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飯田徳治

飯田 徳治(いいだ とくじ、1924年4月6日 - 2000年6月19日[1])は、神奈川県横浜市[1]出身のプロ野球選手内野手外野手投手)・コーチ監督解説者

飯田 徳治
南海ホークス時代(1950年撮影)
基本情報
国籍 日本
出身地 神奈川県横浜市
生年月日 1924年4月6日
没年月日 (2000-06-19) 2000年6月19日(76歳没)
身長
体重
173 cm
73 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 一塁手外野手投手
プロ入り 1947年
初出場 1947年
最終出場 1963年
1965年3月27日(引退試合)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
  • 国鉄スワローズ
    サンケイスワローズ (1961 - 1967)
  • 南海ホークス (1968 - 1969)
野球殿堂(日本)
殿堂表彰者
選出年 1981年
選出方法 競技者表彰

シーズン154試合出場は杉山光平佐々木信也と共に日本タイ記録[2]。パ・リーグ初のベストナイン(一塁手部門)も受賞している。

温厚な性格で「仏の徳さん[3]と呼ばれ親しまれた。

経歴

プロ入りまで

浅野綜合中学校では1939年春の選抜に出場。2回戦(初戦)で北神商に敗退。東京鉄道局に就職し野球部に入部。中学時代はエースで4番打者[4]、鉄道局時代に一塁手へ転向し同じく4番打者として活躍した[4]1942年都市対抗では2回戦で全京城に敗退するが、打率.556を記録して打撃賞を獲得した[4]。戦争をはさんで1946年都市対抗にもエースとして出場。2回戦でこの大会に優勝した大日本土木中原宏と投げ合うが3-4で惜敗。実業団の若手の中で随一のプレーヤーだった[4]

現役時代

1947年南海ホークス (6月に近畿グレートリングから改称)に入団。同年は開幕から一塁手、5番打者に抜擢され、規定打席(21位、打率.253にも到達。同年は2試合に投手として登板している。チャンスに強く[4]長打の打てるバッティングと6年連続40盗塁の俊足で、中心選手として南海の5度の優勝に貢献。1949年、5月21日の巨人戦では満塁サヨナラ本塁打を放っている[5]1951年 - 1952年には3割前後の打率を残して[6]打点王1955年MVPを獲得。その後木塚忠助蔭山和夫岡本伊三美らが入団、いわゆる「百万ドルの内野陣」が結成されるのだが、その中でも飯田の一塁守備が光った[4]。特に一塁守備でのワンバウンド送球に対するグラブ捌きは、戦前の名一塁手・中河美芳の跡を継ぐ「タコ足二世」と呼ばれた。ショートバウンドの処理は抜群で、それまであまり問題にされなかった一塁手の守りの重要性を飯田は認識させた。走攻守にわたって隙の無い選手として活躍した。守備の負担軽減を狙って1955年より中堅手に転向した。同年飯田は4度目の3割台をマーク、リーグ最多の163安打を放ちMVPに選ばれたが、この年も143試合にフル出場したのが大きく評価されたと思われる[4]。同年8月24日のトンボ戦でサイクル安打を達成する[7]1956年には154試合にフル出場[4]。外野手転向2年目だったが、脚力を生かして広い守備範囲を誇りソツなくこなした[4]。同年は16補殺を記録し、守備でも大きく貢献した。

1956年シーズンオフ、飯田は(10年選手)の権利を得たため南海にボーナスを要求したが、南海は長打力重視のチーム方針から力の落ちた飯田に対してボーナスを支払う意思はなく、飯田は国鉄スワローズ金銭トレードに出され、南海が国鉄から受け取ったトレード金銭を、飯田はボーナス代わりに受け取った。

国鉄に移籍した1957年より一塁手に戻って、40盗塁を記録し主に4番に座った選手としてプロ野球史上初めて(盗塁王)に輝く[8]など脆弱な打線を牽引するが、1958年5月24日の対阪神戦(阪神甲子園球場)で走塁中、二塁ベースにつまずきアキレス腱を断裂して、1948年9月12日金星スターズ戦)以来続いていた連続試合出場記録は1246試合で止まった。広島衣笠祥雄に破られるまで長く日本記録だった[4]。ちなみに、連続試合出場中の1951年の南海の公式試合数は「104」ながら当人の試合出場数が「100」になっているのは、開幕前にパ・リーグ選抜軍のメンバーに加わりハワイに遠征したところ、帰国が遅れ開幕日の3月31日に間に合わず4試合欠場したのだが、これは不可抗力というので公休扱いになり、連続出場の中断の憂き目をみずにすんだ。また、1954年にも手首に死球を受けて、代走だけで出場したケースが3試合ある(現在の公認野球規則では連続出場記録を継続するためには1打席を完了させるか、1イニングの初めから終わりまで守備につかなくてならず、代走だけの出場では記録は継続されないと規定されている)[9]1959年に復帰するが徐々に精彩を欠き1961年にコーチ兼任となり[10]1963年に2000試合出場まであと35試合、2000安打まであと22本という所で引退した。

同年には1歳下の関口清治(当時阪急)や飯田同様1リーグ時代にプロ入りした田宮謙次郎(当時大毎)も引退しているため、この1963年をもって公表上における大正生まれの現役選手及び1リーグ時代からの在籍現役選手が球界からいなくなった(ただし、前者については本来大正生まれの近鉄関根潤三が現役を続行していたが、諸事情により公表上は昭和生まれとなっている。詳細は(こちら)を参照)。

引退後

引退後は国鉄→サンケイでヘッドコーチ(1964年 - 1965年)、監督(1966年 - 1967年)を務めた[11]

コーチ在任中の1965年3月27日、横浜公園平和野球場横浜スタジアムの前身)で行われた南海とのオープン戦で、「(10年選手制度)」に基づく引退試合を実施した[12]。当時のオープン戦の観客数は2000人だったが飯田の引退試合には有料入場者が6000人を超え、フジテレビでも中継された[10]。途中から一塁手として出場し勝ち越しの3塁打を放っている[10]。引退試合でヒットを打っているのは国鉄では飯田のみである[10]。2ボール2ストライクから投手の皆川睦雄が投じた球はきわどいコースだったが、捕手の野村克也が「今のはボールです」と口にして審判も「ボール」をコールし、その次の投球をヒットしたという[12]

同年オフにはサンケイ球団が新監督に鶴岡一人の招聘に動くが、後任監督の蔭山和夫が急死により鶴岡が南海監督に留任したため、飯田が昇格[11]。鶴岡は中原宏と岡本に命令し、サンケイに移籍させている。戦力的に恵まれないチームで「仏の徳さん」といわれた温厚な性格をあえて鬼にし、特に巨人戦に力を入れて戦ったが、戦力不足は埋めることができず。1966年、球団創立以来初めての新外国人ルージャクソンが攻守走に大活躍を示した[13]。セ・リーグ最多登板の鈴木皖武がとくに巨人に強く、開幕以来4連勝をマーク、自己8勝のうち5勝を巨人から稼いで、巨人キラーとしてファンの人気を集めた[13]。鈴木皖のほか村田元一佐藤進石戸四六など投手陣の活躍はめざましかったが、肝心の打線の援護が乏しく、カムバックを期待された主砲豊田泰光は前半24試合しただけで、7月からスタメンから姿を消してしまった[13]。2引き分けの再戦を含んで28試合、11勝15敗といっても、9月1日までは11勝11敗の五分の成績を残していた[13]。対中日8勝18敗1引き分け、対広島9勝17敗が大きく影響して、4月こそ3位とAクラスをキープしていたが、5月に入るとすぐにBクラスに、リーグ最低打率の打線が足を引っ張り、そのままAクラスに上がることは1度もなかった。結局、大洋と同率の最下位(5位)に終わった[13]。1967年、ドラフトで奥柿幸雄加藤俊夫武上四郎浅野啓司ら、新外国人にデーブ・ロバーツ、トレードで西鉄から城戸則文近鉄から山本八郎を獲得した[13]。昨シーズンまでチームの主力を形成していた丸山完二福富邦夫徳武定之小淵泰輔高山忠克などが控えに回るのだからチームの層は厚くなり、飯田は「選手たちが計画通りに働けば」、「心配なのは投手力だが、5点取られても、6点取るチームになりそうだ。」と述べた[13]。主砲のジャクソンが4月15日に股関節故障で慶応病院にするというアクシデントがあり、山本が極度のスランプで戦力にならなかったことなどが、得点能力に大きく響いた[13]。4月は2勝13敗[14]、5月23日には休養となり、中原が監督代行[13]。7月11日の巨人戦から41日ぶりに指揮をとった[13]。チーム成績として対中日14勝12敗1引き分け、対大洋14勝12敗2引き分け、対広島戦19勝7敗1引き分け、対阪神戦8勝18敗1引き分け、対巨人戦3勝23敗[13]。3シーズンぶりに最下位から脱出したが、5位に終わった。ロバーツ、ジャクソンが28本本塁打、一番に定着した武上四郎がリーグ6位の打率・299の好成績で新人王[14]、浅野は150イニングを投げて8勝10敗[13]。徳武の入団から6年間で821試合連続出場の記録を持っていた[13]。飯田は昨シーズンの就任以来、徳武のこの記録伸長にはことのほか気を使っていたようだ。事実、徳武がいかに不調な時でも代打に起用するなど協力していた。ところがこうした温情が、知らず知らずのうちに、ぬるま湯的な環境に勝負の社会の厳しさを忘れていったようだ。開幕以来、チームの投手陣は徳武の守備に不信の声をあげ、城戸の出場を望んでいた。4月11日の対広島戦では投手陣の声を反映して城戸が先発になり、城戸の攻守にわたる活躍で徳武に出るチャンスはなく、ついに連続出場記録は821でストップ[13]

1968年にはヘッドコーチとして古巣・南海に復帰し、1969年には鶴岡の勇退を受け監督に就任したが、選手に気配りをしてかえってチームには甘ったれた空気が流れた[15]。野村克也が夏場に故障、エース役の皆川睦男も開幕からケガで出遅れた[15]。6月に球団ワースト記録の15連敗、野村は本塁打22本、打率・245、打点52とガクンと成績が落ち、投手は西岡三四郎が10勝、皆川は5勝に終わった[15]島野育夫左翼手のレギュラーの座をつかんだ[15]。戦後初の最下位となり責任を取る形で辞任[15]。監督として両リーグで初めて最下位になった監督でもある[16]。後任には野村が選手兼任監督として昇格した。

辞任後はNETテレビ→テレビ朝日解説者を務める傍ら、喫茶店を開業し駅ビル商店会のよき相談役であった[17]1981年野球殿堂入り。

2000年6月19日、心筋梗塞のため死去。76歳没。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1947 南海 94 371 336 35 85 15 3 4 118 31 12 12 1 -- 31 -- 3 22 -- .253 .322 .351 .673
1948 138 575 532 71 149 30 4 14 229 92 16 11 0 -- 42 -- 1 38 -- .280 .334 .430 .764
1949 135 596 537 103 173 31 3 27 291 101 21 6 0 -- 59 -- 0 38 -- .322 .389 .542 .931
1950 120 538 462 90 151 33 6 23 265 97 30 12 0 -- 74 -- 2 41 11 .327 .422 .574 .996
1951 100 441 402 63 119 20 4 15 192 87 19 8 0 -- 38 -- 1 33 11 .296 .358 .478 .836
1952 121 531 473 100 153 29 4 18 244 86 40 13 0 -- 55 -- 2 49 5 .323 .396 .516 .912
1953 120 525 466 91 138 36 4 12 218 73 48 13 2 -- 57 -- 0 34 10 .296 .373 .468 .841
1954 140 550 473 83 133 17 3 18 210 74 48 22 3 6 67 -- 1 41 13 .281 .372 .444 .816
1955 143 610 525 79 163 21 5 14 236 75 42 18 3 8 72 2 2 47 5 .310 .396 .450 .845
1956 154 657 579 76 146 27 9 6 209 62 45 8 5 8 64 3 1 63 18 .252 .328 .361 .689
1957 国鉄 130 542 492 67 144 20 7 9 205 39 40 13 3 3 40 1 4 51 10 .293 .351 .417 .767
1958 38 154 143 12 35 2 4 2 51 13 4 5 1 1 9 0 0 22 0 .245 .289 .357 .646
1959 127 486 442 52 131 25 7 4 182 29 10 9 4 2 38 1 0 43 7 .296 .352 .412 .764
1960 127 459 419 46 114 13 3 7 154 40 7 3 1 1 37 3 1 61 12 .272 .333 .368 .700
1961 130 520 465 40 107 14 1 8 147 51 7 6 14 2 38 0 1 61 11 .230 .290 .316 .606
1962 63 120 109 4 13 2 0 1 18 5 1 1 3 1 6 0 1 29 7 .119 .172 .165 .338
1963 85 124 115 7 24 5 0 1 32 14 0 1 2 1 6 0 0 18 0 .209 .248 .278 .526
通算:17年 1965 7799 6970 1019 1978 340 67 183 3001 969 390 161 42 33 733 10 20 691 120 .284 .354 .431 .784
  • 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はNPBにおける歴代最高

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1947 南海 2 0 0 0 0 0 0 -- -- ---- 18 4.0 4 0 2 -- 0 3 1 0 2 1 2.25 1.50
通算:1年 2 0 0 0 0 0 0 -- -- ---- 18 4.0 4 0 2 -- 0 3 1 0 2 1 2.25 1.50

年度別監督成績

年度 チーム 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
1966年 昭和41年 サンケイ 5位 135 52 78 5 .400 37.0 86 .214 3.16 42歳
1967年 昭和42年 5位 106 42 50 4 .411 26.0 120 .240 3.68 43歳
1969年 昭和44年 南海 6位 130 50 76 4 .397 26.0 85 .241 3.56 45歳
通算:3年 371 144 214 13 .402 Bクラス3回
※1967年、休養期間の29試合(16勝12敗1分)は通算成績に含まない。監督代行は中原宏

タイトル

  • 打点王:2回 (1951年 - 1952年)
  • 盗塁王:1回 (1957年)
  • 最多安打:2回 (1952年、1955年) ※当時連盟表彰なし、1994年より表彰

表彰

記録

節目の記録
  • 1000試合出場:1955年5月15日 ※史上31人目
その他の記録

背番号

  • 23 (1947年 - 1969年)

脚注

  1. ^ a b 『プロ野球人名事典 2003』日外アソシエーツ、2003年、p.29
  2. ^ 日本野球機構 |歴代最高記録
  3. ^ 堤哲 2010, p. 160.
  4. ^ a b c d e f g h i j 『野球殿堂2012 The Baseball Hall of Fame』野球体育博物館(編集)、ベースボール・マガジン社、2012年、pp.64-65
  5. ^ ベースボール・マガジン社 (編) 2008, p. 60.
  6. ^ “ホークスの歩み(1951年)”. 福岡ソフトバンクホークス. https://www.softbankhawks.co.jp/ocms/pc/team/history/vol02.html 2020年3月26日閲覧。 
  7. ^ ベースボール・マガジン社 (編) 2008, p. 69.
  8. ^ “山田、4番で盗塁王!59年ぶり快挙狙う 真中監督が固定明言”. スポーツニッポン. (2016年6月22日). https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2016/06/22/kiji/K20160622012826310.html 2022年12月10日閲覧。 
  9. ^ ベースボール・レコード・ブック 日本プロ野球記録年鑑1983』ベースボール・マガジン社、1982年、p.709
  10. ^ a b c d 堤哲 2010, p. 162.
  11. ^ a b 徳永喜男『ヤクルトスワローズ球団史』、ベースボール・マガジン社、pp.156-157
  12. ^ a b 越智正典 (2021年10月31日). “飯田徳治引退試合で見せた野村克也の粋な計らい”. 東京スポーツ. https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/117267 2022年12月10日閲覧。 
  13. ^ a b c d e f g h i j k l m n 徳永喜男『ヤクルトスワローズ球団史』、ベースボール・マガジン社、P163-174
  14. ^ a b 1950-2011 わが愛しのスワローズ 国鉄から始まった栄光の軌跡』ベースボール・マガジン社〈週刊ベースボールプラス6〉2011年、90-91頁
  15. ^ a b c d e HAWKS the 70th―ホークス栄光の軌跡、ベースボール・マガジン社、2008年、P92
  16. ^ 日本一翌年に最下位…楽天、来季に向けDeNA・ブランコ獲りへ サンケイスポーツ、2014年10月8日配信
  17. ^ 堤哲 2010, p. 163.
  18. ^ 『日本スポーツ事典トピックス1964-2005』日外アソシエーツ、2006年、p.333

参考文献

  • 堤哲『国鉄スワローズ1950-1964 400勝投手と愛すべき万年Bクラス球団』交通新聞社〈交通新聞社新書〉、2010年8月15日。ISBN (978-4330156101)。 
  • ベースボール・マガジン社 編『HAWKS the 70th―ホークス栄光の軌跡』ベースボール・マガジン社、2008年11月1日。ISBN (978-4583101194)。 

関連項目

外部リンク

  • 個人年度別成績 飯田徳治 - NPB.jp 日本野球機構
  • 野球殿堂 飯田徳治
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