羽幌炭鉱(羽幌炭砿[1]、はぼろたんこう)は、北海道北西部留萌炭田の中心的炭鉱。1935年操業開始。羽幌坑(本坑)、上羽幌坑、築別坑の3地区から成っていた[1]。良質炭を産出することで知られ、大変人気があった。1970年(昭和45年)閉山[1]。
歴史
炭鉱開発
鉱脈は明治時代には存在が知られていたが、輸送手段がなく、炭鉱開発は昭和に入って本格化した[1]。
往時の町の賑わい
主鉱は築別鉱と上羽幌鉱で、共に羽幌炭礦鉄道が通っており、駅前の商店街には居酒屋、パチンコ店、病院、映画館、50mプールなどがあり大変な賑わいを見せていた。炭鉱も関連会社を通じ、百貨店や炭鉱病院・ガソリンスタンドなどを経営していた[2]。
閉山
1970年(昭和45年)12月にたて坑の密閉作業や[3]、鉄道の廃止[4]、閉山式を行って完全に閉山した[5]。
特に羽幌本坑には、中国の龍鳳炭鉱(撫順市)、福岡県の志免鉱業所の流れを汲む、ワインディング・タワー(塔櫓捲式)と呼ばれるタイプの櫓が現存している。
閉山時の事情・状況については(羽幌炭礦鉄道)に詳しいので参照のこと。
当時の炭鉱地区には、採炭施設や火力発電所、炭鉱住居跡、消防署、診療所、小学校校舎などの遺構が残る[1]。
2018年3月、豪雪により太陽小学校の体育館の屋根が倒壊していることが、炭鉱巡りをしていた会社員により確認されている[6]。
所在地
交通
企業活動
実業団
会社としての羽幌炭鉱は、その業績もさることながら実業団活動に力を入れ、野球部、男女バレー部、スキー部ジャンプチームは国内トップクラスの実力を誇った。
スキー部
笠谷昌生などが活躍。また昌生の弟笠谷幸生も練習に帯同していた。
他に大内勝蔵(1963年全日本選抜スキー大会70メートル級準優勝)、大森享一、菅野弘二、菊地英一(1963年冬季国体青年の部飛躍5位、同年全日本スキー選手権60メートル級5位)、岸本光夫、竹内賢司、松井孝(1960年スコーバレーオリンピックスキージャンプ代表)佐藤義勝(第41回全日本スキー選手権50キロ優勝)といった選手が所属していた。 また、当時日本では大倉シャンツェに次ぐ規模を持ったジャンプ台も抱え、スキー部の練習はもちろん、大会も行われていた。また、町内にある高校スキー部に与えた影響も大きいことは見逃してはいけない。例えば羽幌高校の沢田久喜、羽幌太陽高校の吉岡世一などがいる。因みに、羽幌炭鉱の閉山に伴い、高校のスキー部は廃部になった。
野球部
都市対抗野球大会に1959年と1963年の2回出場、日本産業対抗野球大会に1962年から64年にかけて3回連続出場した。ドラフト指名選手も2名所属した。
男子バレー部
全日本バレーボール選抜男女リーグ1部に所属した。
女子バレー部
地域リーグで常に優勝を争っていた。
男子卓球部
日本卓球リーグ2部に所属していた。
関連会社
以下の会社も、羽幌炭鉱を設立母体としていた。
脚注
外部リンク
- 羽幌町の炭鉱跡[]
- ふるさと羽幌炭鉱 - 羽幌カラー現像所
- 羽幌本坑立坑櫓
- 大きな街があった羽幌炭砿(羽幌炭鉱) - 北海道の産業遺産?遺跡?
- 北海道(羽幌) - 鈴木商店記念館
- 羽幌炭鉱担当MAP - 羽幌町