小林 錡(こばやし かなえ、1888年3月3日 - 1960年10月25日)は、日本の政治家、検察官。衆議院議員(通算8期)、裁判官弾劾裁判所裁判長などを歴任した。
来歴
愛知県西加茂郡寺部村(現・豊田市)に生まれる。1903年(明治36年)3月、高橋村寺部尋常高等小学校(現・豊田市立寺部小学校)を卒業。1908年(明治41年)3月、東京府青山師範学校卒業。同年4月、東京市麹町尋常小学校(現・千代田区立麹町小学校)の訓導となる[1]。
1912年(明治45年)、日本大学法文学部英法科卒業。1915年(大正4年)12月、判事検事登庸試験に合格。佐賀地方裁判所、甲府地方裁判所、東京地方裁判所などで検事を務める[1]。
1923年(大正12年)、ドイツに留学。ベルリン大学法科で欧米各国における政治経済法律を研究する[2]。1926年(大正15年)、同大学卒業[3]。1927年(昭和2年)2月に帰国。同年4月、日本大学教授に就任。また同年、ベルリン大学留学時代に知り合った文科の学生のゲルト・ルードと結婚[4]。
1928年(昭和3年)の第1回普通選挙に旧愛知4区から立憲政友会公認で出馬するも落選[5]。1930年(昭和5年)2月20日に行われた第17回衆議院議員総選挙で初当選した。1932年(昭和7年)、1936年(昭和11年)と当選を重ねる。
1937年(昭和12年)の総選挙は落選[6]。1942年(昭和17年)の総選挙は翼賛政治体制協議会の推薦が得られず落選[7][8]。
戦後、最初に行われた1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙に大選挙区制の旧愛知2区から出馬し当選。6月4日、第1次吉田内閣の商工政務次官に就任。しかし公職追放を受けたため、1947年(昭和22年)3月4日に同職を辞任。1947年の総選挙と1949年(昭和24年)の総選挙にも出馬することができなかった。1951年(昭和26年)8月、公職追放解除。1952年(昭和27年)と1953年(昭和28年)の選挙で当選。1955年(昭和30年)2月27日に行われた総選挙では落選。ところが当選者の永田安太郎が同年5月13日に死去したため繰り上げ当選を果たす[9]。1957年(昭和32年)、第46回列国議会同盟会議に日本議員団長として参加[2]。
1958年(昭和33年)の総選挙も当選。議員在職中、衆議院法務委員長や裁判官弾劾裁判所裁判長、日本大学法学部長などの要職に就いた[2]。
衆議院解散翌日の1960年(昭和35年)10月25日、脳出血により東京都品川区の自宅で死去[2]。72歳没。地盤は同郷の浦野幸男が引き継いだ[10]。
衆議院議員総選挙の結果
著書
- 『改正刑事訴訟法解説』大成出版社、1953年。
- 『政治犯罪の類型』新生社、1958年。
脚注
- ^ a b 『小林錡先生』小林錡先生顕彰会、1963年9月1日。
- ^ a b c d 『愛知新聞』1960年10月27日、「小林錡氏死去 惜しまれる政界の大物 清廉、潔白で一生を通す」。
- ^ 『新訂 政治家人名辞典』日外アソシエーツ、2003年10月27日、251頁頁。
- ^ 福岡寿一編『めおと善哉』東海タイムズ社、1958年8月5日、31頁。
- ^ 『新編 岡崎市史 近代 4』新編岡崎市史編さん委員会、1991年3月30日、1013-1018頁。
- ^ 『愛知県議会史 第七巻』愛知県議会、1969年3月10日、254頁。
- ^ 『愛知県議会史 第八巻』愛知県議会、1971年3月30日、399頁。
- ^ 『岡崎市議会史 上巻』岡崎市議会史編纂委員会、1992年10月22日、592-593頁。
- ^ 『東海新聞』1955年5月14日、1面、「永田安太郎代議士逝去 法曹界、政界へ輝かしい足跡残して 次点の小林錡氏の繰上げ当選」。
- ^ 『中部日本新聞』1960年10月30日付朝刊、三河版、4面、「浦野氏が身代わり 小林錡氏急死で 四、五区公示前日に新情勢」。