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略歴
28年(建武4年)、生母の陰貴人は元氏にて劉陽(明帝)を産んだ。
39年(建武15年)、劉陽は東海公に封じられる。41年(建武17年)に、郭皇后がそのわがままな性格から光武帝に疎まれるようになり、皇后を廃されて中山太后とされ、陰貴人が皇后となる。この年、光武帝の子の皇太子を除く九国公は爵を進めて王とされ、劉陽は東海王となる。
異母長兄で時の皇太子劉彊は母の郭皇后が廃されたため、常々皇太子を辞したいと願い出ていた。建武19年(43年)に光武帝は遂に許し、皇太子は東海王となり、代わって劉陽が皇太子に立てられることになり、同時に諱を陽から荘に改めるように命じられた。
57年(建武中元2年)の光武帝崩御にともない、皇太子であった劉荘が即位した。父の施政方針を継承した政策を実施したが、外交面では光武帝の消極策を改め、武帝以来となる西域への積極的な進出を再開した。この対外政策により班超が活躍することとなった。
明帝の時代に仏教が正式に伝来したと伝えられるが、詳細は不明である。仏教伝来伝説は白馬寺の創建と『四十二章経』の伝来に関する伝承となっている。また異母兄の楚王劉英による「黄老とともに浮屠(仏陀)を崇拝した」という事跡に関する記述が、『後漢書』顕宗孝明帝紀第二の本伝に見えている。
明帝の治世は、光武帝・章帝と並び、約200年続いた後漢朝では安定した全盛期を現出した。馬皇后(光武帝配下の武将馬援の娘)は陰皇后とともに賢夫人とされ、自制によって外戚勢力が抑制されていたことがその理由として考えられている。和帝以降は幼少の皇帝が続き、幼少の皇帝の外戚勢力と宦官勢力とが政争を繰り広げ、結果として後漢の滅亡の大きな要因となった。
明帝は、父の光武帝よりも若くして48歳で病没しており、以降の後漢王朝の歴代皇帝の中で、50歳以上存命したのは最後の皇帝の献帝のみである。
妻子
后妃
- 明徳馬皇后
- 貴人賈氏
- 貴人陰氏
- 貴人秦氏
- 貴人閻氏
男子
女子
参考資料
- 『後漢書』明帝紀
登場作品
- テレビドラマ
- 秀麗伝〜美しき賢后と帝の紡ぐ愛〜(2016年、中国、演:(趙文浩))