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少帝辯(しょうてい べん)は、中国後漢の第13代皇帝。霊帝と何皇后の子。母の何太后と母方の伯父の何進(何太后の異母兄)により擁立され、幼年で即位したが在位期間は4か月余りであった[1]。
生涯
父の霊帝の崩御により、母の何太后と母方の伯父の何進(何太后の異母兄)により擁立された。しかし、何進が中常侍の張譲らにより暗殺され、さらに中常侍をはじめとする宦官も袁紹によって皆殺しにされた後、洛陽を占拠した董卓により廃位され、弘農王に封ぜられた。その後、董卓の専制に反発した諸侯による(反董卓連合軍)が起こると、連合軍に擁立されることを恐れた董卓に命じられた李儒によって、長安遷都前に毒殺された。
在位わずか5カ月に過ぎず、また地方豪族の一人に過ぎなかった董卓に帝位を廃されたことは、事実上、後漢王朝が滅亡したことを意味している。
のちに弘農懐王として諡をされたため、実質的に皇帝とは認められなかったことになる。明代に書かれた『三才図会』に掲載されている後漢王室の系図でも、劉辯の存在は省かれている。『三国志』魏志「王朗伝」によると、曹操が劉辯の墓前を通ったとき、皇帝陵として参拝すべきか否か、付き従っていた董遇に訊いた。すると董遇は「皇帝ではないと見なされますので参拝は不要です」と述べたため、曹操はその意見に従っている。
三国志演義での少帝
小説『三国志演義』では、劉協(後の献帝)よりも若干年上の少年である。劉協の方が聡明さがあり、逆に劉辯は暗愚であったため、廃位された後、何太后とともに李儒により高所から突き落とされ、殺害されることになっている。
なお、『三国志演義』やその派生作品などでは幼帝扱いにされているが、即位当時の年齢17歳というのは、後漢の歴代皇帝の即位時年齢の中で4番目の高年齢にあたる[注 1]。これは、後漢に幼少の皇帝が多かったことを示すものである。
后妃
脚注
注釈
出典
- ^ 《后汉书》谓“十八岁”(见《後漢書·卷十》:“王謂姬曰:『卿王者妃,勢不復為吏民妻。自愛,從此長辭!』遂飲藥而死。時年十八。”),而按余书皆可推出是“十五岁”。见《資治通鑑·卷五十九》:“孝靈皇帝下中平六年(己巳,189年)……戊午,皇子辯即皇帝位,年十四。”“孝靈皇帝下初平元年(庚午,190年)……癸酉,董卓使郎中令李儒鴆殺弘農王辯。”