» www.Giftbox.Az - Bir birindən gözəl hədiyyə satışı
ウィキペディアランダム
毎日カテゴリ
共有: WhatsappFacebookTwitterVK

三菱・デボネア

デボネアDebonair)は、三菱自動車工業(当初は三菱重工業)が1964年から1999年まで製造していた高級乗用車である。

概要

3世代に渡って製造された、2L~3.5Lクラスの4ドアセダンであり、競合モデルとしては初代はトヨタ・クラウン日産・セドリック日産・グロリアいすゞ・ベレル、2代目は更にマツダ・ルーチェホンダ・レジェンドなど、3代目はトヨタ・セルシオ日産・インフィニティQ45なども一部範疇に入る。初代は規格一杯の車体から、また2代目・3代目は前輪駆動を採用したことから、車内はいずれも広く実用的であったが、売れ行きは常に芳しくなく、最後まで三菱グループ重役向け専用車[1]としてのショーファードリヴン[2]需要に支えられる存在であった。また、他社同級製品のようなクーペやワゴン、バンなどの派生型は、通常の正規販売モデルでは歴代車種を通じ一切開発されなかった。

初代(1964年-1986年)A30/31/32/33型

三菱・デボネア(初代)
A30/31/32/33型
 
1970年改良型 エグゼクティブ
(フェンダーミラーはノンオリジナル)
 
1973年改良型 エグゼクティブ
 
1976年改良型 エグゼクティブSE
概要
製造国   日本
販売期間 1964年 - 1986年
デザイナー (ハンス・S・ブレッツナー)
ボディ
乗車定員 6人
ボディタイプ 4ドア セダン
駆動方式 FR
(パワートレイン)
エンジン KE64型 1,991cc 直6 OHV
6G34型 1,994cc 直6 SOHC
G54B型 2,555cc 直4 SOHC
サスペンション
前:独立 ダブルウィッシュボーン コイル
後:固定 半楕円リーフ
車両寸法
ホイールベース 2,735mm
全長 4,670mm
全幅 1,690mm
全高 1,465mm
車両重量 1,330kg
その他
生産台数 2万1703台
(テンプレートを表示)

1963年(昭和38年)のモーターショーでデビューし[3]1964年(昭和39年)に製造開始。以後、1986年のモデルチェンジまでの22年間、基本設計・デザインの変更無しに生産され続けたことから、製造期間の後期以降は古色蒼然とした現行モデルであることを形容した「走るシーラカンス」という通称で有名になった。日本製の自家用(白ナンバー)向けセダン乗用車でこれを上回るほど長期間製造された例は、トヨタ・センチュリーの初代モデル(1967年 - 1997年)のみである[4]

1960年代初頭、三菱重工業(当時)は国内競合メーカーの2,000cc級乗用車に比肩するクラスの乗用車生産を目論んでいた。当初は欧州車の導入も検討され、イタリアフィアットに高性能で知られた最新型セダン「フィアット・1800/2100」シリーズのライセンス生産も打診したが、不調に終わっていた。

このため三菱では自社開発に方針を切り替えた。構造はモノコックボディに前輪ウィッシュボーン独立、後輪半楕円リーフリジッドで後輪駆動という、平凡だが手堅いレイアウトとし、全長・全幅とも道路運送車両法施行規則の小型車規格ぎりぎりのサイズで設計された。また、三菱重工業の企業パンフレット[5]では「回転半径5.3mの機動性も随一で,国情にマッチした使いやすさで他の追随を許しません」と説明されており、取り回しの良さも重視した設計であったことが伺われる。

スタイリングは、元ゼネラルモーターズのデザイナーであるハンス・S・ブレッツナーが担当した。1960年代のアメリカ製大型乗用車のデザインをモチーフとし、ボンネット・テール部分の両脇にエッジを立てフロントグリルを広く取った押し出しの強いスタイルは、その雰囲気から見た目こそかなりの大型に見えるが、日本では小型車扱いの5ナンバー規格に収まるサイズである[6]

歴史
  • 1964年昭和39年) - 製造開始
  • 1965年昭和40年
  • 1967年昭和42年
    • 12月 - 一部変更でインパネを衝撃吸収タイプに変更される[7]
  • 1969年昭和44年
    • 4月 - 仕様変更でフロントディスクブレーキを標準装備すると同時にホイールを14インチ化。テールエンドのフィニッシャー(いわゆるロケットテール)の廃止。
  • 1970年昭和45年
    • 9月 - マイナーチェンジと同時に搭載エンジンの変更で型式をA31に変更。「デボネア・エグゼクティブ」となる。当初の直列6気筒のKE64型1,991ccOHVから、新開発の6G34直列6気筒1,994ccSOHC(サターン6エンジン)に変更され、130馬力にパワーアップした。これらは少ない生産量によるコストの制約から、既存の4気筒エンジン[8]の気筒数を2気筒増やした設計とし、4気筒エンジンの生産設備を利用して、熟練工の技術で限定生産されたものである。
  • 1973年昭和48年
    • 10月 - 大幅なマイナーチェンジで後期形へ移行。フロントドアの三角窓の廃止、テールランプデザイン変更(Lテール廃止)、フロントウインカー位置の変更。
  • 1976年昭和51年
    • 6月 - 再度のマイナーチェンジで「デボネア・エグゼクティブSE」(C-A32)となり、エンジンが2.6Lになり3ナンバーとなる。ラジアルタイヤ、および電動リモコン式タルボ型フェンダーミラーなどを標準装備すると同時にオプションのエアコンはトランク組み込みタイプのクーラーからヒーター組み込み型になる。マニュアルトランスミッション車は廃止。オイルショック後のコスト削減と排ガス規制で、条件の厳しい在来型6気筒エンジン(6G34・1,994ccSOHC)の生産をやめ[9]、量産車用のバランサーシャフトサイレントシャフト)付き直列4気筒SOHCを限界一杯まで排気量拡大した昭和51年排出ガス規制適合の(G54B型)2,555cc・120馬力エンジンに換装されている[10]。このエンジンは一般には2,600ccと称し、以後最後までこの大排気量4気筒のまま生産された。
  • 1978年昭和53年
    • 4月 - 昭和53年排出ガス規制適合で型式がE-A33になる。
  • 1979年昭和54年
    • 6月 - 一部変更で昭和54年騒音規制適合となる。外観はカラーリングのみの変更であったが、内装はシート形状が変更され、シート地もジャガードからベロアに変更。後席でも操作可能の後席ラジオコントロール機能を備えた電子チューナーラジオを採用。ABSに相当するアンチスキッドブレーキという安全装置がメーカーオプション設定された。
  • 1982年昭和57年
    • 11月 - 一部変更でフロントグリルのエンブレムを「2600」から「MMC」に変更と同時にトランクリッドの「MCA-JET」エンブレム廃止。

変速機はコラムシフトのマニュアルトランスミッションのほか、3速ATも用意された。最終期の2,600cc直4エンジン車はATのみの設定。AT本体はアメリカ合衆国の大手変速機メーカー、ボルグ・ワーナーのロングセラー製品である「(BW-35)」型3速ATが、初期型から最終型まで一貫して用いられた。

三菱自動車のフラッグシップであったことから、三菱グループの各企業で重役専用車として多用される一方、6気筒エンジンしかなかったため、競合他車のトヨペット・クラウン日産・セドリックプリンス・グロリアなどに比べ割高感があったこと(発売当初は、競合他車の上級グレードに相当するモノグレードのみ。翌5月、パワー仕様という更に上級のグレードをいち早く導入)、また、そのことから当時は割と重視されていたタクシー需要も見込まれず、販売拠点の整備も遅れていたため、シェア争いに敗退する。また、そのイメージを嫌った企業(特に、非三菱系列の大企業関係者)に敬遠された。更に、70年代に入ると、基本設計もデザインも徐々に古臭さが目立つようになり、結果として、一般ユーザーにはほとんど売れなかったのが実情であった。

しかし古き良き時代のアメリカ車風の雰囲気を保ちつつ1980年代半ばまで生産されていたことが、後には逆に独特の希少性を産むことになった(初代デボネアより長い27年間継続生産されていた日産のY31型セドリックでも類似のケースが見られた)。モデル末期にはブライダル用として人気が高まり、特装車として後席左側屋根が開くブライダル仕様が作られるほどであった。三菱水島製作所の改造により、後期形ベースでオープンボディとしたパレードカー仕様も製作されている[11]

生産終了後になってからの近年、古い自動車の中では程度の良い個体が手に入りやすく、生産期間中の不人気車ぶりとはうって変わって、旧車好きの間で人気が高まった。ローダウンや派手な塗装を施すなど、アメリカ風にアレンジする改造ベースにもなっている。このため、2000年代以降は、程度の良い個体(新車時からフルノーマル仕様)、ないし1973年までのフロントドアの三角窓&リヤのLテール(テールランプ)仕様は高価で取引されている。さらに初期のA30型(KE64型OHV搭載)は極端に流通台数が少ない希少モデルであったため、漫画『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の作中[12]では「動く60年代の生き証人、現代の反逆児」「(運転者及び所有者は)どんな思想を持ってるやつか知れん」「大手町以外では走ってないと思っていた」と揶揄される場面があった。

なお、法人需要が多かった関係から、現存する個体は黒塗りが多い。

2代目(1986年-1992年)S11/12A型

三菱・デボネアV(2代目)
S11/12A型
 
前期型(2,000ccモデル)
 
 
後期型 ロイヤル
概要
製造国   日本
販売期間 1986年8月 - 1992年
設計統括 (垣下錦一)
デザイナー (アルド・セッサーノ)
ボディ
乗車定員 5-6人
ボディタイプ 4ドア セダン
駆動方式 FF
(パワートレイン)
エンジン 6G71型 1,998L V6 SOHC
6G72型 2,972L V6 SOHC
6G72型 2,972L V6 DOHC
変速機 コラム4AT/フロア4AT
サスペンション
前:ストラット式
後:3リンク式
車両寸法
ホイールベース 2,735mm
全長 4,690-4,865mm
全幅 1,695-1,725mm
全高 1,425-1,460mm
車両重量 1,400-1,620kg
その他
生産台数 2万8007台
(テンプレートを表示)

1986年8月、初代モデルの登場から実に22年ぶりにモデルチェンジが行われた。この2代目モデルのみ「デボネアV」の名称となるが、「V」には後述するV6エンジンや「VIP」など様々な意味が込められている。

開発担当責任者の垣下プロジェクトマネージャーによれば、初代デボネアの後継車を作るプロジェクトは、発売の10年ぐらい前から計画しては頓挫という繰り返しだった。当初は初代と同様にFRとして企画されていたが、これがギャランΣと同様のFFに変更されたのは5年ほど前であった。そのため、エンジンは横置きV型6気筒しか選択がなく、プロトタイプのV型6気筒エンジンが台上で回っていた最中、タイムリーにクライスラーから打診が入り、結果的に他社との競合の末に年間45万台をクライスラーへ供給するという大規模な契約ができた。これが、デボネアVが世に出る一番のきっかけとなった。

もうひとつのきっかけは、当時三菱と提携関係にあった現代自動車(ヒョンデ)の「1988年のソウルオリンピックまでに、自国製の高級車(後のグレンジャー)が欲しい」という事情であった。現代自動車はソウルオリンピックのオフィシャルスポンサーとなっていたが、VIP向け送迎車に使える高級車を開発するノウハウが無かったことから、ノックダウン生産前提の共同開発を三菱自動車に依頼した。これについては、三菱自動車の社史に「1985年、韓国現代自動車とデボネア共同開発契約締結」とある通りだが、時期的に契約締結時には既に2代目デボネアのクレイモデルが完成し、設計作業に入っている段階であったことから、共同開発と銘打ってはいるが実際の開発はほぼ三菱側が行ったものと思われる。

要約すると「高級車のモデルチェンジを企図した三菱、高級車を作りたかったヒュンダイ、(アメリカ市場では比較的小型となる)V型6気筒エンジンが欲しかったクライスラー」の利害が一致した結果である[13]

機構的には、車台は1983年に発売された前輪駆動のギャランΣのプラットフォームをストレッチして使用。上級グレードにはギャランΣハードトップのVR系に装備される電子制御サスペンションECS(コイル併用型のエアサス)も用意された。エンジンはV型6気筒SOHCで、当初は2.0L(前期105馬力、後期120馬力)と3.0L(前期150馬力、後期155馬力)の2種類を搭載。なお、後にハイヤー等への需要に対応する形で、LPG仕様も追加された。ミッションはELC4速オートマチックのみで、マニュアルの設定はない。

ボディサイズは先代と同様、当時でいう中型車クラス、つまりは開発にあたって最大のライバルと想定されたクラウンやセドリック・グロリアと同じ5ナンバーフルサイズに収められた。先代の後期モデルが3ナンバー専用車になっていたのは、車体寸法は小型車サイズでありながら搭載されるエンジンが2.6Lのみであったためであり、このモデルチェンジでライバルのクラウン、セドリック・グロリアと同様、2.0Lと3.0Lのグレード展開となった。なお、3ナンバー専用車について垣下は「(このクラスでは)売れ行き自体が5ナンバーに集中する傾向があるので、敢えて3ナンバー専用にするのは、狭い市場を狙ってのことになる」から時期尚早との判断であった。

1987年には150馬力までパワーアップした2.0L「スーパーチャージャー」(1989年まで)が、1989年には200馬力(1991年に210馬力にパワーアップ)の3.0L DOHC24バルブ(1992年まで)が追加された。スーパーチャージャー車の追加は、当時は3.0Lの3ナンバー車の税金が高いこと[14]による節税ハイパワー型としての措置で、競合各社でもこのクラスの2.0L車にスーパーチャージャーもしくはターボチャージャーを同様の理由で装備していた例は多い。一方、3.0LのDOHCは、1989年4月の税制改正によって3.0Lエンジングレードの需要拡大に対応する必要があったことから、クラウンやルーチェ等に倣って追加されたものである。

ライバルであるクラウン、セドリック・グロリアとの最大の違いは、開発コストの制約からセダンボディしか用意できなかった点である。当時、クラウン、セドリック・グロリアは、フォーマルユースをセダンで、パーソナルユースをハードトップで賄っていたが、デボネアはセダンのみでフォーマルとパーソナル双方の需要を満たす必要があった。そのため、高級パーソナルカーとして好評を博した初代トヨタ・ソアラにも採用されたプレスドアをデザイン上の特徴とし、細部のデザインもパーソナルな雰囲気を狙っていた(バンパーやモール類、サイドのプレスラインなどにも初代ソアラの影響が見受けられる)ところが、その一方でフォーマルユースを満たすためには、同時に後席居住性も重視しなければならなかった。そこで、リアシートのタイヤハウスの出っ張りを排除するため、リアオーバーハングを短く、フロントオーバーハングを長くしたため、ダックスフントのような不格好なスタイルとなってしまった。また、三菱の販社では、一般向けに中型車を扱うのは事実上初めてであったことから、営業からは「変わった車に乗りたいというユーザーに売れているだけでは」という懐疑的な声も漏れた。

そのため、売れ行きは知名度が高く実績もあるクラウン、セドリック・グロリアの影に隠れ、芳しいものではなかった。三菱としても、拡販策として西ドイツ(当時)のチューナーであるAMG社に監修を依頼し、外観にエアロパーツと専用のアルミホイール[15]を装備したAMGグレードを設定したり[16]、1988年にはイギリスの高級アパレルメーカーに内装を依頼したデボネア・アクアスキュータム、内装をオーナードライバー向けとした「エクシード」シリーズ、1989年の税制改正後には「3000ツーリング(その上級としてスーパーツーリング)」というパーソナルグレードが設定されたが、思うように販売台数は伸びなかった(3000ツーリングは東京渡し235.4万円と、当時としては最も安い3Lセダンであったが、後に自社のディアマンテ3000GDIエスパーダが235万円で更新した)。例えばAMGモデルは、1991年の生産終了までにわずか300台程度しか販売されなかった[13]

なお、最廉価モデルは発売当初212.5万円(LG、ベンコラAT)からと、クラウン、セドリック・グロリアに比べて高めの価格設定であったが、これは前出3車にあったスタンダードおよびデラックスに相当する廉価版グレードやMT車が存在しないためである。また、前出3車やルーチェに存在した営業車(4気筒、MTのタクシー仕様車)の設定もない。これは、販売目標がそもそも月販800台(当時の中型車クラスの年間販売台数が約20万台だったため、そのわずか5%)に過ぎず、当初より法人タクシー需要を考慮していなかったためと考えられる。

派生仕様として、リムジンとロングボディタイプが存在する。前者は前期モデルをベースに、(愛知三菱自動車販売)株式会社が企画販売したもので(前後ドアの間で600ミリ延長)、ノーマルのヨーロピアンスタイルと、ランドウトップのアメリカンスタイルの2種がある。一方、後者は後期モデルをベースに、後部ドアを150ミリ延長した3000DOHCロイヤル150で、メーカー自らが企画販売した(ボディ架装メーカー:(株式会社(アッスル))。他にも、クラウンセダンなどと同様に、左後ろの屋根が開くブライダル仕様もごく少数生産された。

歴史
  • 1986年昭和61年
    • (参考)7月24日 - グレンジャー発売
    • 8月 - フルモデルチェンジ。2Lと3LのSOHCガソリン車。[17]
    • 10月 - 西ドイツのチューニングメーカーAMGとのタイアップにより、ロイヤルAMGが追加。
  • 1987年昭和62年
    • 2月 - 2Lエンジンの高性能グレードとして、スーパーチャージャー付エンジン搭載車が追加。
    • 7月 - 小変更
      • 愛知三菱自動車販売が企画販売したリムジンとベンコラ仕様のロイヤルカスタムを発売。
      • 3000ロイヤルは、標準装備だった電動フェンダーミラーから電動格納式ドアミラーへ変更になる。
      • ボディーカラーの変更。[18]
  • 1988年昭和63年
    • 5月26日 - イギリスの高級ファッションブランド「アクアスキュータム」とのタイアップモデルを追加。2,000cc「スーパーチャージャー」車がベース。[19]
    • 8月 - 個人ユーザー向けのエクシードシリーズを追加。2,000cc「スーパーチャージャー」車がベース。[20]
  • 1989年平成元年
    • 4月 - 3ナンバー車の各種税率の引き下げにより、個人ユーザー需要増に対応した3,000ツーリングシリーズを追加。内外装色を個人向けに派手なものとし、大型バンパー、モール、サイドガーニッシュを装備。
    • 10月 - マイナーチェンジ。3,000ccのエンジンにDOHCツインカムユニットが追加。従来のOHCユニットも出力向上。これに合わせてATを大容量化し、ホールドモードもプラス。足回りも強化されて、フロントブレーキを2ポット式に変更。[21]

3代目(1992年-1999年)S22/26/27A型

三菱・デボネア(3代目)
S22/26/27A型
 
エグゼクティブ I
 
概要
製造国   日本
販売期間 1992年10月 - 1999年12月
デザイナー (竹下俊二)(乗用車開発本部 商品開発室 プロジェクトマネージャー)
ボディ
乗車定員 5人
ボディタイプ 4ドア セダン
駆動方式 FF
(パワートレイン)
エンジン 6G72型 2,972L V6 SOHC
6G74型 3,496L V6 DOHC
変速機 フロア4AT
サスペンション
前:ストラット式
後:マルチリンク式
車両寸法
ホイールベース 2,745mm
全長 4,975-5,125mm
全幅 1,815mm
全高 1,440mm
車両重量 1,590-1,840kg
その他
生産台数 1万779台
系譜
後継 通常セダン版:三菱・プラウディア
ストレッチリムジン版:三菱・ディグニティ
(テンプレートを表示)

1992年10月登場。発売がバブル景気崩壊期であり、販売は当初から伸び悩んだ。

1989年4月の税制改正に呼応する形で、1990年に発売されたディアマンテシグマは、CMで「上級小型車の概念を変える」と謳っていたように、マークIIクラスの車でありながら、当初から3ナンバー専用ボディを纏って登場した。そのため、従来の中型車(5ナンバーフルサイズ)のデボネアVとは、全幅(及びトレッド)において逆転現象が起きてしまった。この後三菱では、マツダ同様に小型車であるギャランを含め、3ナンバー専用ボディへの移行が進むことになるが、そのような状況下で登場した3代目デボネアも、当然のことながらボディが大型化され、当時のトヨタ・クラウンマジェスタ や日産・インフィニティQ45にも匹敵するボディサイズとなった。シャシーはディアマンテ/シグマをベースとしており、2745mmと同クラスでは最も短いホイールベースであるが、FFのため低く抑えられたフロアトンネルにより広々とした後席の足元スペースが確保されていた。今回も現代自動車ではグレンジャーの名称で生産・販売され、グレンジャーをベースにさらに高級化したダイナスティも登場している。

エンジンV型6気筒の3500DOHC(260馬力)と3000SOHC(170馬力)が設定され、タクシー・ハイヤー向けにV型6気筒3000LPGエンジン(150馬力)の設定もあった。グレードは大きく分けて2シリーズあり、運転席周りの装備を充実させたオーナー向けのエクシードシリーズと、後席周りの装備を充実させたハイヤーや社用車向けのエグゼクティブシリーズがあった。当時トヨタや日産は高級セダン(いわゆるEFセグメント)の層が厚かったが、三菱ではデボネアのみであった。このため他社の各クラスに対応すべく、価格レンジは約300万円~670万円と幅広く、主に3.5L車はクラウンマジェスタシーマ~インフィニティQ45のクラスと、3L車はクラウンセドリック/グロリアなどのクラスと、LPG車は同タクシー向けグレードと競合する装備内容・価格設定となっていた。

ディアマンテ譲りのハイテク装備も惜しみなく搭載され、三菱インテリジェントコックピットシステム(シートだけでなくドアミラー・ルームミラー・シートベルトアンカー位置を電動で調整可能、3名分の位置メモリーと、2つのキーレスエントリーそれぞれに固有の位置が記憶可能)、三菱マルチコミュニケーションシステム(GPS&ジャイロセンサーによるカーナビゲーション + テレビ・ビデオモニター + エアコン操作ユニット)だけでなく、国産乗用車初の車間距離自動制御システム「ディスタンスウォーニング」(レーザーレーダーにより先行車との距離を検知し、エンジンブレーキによる減速を行うシステム)、オキシジェンリッチャ(車内の酸素濃度を高め快適性を向上させる装置)、アクティブプレビューECS II(超音波センサーにより路面状況を読み取り、ショックアブソーバー減衰力やエアばね内圧を自動調整する電子制御サスペンション)、後退時にテレビ画面に後方を映すリヤビューモニターなど、高級車にふさわしい充実した内容であった。助手席電動中折れシート&後席用レッグサポートや、ヘッドレストも電動で調整可能なリヤメモリー付パワーシートなど後席装備もショーファーカーユースに十分な内容が設定され、シートにはウールベロアやウールシルク、本革といった天然素材を用いた生地も設定されていた。

  • 1992年平成4年
    • 10月 - フルモデルチェンジ。
  • 1993年平成5年
    • 6月 - 後席スペースを前後方向に150mm延長した「デボネア150」を追加。 広びろとした空間を実現している。
    • 10月 - 廉価版の3Lエンジン搭載車。エクシードエクストラを追加。
  • 1994年平成6年
    • 10月 - オーナー向けの「エクシード・コンテーガ」を追加。
  • 1995年平成7年
    • 10月 - マイナーチェンジでフロントグリルとテールランプのデザインを変更。同時にカーナビゲーションには音声ガイドと自動ルート設定機能を追加。
  • 1999年平成11年
    • 11月 - 生産終了。販売量の少なさや顧客の特異性などから生産を取りやめ、以降在庫のみの対応となる。
    • 12月 - 販売終了。35年に渡るデボネアの歴史に幕を下ろした。これと同時に後継車のS32A型プラウディア、S43A型ディグニティを発表。

車名の由来

  • 英語で「愛想の良い、礼儀正しい、(陽気)な(優雅な)」という意味。

脚注

  1. ^ この他、三菱系企業の拠点が立地する自治体の公用車としても使われていた。
  2. ^ お抱え運転手(ショーファー)によって運転されるような高級車という意味。英語の綴りでは「chauffeur driven」。
  3. ^ 『絶版日本車カタログ』三推社講談社 22頁参照
  4. ^ セダン型乗用車ではセンチュリーが最長記録だが、クロスカントリー型自動車では三菱・ジープ(1953年 - 1998年)の方が生産期間が長かった。他には商用バンのマツダ・ボンゴブローニィ(1983年 - 2010年)やタクシー用セダンの日産・セドリック営業車のY31型(1987年 - 2014年)も初代デボネアより長期間製造されている。
  5. ^ 三菱日本重工業新三菱重工業三菱造船の三社が1964年6月1日付で再統合され、同社(2代目)が再発足した際に作成されたもの。再統合の経緯については三菱重工業の項目を参照。
  6. ^ ただし、ボンネット両脇からテールに連続するエッジを立ててフラットデッキボディのキャラクター付けを行う手法は、在来型に比してダウンサイジングされたリンカーン・コンチネンタル1961年モデルでフォード・モーターのデザイナーであった(エルウッド・エンジェル)(Elwood Engel )が先行して用いた手法で、ブレッツナーにとっては既知のテクニックであったことは否定できない。
  7. ^ この改良型からインパネとステアリングホイールは1986年までほぼ同じ仕様となる
  8. ^ KE64は三菱コルト向けのKE4系エンジン、6G34はギャラン・ランサー向けの4G3系エンジンをそれぞれベースにしている。
  9. ^ 従って1986年の2代目までデボネアでは6気筒エンジンと5ナンバー車は休止となった。
  10. ^ 大排気量4気筒で問題になる振動をバランサーシャフトで打ち消しており、当時の三菱が自称した「V型8気筒に比肩」は誇大にしても、ある程度の振動抑制は図られていた。
  11. ^ 1978年頃に三菱自社所有車として1台が改造され、のち1988年に岡山県倉敷市にイベント用公用車として1台ずつが改造されたという。岡山県所有車は現存せず、倉敷市所有車はのち1999年に倉敷チボリ公園に払い下げ、さらに公園の経営難で2002年に個人に売却され2010年時点では千葉県で現存していたという。三菱所有車は長く使用されなかったが、2000年代に入ってから岡山県倉敷市在住の愛好家に譲渡されてナンバー付き可動状態となった。同車は2010年4月、バンクーバーオリンピックフィギュアスケート競技銅メダルを獲得した倉敷出身の髙橋大輔岡山・倉敷両市で凱旋パレードを行った際、オーナー自身の運転で乗用に供されている。(「Old-timer」116号p20-21 2010年 八重洲出版)
  12. ^ 単行本38巻3話「マイベストカーの巻」
  13. ^ a b 約5年間でわずか300台強の販売台数! デボネアに与えられたスポーティーという新たなキャラクター|1992年式 三菱 デボネア V 3000 ロイヤル AMG Vol.2 - Nosweb・2022年7月14日
  14. ^ 当時は2L以上3L未満は81,500円/年
  15. ^ デボネアVは4穴が標準で、後期のDOHC車のみが5穴ホイールである(ブレーキも2ポットキャリパーが奢られる)。
  16. ^ 後に登場したギャランAMGとは異なり、内外装のドレスアップに留まっておりエンジンのチューニングは施されていない。
  17. ^ グレードは、2L(S11A)は、ベンチシート(6人乗り)LGと、セパレートシートのスーパーサルーン・スーパーサルーンエクストラで、3L(S12A)は、ロイヤル・ロイヤルエクストラの展開であった。
  18. ^ シルバーは「アイガーシルバー」から「グレースシルバー」へ、マルーンは「スーパーリスボンマルーン・メタリック」から「スーパーダーバンマルーン・パール」へ変更され、「スーパーダーバンマルーン」はオプションカラーになった。
  19. ^ 「アクアスキュータム」はボディに専用色、グリルやホイールにマークを装備。チェック柄シートなどで室内を統一したもの。
  20. ^ エクシードシリーズは、公用車とは一線を画する派手な内外装色を採用し、専用ホイールカバーやアルミホイールなどを用意。足回りもスポーツサスペンションやABSなどを装備している。
  21. ^ グレードは、2L(S11A)は、LG・スーパーサルーン。3L(S12A)のSOHCは、LG・スーパーサルーン・スーパーサルーンエクストラ・エクシード・ロイヤルと、ベンチシートのロイヤルカスタム。30LのDOHCは、アクアスキュータム・エクシード・スーパーエクシード・ロイヤル・ロイヤルエクストラ・ロイヤルAMGの展開であった。2LのLG・スーパーサルーンと、3LのLGにはベンチシート(6人乗り)も選択できた。

関連項目

外部リンク

  • 初代デボネア - 三菱自動車のグローバルウェブサイト内のページ
  • デボネアV(2代目デボネア) - 同上
  • 3代目デボネア - 同上
ウィキペディア、ウィキ、本、library、論文、読んだ、ダウンロード、自由、無料ダウンロード、mp3、video、mp4、3gp、 jpg、jpeg、gif、png、画像、音楽、歌、映画、本、ゲーム、ゲーム。