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『鉄道ジャーナル』通巻183号 127頁
  10. ^ a b c d e 『鉄道ジャーナル』通巻330号 76頁
  11. ^ 『鉄道ジャーナル』通巻291号 143頁
  12. ^ 『鉄道ジャーナル』通巻183号 129頁
  13. ^ 『鉄道No.1全百科』 104頁
  14. ^ a b 『鉄道ジャーナル』通巻183号 130頁
  15. ^ a b c d e f 『鉄道ジャーナル』通巻330号 73頁
  16. ^ a b 『鉄道ジャーナル』通巻251号 85頁
  17. ^ a b 「深名線が赤字全国一 豪雨被害が尾を引く」『名寄新聞』、1982年8月29日。
  18. ^ 「国鉄昭和60年度決算 ワースト1は深名線 10位までに道内5線」『北海道新聞』、1986年8月28日、朝刊。
  19. ^ 『鉄道ジャーナル』通巻248号 107頁
  20. ^ 『鉄道ジャーナル』通巻248号 108頁
  21. ^ a b 『鉄道ジャーナル』通巻251号 86頁
  22. ^ a b 『鉄道ジャーナル』通巻330号 77頁
  23. ^ a b 『鉄道ジャーナル』別冊第29号 14頁
  24. ^ a b c d e f g h i 『鉄道ジャーナル』通巻350号 89頁
  25. ^ a b 『鉄道ジャーナル』通巻341号 88頁
  26. ^ a b c d e f g 『鉄道ジャーナル』通巻251号 87頁
  27. ^ 『新幌加内町史』 622頁
  28. ^ 『鉄道ジャーナル』通巻288号 156頁
  29. ^ 『新幌加内町史』 601頁
  30. ^ 『ジェイ・アール北海道バス』 26頁
  31. ^ a b 『鉄道ジャーナル』通巻346号 90頁
  32. ^ a b c d e 『鉄道ジャーナル』通巻349号 89頁
  33. ^ a b 「深名線71年の歴史に幕 さよなら列車は超満員 名寄駅でお別れ式 新たにJRバス出発」『名寄新聞』、1995年9月5日。
  34. ^ a b c d e f g h i 『鉄道ジャーナル』通巻350号 87頁
  35. ^ a b c d e f g h i j k l 『写真で見る北海道の鉄道』 上巻 国鉄・JR線 252-253頁
  36. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『写真で見る北海道の鉄道』 上巻 国鉄・JR線 318頁
  37. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 『写真で見る北海道の鉄道』 上巻 国鉄・JR線 319頁
  38. ^ 『幌加内町史』 713-714頁
  39. ^ 『Rail Magazine 日本の蒸気機関車』1994年1月号増刊
  40. ^ a b “旧型気動車にお別れ”. 広報ほろかない 1966年5月号. (1966‐05‐01) 
  41. ^ a b c d e f g h 『鉄道ジャーナル』通巻183号 128頁
  42. ^ 『国鉄駅名全百科』 50頁
  43. ^ 『鉄道ジャーナル』通巻286号 49頁
  44. ^ 『鉄道ジャーナル』通巻350号 88頁
  45. ^ a b 『バスで旅を創る! 路線・車両・絶景ポイントを徹底ガイド』 107頁
  46. ^ 『バスで旅を創る! 路線・車両・絶景ポイントを徹底ガイド』 105頁
  47. ^ a b 『バスで旅を創る! 路線・車両・絶景ポイントを徹底ガイド』 106頁
  48. ^ a b c d e f g h i 草町義和 (2016). “幻の鉄路をたどる(9)名羽線”. 鉄道ジャーナル 2016年1月号: 124-131頁. 
  49. ^ a b c 『新線建設の概要』日本鉄道建設公団、1970年。 
  50. ^ a b c 『名羽線』日本鉄道建設公団札幌支社、1976年。 
  51. ^ a b c d e f g h i j k 『鉄道未成線を歩く 国鉄編』JTB、2002年6月1日、4-19頁。 
  52. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 『新幌加内町史』 607-616頁
  53. ^ a b 『広報はぼろ』羽幌町、1976年11月、2頁。 
  54. ^ a b c “揺れ動く名羽線工事 羽幌炭砿閉山で赤字必至 国鉄、気乗り薄 地元、完成へ陳情攻勢”. 北海道新聞. (1970年11月13日) 
  55. ^ a b 「難工事の名羽線進む 路床の85%が完工 残るは長いずい道3キロ」『北海道新聞』、1973年11月6日、朝刊、留萌・宗谷版。
  56. ^ 『日本鉄道建設公団三十年史』日本鉄道建設公団、1994年。 
  57. ^ a b c 『広報はぼろ』羽幌町、1979年4月、2頁。 
  58. ^ 「美幸線は昭和57年度に開業 地方線事業費を配分 鉄建公団 地元の負担が前提 輸送密度、着工度で4ランク分類」『北海道新聞』、1979年7月7日、朝刊。
  59. ^ 『広報はぼろ』羽幌町、1980年10月、5頁。 
  60. ^ a b c d e f g h i j k l 『新羽幌町史』羽幌町、2001年2月、875-878頁。 
  61. ^ “名羽線 着工本決り 初年度一億円で”. 名寄新聞. (1961年4月26日) 
  62. ^ 『広報はぼろ』羽幌町、1961年6月10日。 
  63. ^ “名羽線着工 道北開発に布石 きょう羽幌で祝賀式”. 名寄新聞. (1961年6月21日) 
  64. ^ 『広報はぼろ』羽幌町、1961年7月10日。 
  65. ^ a b 『広報はぼろ』羽幌町、1962年6月1日。 
  66. ^ 『広報はぼろ』羽幌町、1964年1月15日。 
  67. ^ “名羽線朱鞠内 厳しゅくにクイ打ち「早期全通」を約束 太田公団総裁ら”. 名寄新聞. (1964年10月6日) 
  68. ^ a b “名羽線 喜びの起工 関係者が現地でクワ入れ”. 名寄新聞. (1966年7月29日) 
  69. ^ 『広報はぼろ』羽幌町、1970年1月、8頁。 
  70. ^ “52年全通へ明るい見通し 残るは7.8キロ間 名羽線急ピッチの建設工事”. 名寄新聞. (1973年11月4日) 
  71. ^ 『広報はぼろ』羽幌町、1973年11月、1頁。 
  72. ^ “さらに強力運動へ 名羽線全通促進期成会”. 名寄新聞. (1979年8月10日) 
  73. ^ 『広報はぼろ』羽幌町、1982年2月、4頁。 
  74. ^ 「羽幌線も炭鉱も失い… 名羽線全通の夢消える 明治末から運動 期成会あす解散」『北海道新聞』、1987年10月12日、朝刊。
  75. ^ 「名羽線期成会が解散」『北海道新聞』、1987年10月14日、朝刊。
  76. ^ 「悲願半ばで期成会解散 名寄は運動精神今後も 名羽線問題懇話会 関係者集め理解求める」『名寄新聞』、1987年10月13日。
  77. ^ 『日本鉄道旅行地図帳』 13頁

新聞記事

  1. ^ “緊急リポート 深名線廃止 上 経営“息切れ”JR決断 安定基金 低金利で運用益出ず 並行の国・道道整備も一因”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (1993年12月6日) 
  2. ^ a b c “深名線 もう乗れない… 54年間の歴史に幕”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (1995年9月4日) 
  3. ^ 深名線、来年度に廃止 道内最大の赤字線 JR北海道が方針(1993年12月15日)
  4. ^ a b “深名線代替バス同乗ルポ 乗客の評価まちまち 思ったほど揺れず「鉄道より座席が狭い」”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (1995年9月5日) 
  5. ^ “深名線新富駅廃止”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (1990年9月14日) 

参考文献

書籍

  • 高浜博隆、鉄道友の会東京支部『国鉄駅名全百科』小学館〈コロタン文庫 36〉、1979年8月31日。ISBN (978-4-09-281036-5)。(ISBN 4-09-281036-9)。 
  • 吉川文夫・鉄道友の会東京支部『鉄道No.1全百科』小学館〈コロタン文庫 57〉、1981年6月。ISBN (978-4-09-281057-0)。(ISBN 4-09-281057-1)。 
  • 石野哲(編集長)『停車場変遷大事典 国鉄・JR編』JTBパブリッシング、1998年9月19日。ISBN (978-4-533-02980-6)。(ISBN 4-533-02980-9)。 
  • (田中和夫(監修))『写真で見る北海道の鉄道』 上巻 国鉄・JR線、北海道新聞社(編集)、2002年7月15日、248-253,311-319頁。ISBN (978-4-89453-220-5)。(ISBN 4-89453-220-4)。 
  • 加藤佳一『バスで旅を創る! 路線・車両・絶景ポイントを徹底ガイド』講談社〈講談社+α新書 299-1D〉、2006年5月20日。ISBN (978-4-06-272379-4)。(ISBN 4-06-272379-4)。 
  • 今尾恵介(監修)日本鉄道旅行地図帳―全線・全駅・全廃線―』 1号・北海道、新潮社〈新潮「旅」ムック〉、2008年5月17日。ISBN (978-4-10-790019-7)。(ISBN 4-10-790019-3)。 
  • 『ジェイ・アール北海道バス』BJエディターズ〈バスジャパン・ハンドブックシリーズR 78〉、2012年9月1日。ISBN (978-4-434-16986-1)。(ISBN 4-434-16986-6)。 
  • 幌加内町史編纂委員会『幌加内町史』幌加内町、1971年9月1日、713-714頁。 
  • 新幌加内町史編纂委員会『新幌加内町史』幌加内町、2008年3月31日、601-616頁。 
  • 日本国有鉄道北海道総局『北海道鉄道百年史』 中巻、鉄道弘済会北海道支部、1980年10月31日、131-135頁。 

雑誌記事

  • 青木栄一「特定地方交通線の実態と問題を現地に見る 10 深名線」『鉄道ジャーナル』第183号、成美堂出版(鉄道ジャーナル社)、1982年5月、122-131頁。 
  • 鈴木文彦「ローカル線と地域社会」『鉄道ジャーナル』第248号、成美堂出版(鉄道ジャーナル社)、1987年7月、107-113頁。 
  • 鈴木文彦「北の原野の細道をゆく」『鉄道ジャーナル』第251号、成美堂出版(鉄道ジャーナル社)、1987年9月、80-95頁。 
  • 青木栄一「ローカル線の現状と諸問題」『鉄道ジャーナル』第286号、成美堂出版(鉄道ジャーナル社)、1990年8月、44-50頁。 
  • 日本バス友の会「Bus Corner」『鉄道ジャーナル』第288号、成美堂出版(鉄道ジャーナル社)、1990年10月、156-158頁。 
  • 鈴木文彦、青木栄一「昭和鉄道史 11.躍進期」『鉄道ジャーナル』第291号、成美堂出版(鉄道ジャーナル社)、1991年1月、138-146頁。 
  • 鈴木文彦「存亡の淵に立つ深名線」『鉄道ジャーナル』第330号、成美堂出版(鉄道ジャーナル社)、1994年4月、68-77頁。 
  • 「RAILWAY TOPICS」『鉄道ジャーナル』第341号、成美堂出版(鉄道ジャーナル社)、1995年3月、86-95頁。 
  • 「RAILWAY TOPICS」『鉄道ジャーナル』第346号、成美堂出版(鉄道ジャーナル社)、1995年3月、90-97頁。 
  • 「RAILWAY TOPICS」『鉄道ジャーナル』第349号、成美堂出版(鉄道ジャーナル社)、1995年11月、86-95頁。 
  • 鈴木文彦「深名線転換バス 発進!」『鉄道ジャーナル』第350号、成美堂出版(鉄道ジャーナル社)、1995年12月、87-89頁。 
  • 北條敦「北の道に息づく鉄輪の響き」『鉄道ジャーナル別冊 ローカル線各駅停車』第29号、成美堂出版(鉄道ジャーナル社)、1994年12月、10-16頁。 
  • 「国鉄蒸気線区別最終運転日一覧」『Rail Magazine 日本の蒸気機関車』第11巻第2号(1994年1月号増刊)、ネコ・パブリッシング、1994年1月。 

関連項目

外部リンク


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