来歴
商事会社経営、サラリーマンを経て、「山王クラブ」という政治研究グループを結成し選挙問題の研究をしていた。また、実業家で衆議院議員の藤山愛一郎の主催する政治塾「藤山政治大学院」で受講生の指導にあたっていた。「政治をよくするためには選挙制度をよくしなければならない」という考えの下、「理想の選挙」を掲げ、レポートを国会議員に配布するが、ほとんどの議員から「選挙を実際に知らないから、こんなことが言えるのだ」と冷笑されたという[1]。
1962年7月の自民党総裁選への出馬を見据えた藤山は、この年の参院選全国区の候補者に、いとこでタレントの藤原あきを擁立。藤山は飯島に「君たちがいままで勉強したものを実地にやってみたらどうかね。結果については私が責任を持つ。きれいな選挙というものを試してみなさい」と声をかけ、選対の選挙参謀に加えた。藤山政治大学院の受講生から、平均年齢21歳の若手運動員が選挙スタッフとして抜粋され、事務長の小泉純也衆議院議員と娘の小泉信子のほか、飯島、小林錡衆議院議員の元秘書の原嶋亮二[2]、日本大学法学部を卒業したばかりの杉浦和彦らが選対の中心メンバーとなった[3]。選挙参謀として、藤原を参院選全国区トップ当選に導く[4]。
1967年8月8日に藤原が任期中に死去すると[5]、1968年の参院選では石原慎太郎の選対に入った[6]。石原もトップ当選を果たした[4]。マーケティング理論や社会心理学を応用した、イメージ重視の選挙キャンペーンの先駆者であった[7]。
その後は、選挙解説者、政治評論家、コメンテーターとして、テレビ番組に多数出演した。「日曜放談」のレギュラー、自民党洋上大学の講師[8]も務めた。
中曽根康弘元首相のブレーンとして知られ、1985年9月に政府税制調査会特別委員に任命された。1987年7月21日、臨時行政改革推進審議会の土地対策検討委員会(土地臨調)のメンバー22人が決定。江副浩正、本間義人、屋山太郎、石原信雄らとともに飯島もメンバーに選ばれた[9]。
1988年11月、譲り受けたリクルートコスモスの未公開株1万株で約2,200万円の売却益を得ていたことが発覚(リクルート事件)[10]。このため政府税制調査会特別委員を辞任した[11]。また「日曜放談」など、一時ほぼ全てのメディアから降板となる。後に復活するが事件以前ほどの活躍はできないままであった[要出典]。
1996年4月26日に死去。66歳没。
著書・編書
脚注
- ^ 佐野美和 (2020年4月5日). “灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(95)”. フォーサイト. 新潮社. 2020年6月2日閲覧。
- ^ 『中日新聞』1971年4月17日付朝刊、三河版、9面、「岡崎市長選 横顔と公約」。
- ^ 佐野美和 (2020年4月19日). “灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(97)”. フォーサイト. 新潮社. 2020年6月2日閲覧。
- ^ a b “飯島 清とは”. コトバンク. 2019年6月14日閲覧。
- ^ “藤原 あきとは”. コトバンク. 2019年6月14日閲覧。
- ^ “石原知事定例記者会見録 平成19年3月16日”. 東京都庁 (2007年3月20日). 2020年6月2日閲覧。
- ^ 河村直幸 「現代日本の選挙キャンペーン広告史-草創期-」(現代社会文化研究N0.21)
- ^ 木村伊量「全容 無謀の構図 (23) 中央研修 息子をやっと秘書に 政治評論家に仲介頼む」 『朝日新聞』1980年11月19日付朝刊、三河版西。
- ^ 『朝日新聞』1987年7月22日付朝刊、3面、「土地臨調の委員が決定 結局22人に」。
- ^ 『朝日新聞』1988年11月27日付朝刊、30面、「政府税調の『暴れ馬』、飯島氏も1万株(追跡・リクルート疑惑)」。
- ^ “飯島清/政府税調特別委員辞任/1988年12月16日”. 2月13日の今日は何の日?. 2017年7月31日閲覧。