日根野 吉明(ひねの よしあき)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。信濃国諏訪藩主、下野国壬生藩主、豊後国府内藩主。
生涯
天正15年(1587年)、日根野高吉の長男として近江国平松城で生まれる。
慶長5年(1600年)6月、父・高吉が病死したために信濃諏訪2万7000石を継いだ。関ヶ原の戦いでは父の遺言に従い東軍に与して会津征伐では徳川秀忠軍に従軍して宇都宮に赴く。その後、西軍方の信濃上田城主真田昌幸の備えに回った。
慶長6年(1601年)、家康に初目見得し吉明を称する。
慶長7年(1602年)、祖父の弘就が西軍に属して取り潰された関係や、若年という理由から下野壬生1万2000石(一説には1万5000石)に減封された。
慶長19年(1614年)からの大坂の陣では徳川方に従い功を挙げた。その後、日光東照宮の造営副奉行に命じられるなど江戸幕府のために尽力し、それらの忠勤が認められて豊後府内2万石に加増移封された。
府内藩主に着任した当時、藩内の農地はたびたび干害や水害があり、府内藩政では城下内外の工事や寺社の修理、開削事業などを積極的に行った。
寛永18年(1641年)からの3年間、寛永の大飢饉が発生し、府内藩でも多くの餓死者が出た。それを見かねて、長宝水(1648年)、上淵井手(1648年)、永宝水(1649年)、(初瀬井路)(1650年)などの井路を開削し、数百ヘクタールの農地に用水を供給した吉明は名君として慕われた。このうち、初瀬井路は、現在の大分県由布市庄内町大字櫟木より大分市東院までの間、約16kmを開削したもので、「初瀬川」と呼ばれている[1]。
一方で、法に厳格であったために領民からは恐れられたといわれているが、初瀬井路の開削などにより現在でも地域住民により毎年顕彰されている。
吉明が豊後府内藩に着任したもう一つの役目は松平忠直の守り役であった。松平忠直は大坂の陣の論功行賞の不満から乱行に及んだとされ二代将軍徳川秀忠から豊後府内藩に蟄居を命じられていたが幕府は蟄居後も勇猛な忠直を恐れ、吉明に守り役を命じた。
寛永14年(1637年)から始まった島原の乱は、吉明が豊後府内藩から江戸に向かう参勤交代中に始まり、急遽、幕府から豊後府内藩に戻る命令を受け帰国した吉明公は、寛永15年(1638年)鎮圧軍総大将、板倉重昌(三河国深溝藩主)が討死した報を受け島原の乱鎮圧に従軍するが、三代将軍徳川家光から「宜しく豊後に帰国し忠直卿を護るべし」との命令を受け、再び帰国している。正保3年(1646年)には長崎のキリシタン取締りを命じられた。
明暦2年(1656年)3月26日に死去。嫡男の吉雄は正保2年(1645年)に先立っており、死の直前、幕府に弟(高当)(高明)の息子(吉重)の長男(高英)を末期養子に願い出て、一旦は許可されたものの、家臣の間で筋目違いの養子であるとの騒動が発生し、吉明死後の閏4月4日に高英の養嗣子相続を取り消したため[2]、吉明の死をもって大名としての日根野氏は断絶。一族は旗本として存続した。
府内藩には、義理の甥(正妻の兄弟の子)にあたる大給松平家の豊後高松藩主松平忠昭が、明暦4年(1658年)2月24日に2万2千2百石で入封した。
系譜
脚注
参考文献
- 「寛政重修諸家譜 巻第984」
外部リンク
- 日根野時代府内藩領図 - 文化遺産オンライン
- 「開運!なんでも鑑定団 ~【江戸時代に大名が作らせた大珍品に超絶鑑定!】(2019年10月1日放送)日根野吉明が江戸前期に作らせた立派な舎利塔。https://www.tv-tokyo.co.jp/kantei/kaiun_db/otakara/20191001/03.html