1988年の日本シリーズ(1988ねんのにっぽんシリーズ、1988ねんのにほんシリーズ)は、1988年10月22日から10月27日まで行われたセ・リーグ優勝チームの中日ドラゴンズとパ・リーグ優勝チームの西武ライオンズによる第39回プロ野球日本選手権シリーズである。
概要
森祇晶監督率いる西武ライオンズと星野仙一監督率いる中日ドラゴンズの対決となった1988年の日本シリーズは、西武が4勝1敗で勝利し、3年連続8度目の日本一(西鉄時代を含む。西武では5度目)。
この年のパ・リーグは、西武が公式戦全日程終了した後で日本シリーズ開幕3日前に行われたロッテオリオンズ-近鉄バファローズの最終戦ダブルヘッダー(いわゆる10.19)の末に優勝が決まったもので、ナゴヤ球場分の日本シリーズ前売り券には「中日 対 パシフィックリーグ優勝チーム」と書かれていた。
1982年でもこの両チームが対戦して西武が勝っており、星野は、西武のシリーズ進出が決定の際に、「西武とやりたい」との趣旨を公言していた[1](10.19参照)。
西武側からは、シリーズ終了後に清原和博が、上記ダブルヘッダー2試合目で引き分けて優勝を逃した近鉄を慮って「これで近鉄に顔が向けられる」と発言している[2]。
ただ、森は、自著で、最後まで近鉄との優勝争いが続いたことで、選手のコンディションは最高だったと振り返っている[3]。このシリーズは、西武が「走攻守」すべてで圧倒したと見られるが[4]、特に
- 四番打者の打点などの差が大きかった。西武の四番・清原はナゴヤ球場の場外まで飛んだもの(第1戦)など3本塁打、4打点を挙げたのに対し、中日の四番・落合博満[5]は本塁打・打点ともに0。打率は両者とも3割台であったが落合は、7度の走者を置いた場面では2四球の他は全て凡退。5安打はすべて無走者の場面だった[4]。
- 中日は8併殺打(西武は2併殺打)と攻守の緻密さの差が見られた[4]。
- 失策数が、西武は第5戦の2失策のみであったのに対して、中日は4失策、特に第3戦の先発投手・山本昌広の失策は、シリーズ全体の流れにまで響くこととなった[4]。
などがあげられる。
森は「星野監督は選手たちに相当にらみを利かせていた。勢いで公式戦を乗り切ったが、私は負ける相手ではない」[6]、「今年のシリーズには限っていえば私は何もしていません。スタッフ、スコアラー、選手がいい共同作業をしてくれた。チームぐるみの勝利だと思います」と述べている[7]。
星野は前年まで西武に在籍し18勝と大躍進した小野和幸を同じく西武出身の大石友好とバッテリーで第1、5戦の先発投手に起用したが、第1戦は6回4失点で敗戦投手、第5戦は2回途中3失点と打ち込まれ、失敗に終わった[8]。西武の選手にとっては、前年まで開花しなかった方のイメージが強かったために怖さを感じなかったという。尚、トレード相手の平野謙は1番打者として先発で全試合に出場した。
早々と優勝を決めた中日は9月下旬に西武の情報収集を始めたのに対し、西武は優勝が決まった19日から実質2日間で分析作業をスコアラー・首脳陣で行い、量より質を重視し、スコアラーの前田康介曰く前年の巨人の1割程度の情報しか集められなかったという[7]。
伊東勤は「一度は死んだ身。中日との日本シリーズは重圧を感じることなく4勝1敗で制した」と回想している[9]。
中村武志は星野に「捕手(の差)で負けた。勤みたいなキャッチャーになれ」と言われたというが、中村はまだ入団4年目。偉大すぎて「なれるわけないやろ」と心で思っていたという[10]。
ナゴヤ球場での日本シリーズ開催は、この年の第2戦をもって最後となった(中日が次に出場した1999年以降の中日ホームゲームは、ナゴヤドームで開催されている)。また、昭和の元号として最後の日本シリーズ開催となった。
なお、このシリーズ第1戦に渡辺久信の後を8回裏、無死一・二塁の際に登板した東尾修が森監督から「この一人は抑えてくれ」と言われ、傷ついたがその後を締めた。第5戦にも登板するが、シリーズ終了後、同年限りでの現役引退を表明した。
試合結果
日付 | 試合 | ビジター球団(先攻) | スコア | ホーム球団(後攻) | 開催球場 |
---|---|---|---|---|---|
10月22日(土) | 第1戦 | 西武ライオンズ | 5 - 1 | 中日ドラゴンズ | ナゴヤ球場 |
10月23日(日) | 第2戦 | 西武ライオンズ | 3 - 7 | 中日ドラゴンズ | |
10月24日(月) | 移動日 | ||||
10月25日(火) | 第3戦 | 中日ドラゴンズ | 3 - 4 | 西武ライオンズ | 西武ライオンズ球場 |
10月26日(水) | 第4戦 | 中日ドラゴンズ | 0 - 4 | 西武ライオンズ | |
10月27日(木) | 第5戦 | 中日ドラゴンズ | 6 - 7 | 西武ライオンズ | |
優勝:西武ライオンズ(3年連続8回目) |
第1戦
10月22日 ナゴヤ 入場者28963人
西武 | 0 | 2 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1 | 5 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
中日 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 |
勝利打点 清原1
【本塁打】
(西)清原1号ソロ(2回小野)、石毛1号ソロ(6回小野)
[審判]セ福井(球)パ前川 セ田中 パ村田(塁)セ山本 パ藤本(外)
先発投手は中日は小野和幸、西武は渡辺久信と両リーグ最多勝利投手の投げ合いとなった。西武の監督の森は第1戦目の先発投手に小松が来たらイヤだなと思っていたと述べている[6]。2回、清原和博がレフト場外(近くを走る東海道新幹線の防音壁に当たったと言われている)に消える特大の先制ソロ本塁打[3]。さらに辻発彦の遊ゴロ併殺の間に追加点。6回には石毛宏典のソロ本塁打を放ち、優位に試合を進めた。中日は6回、代打の小松崎善久、彦野利勝の連続ヒット、立浪和義のバントで送り1死二・三塁としてゲーリーの犠牲フライで1点を返したが落合は3塁ゴロでこの回1点に終わった。中日は8回中村武志の安打、代打川又米利が四球を選び、無死一・二塁とチャンスを作り西武は渡辺からベテラン東尾修に投手交代し、彦野はシュートを強引に引っぱり、三塁ゴロ併殺打、立浪は見逃し三振に打ち取られ、西武が先勝した。中日は宇野が2三振、2併殺打、さらに守備でも1エラーとブレーキになった。
なお西武は、ナゴヤ球場の試合では指名打者が使えない関係で、指名打者としての出場が多かったバークレオを左翼手に、通常は一塁手の清原を三塁手に、三塁手の石毛を古巣の遊撃手に回し、一塁手に安部理を入れるという守備陣をとった[11]。
公式記録関係(日本野球機構ページ)
第2戦
10月23日 ナゴヤ 入場者28953人
西武 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
中日 | 0 | 1 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | X | 7 |
勝利打点 宇野1
【本塁打】
(中)川又1号2ラン(3回郭)
[審判]パ藤本(球)セ山本 パ前川 セ田中(塁)パ斎田 セ小林毅(外)
3-3の同点で迎えた8回、中日は宇野の押し出し死球、仁村徹のスクイズ、さらに音重鎮の2点タイムリーで計4点。7回から登板し3イニングをパーフェクトに抑えた郭源治が勝利投手。
公式記録関係(日本野球機構ページ)
第3戦
10月25日 西武 入場者32081人
中日 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 3 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
西武 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 3 | 0 | 0 | X | 4 |
(中)●山本(1敗)、鹿島 - 中村
(西)○工藤(1勝) - 伊東
勝利打点 なし
【本塁打】
(中)彦野1号ソロ(1回工藤)、宇野1号2ラン(7回工藤)
(西)石毛2号ソロ(5回山本)
[審判]セ小林毅(球)パ斎田 セ山本 パ前川(塁)セ福井 パ村田(外)
工藤公康、山本昌広の両左腕が先発。初回、彦野が1978年第2戦の福本豊以来となる先頭打者本塁打を放ち中日が先制したが、西武は5回石毛のソロ本塁打で同点に追いつくと、6回に、山本の暴投で勝ち越し点を拾った。工藤は完投勝利。
公式記録関係(日本野球機構ページ)
第4戦
10月26日 西武 入場者32261人
中日 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
西武 | 0 | 0 | 2 | 1 | 2 | 0 | 1 | 0 | X | 6 |
(西)○森山(1勝) - 伊東
勝利打点 笘篠1
【本塁打】
(西)秋山1号ソロ(4回杉本)、清原2号2ラン(5回上原)、辻1号ソロ(7回近藤)
[審判]パ村田(球)セ福井 パ斎田 セ山本(塁)パ藤本 セ田中(外)
西武先発はこの年躍進した2年目の森山良二。中日先発は左腕杉本正で、奇しくも第1戦の先発小野和幸と同様に古巣球団との対決となった。西武は2回、笘篠誠治のタイムリー二塁打で2点を先制、4回には秋山幸二のソロ、5回清原の2ランとAK砲アベックアーチで着実に加点。7回には辻の本塁打でとどめを刺した。森山は2安打に抑え日本シリーズ初登板で完封勝利。
公式記録関係(日本野球機構ページ)
第5戦
10月27日 西武 入場者32304人 延長11回サヨナラ
中日 | 1 | 1 | 2 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 6 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
西武 | 3 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1x | 7 |
(中)小野、鹿島、小松、●郭源(1勝1敗) - 大石、大宮
(西)渡辺、山根、東尾、小田、黒原、○松沼博(1勝) - 伊東
勝利打点 伊東1
【本塁打】
(中)宇野2号2ラン(3回渡辺)
(西)清原3号ソロ(6回小松)、石毛3号ソロ(9回郭)[12]
[審判]セ田中(球)パ藤本 セ福井 パ斎田(塁)セ小林毅 パ前川(外)
第一戦同様西武渡辺、中日小野が先発した。点の取り合いとなったこの試合は6-5と中日リードで迎えた9回裏、西武は石毛のソロ[12]で同点に追いつく。西武は10回から本来は先発投手である松沼博久を投入、その松沼博は気迫の投球で中日打線を封じ込める。延長11回裏、西武は中日の守護神・郭源治から先頭の清原が中前に安打を放つと、同点弾を放った石毛が犠打で送り、笘篠の代打・立花が三振に倒れ2死後、伊東がライトオーバーのタイムリーを放ち、サヨナラ勝ちで日本一を決めた。西武の日本シリーズでのサヨナラ勝ちは1986年の対広島第5戦以来2年ぶり3度目(西鉄時代を含めると5度目)。サヨナラゲームでの日本一決定は1950年の毎日、1965年の巨人に次いで3チーム目となった。延長2イニングを無失点に抑えた松沼博が勝利投手となった[13]。
公式記録関係(日本野球機構ページ)
表彰選手
テレビ・ラジオ中継
テレビ中継
- 第1戦:10月22日
- 第2戦:10月23日
- 第3戦:10月25日
- 第4戦:10月26日
- 第5戦:10月27日
※なお、第6戦は東海テレビ、第7戦は中部日本放送でそれぞれ中継される予定だった。
ラジオ中継
- 第1戦:10月22日
- 第2戦:10月23日
- 第3戦:10月25日
- 第4戦:10月26日
- 第5戦:10月27日
脚注
- ^ 日本経済新聞1989年10月20日p.27
- ^ 仰木彬『燃えて勝つ』ISBN (978-4051045821) 39頁-40頁
- ^ a b 森『覇道』p.p.109~116
- ^ a b c d 『プロ野球70年史』p.p.552 - 553
- ^ 落合自身がシリーズ終了後に「四番打者の差で…」とコメントしている事実がある([1]文藝春秋、2015年5月10日閲覧)
- ^ a b Hawks vs.Dragons99日本シリーズ/旧敵将森氏、両監督を語る◆王監督/選手の輪に入った、星野監督/激情家が我慢した - 日刊スポーツ
- ^ a b 日刊スポーツ 1988年10月28日7版
- ^ 星野仙一氏 写真特集、日本シリーズで西武に敗れ、無念の表情で表彰式に臨む 時事通信
- ^ スポーツニッポン2018年4月16日伊東勤の我が道、11版
- ^ 中尾孝義氏、中村武志氏が選ぶ歴代No.1捕手は「3人出たが…」 スポーツニッポン
- ^ 三塁手清原、遊撃手石毛は西武ライオンズ球場での試合でもそのまま起用。
- ^ a b この本塁打が昭和時代最後の本塁打となった。
- ^ 2020年9月25日、11版、スポーツニッポン・松沼博久の「我が道」
参考文献
- ベースボール・マガジン社『プロ野球70年史』ベースボール・マガジン社、2004年。ISBN (978-4583038087)。
- 森祇晶『覇道―心に刃をのせて』ベースボール・マガジン社、1996年2月。ISBN (4-583-03277-3)。283ページ
外部リンク
- NPB公式記録