八世野村万蔵(のむら まんぞう、1959年〈昭和34年〉8月9日 - 2004年〈平成16年〉6月10日)は、日本の狂言方和泉流能楽師。野村万蔵家8代目当主。本名・野村 耕介(のむら こうすけ)。東京都豊島区出身。 弟に九世野村万蔵(二世与十郎)。長男は野村太一郎[1]。甥に 六世野村万之丞、野村拳之介、野村眞之介がいる。(いずれも弟・九世万蔵の子)。また、「八世野村万蔵」は死後贈られたもので、生前は「五世野村万之丞」や本名である「野村耕介」の名前で親しまれた(後述)。
のむら まんぞう 野村万蔵 (贈八世) | |
---|---|
本名 | 野村 耕介(のむら こうすけ) |
別名義 | 五世 野村 万之丞 (ごせい のむら まんのじょう) |
生年月日 | 1959年8月9日 |
没年月日 | 2004年6月10日(44歳没) |
出生地 | 日本・東京都豊島区 |
死没地 | 日本・東京都渋谷区広尾・日本赤十字社医療センター |
国籍 | 日本 |
職業 | 狂言方能楽師 |
ジャンル | 能楽 |
活動期間 | 1963年 - 2004年 |
活動内容 | 狂言、狂言のほか舞台、大田楽等プロデュース |
配偶者 | あり |
著名な家族 | 初世野村萬斎(曾祖父) 野村拳之介(甥) 野村眞之介(甥) 野村万作(叔父) 野村四郎(叔父) 野村萬斎(従兄弟) 野村万禄(従兄弟) |
事務所 | 萬狂言 |
主な作品 | |
『楽劇大田楽』 『現代狂言』 『楽劇平和楽』 映画・『萬歳楽』(演出) ドラマ・「余命半年――生前給付3000万円の夢」(主役、1998年) |
1959年、野村萬(七世野村万蔵)の長男として東京都豊島区に生まれる。幼稚園から高校まで学習院に学び、浩宮徳仁親王(現在の今上天皇)とは学友であった。
1995年1月に父・野村萬(七世野村万蔵)から万蔵家当主を譲られ野村万蔵家八代目当主となると共に五世野村万之丞を襲名した。万蔵家当主として一門を総括する組織『萬狂言』を設立した他、長野オリンピック閉会式の演出や「大田楽」の復興や大河ドラマでの芸能考証やお笑い芸人とのコラボレーションなど狂言以外の分野においても活躍した。
八世野村万蔵襲名を半年後に控えていた2004年6月10日、父の萬に先立ち満44歳で死去した(没後の2005年1月に八世野村万蔵を追贈された)。
「現代狂言」や新たな「大田楽」の構想などを遺した志半ばでの死であったが、その遺志を継いだ弟・九世野村万蔵がその活動の多くを受け継いでいる。
生涯
幼少期・青年期
1959年8月9日、四世野村万之丞(現在の初世野村萬)と妻・登美子の長男として誕生する。幼い頃は弟の良介(九世万蔵)と共に祖父の六世万蔵から厳しい稽古を受けていたという。
1963年に学習院幼稚園に入園し、浩宮徳仁親王の学友となる。以後、浩宮徳仁親王と公私共に親しく交流する事になる。学習院幼稚園入園後は、高校卒業まで学習院に学ぶ。
1990年5月24日、長男の太一郎が誕生する。
万蔵家の当主として
1995年1月、父・野村萬(七世野村万蔵)から家督を譲られ、野村万蔵家八代当主になるとともに五世野村万之丞を襲名。
万蔵家当主としての他に、イベントのプロデューサーとして長野パラリンピック閉会式の演出や、古来より日本各地で行われている芸能である田楽を「楽劇大田楽」として構成、総合芸術家として『TMDネットワーク』を主催。またマルチメディア関連の活動にも積極的で、文化庁のCD-ROM、通産省のDVD-ROMコンテンツ制作に携わった。NHK大河ドラマの芸能考証も務める。2000年には野村万蔵家の組織「萬狂言」を設立し、それを率いた。2001年、フランス芸術文化勲章シュヴァリエ章を受章[2]。
死去・没後
2004年4月、文化芸術交流団団長として北朝鮮を訪問し平壌にて狂言と「楽劇大田楽」を披露する。尚、この旅には父の野村萬も同行している。また、同年2月には母の登美子が死去している。
訪朝から僅か2カ月後の2004年6月10日、神経内分泌がんのため日本赤十字社医療センターにて死去。満44歳没(享年46)。辞世の句は「万蔵に万感の思いで千秋楽」であった。母の登美子の死から僅か4カ月後の事であり、残された父・萬に先立つ死となった。[3]。八世野村万蔵を襲名する目前であったが、死後に追贈された[2]。
野村万蔵家が継承すべき名跡で、万蔵を継ぐ者だけが名乗る「万之丞」の名は甥の虎之介が継いだ。
生前は「人、人にあらず、継ぐを以て家とす。」(家とは組織であり、とにかく継いでいくことが大切である。)などの言葉を残している。
全国各地での基調講演にて、「文化とは形を変えて心を伝えるもの」という言葉を残した。ほとんどの事業を完遂させられないままでの道半ばでの早世であったが、その大半の事業は弟・九世万蔵が引き継いでいる。また「万之丞」の名跡の後継者となった甥の六世万之丞(虎之介)もYoutubeチャンネル開設やTwitter開設など万蔵の志を継いだ新しい狂言のあり方を模索している。
年譜
- 1959年8月9日:四世野村万之丞(現在の初世野村萬)の長男(下に弟と妹がいる)として誕生する。
- 1963年:3歳で「靭猿」にて初舞台。
- 1964年:学習院幼稚園に入園し、浩宮徳仁親王(今上天皇徳仁)と学友になる。以後、高校卒業するまで学習院にて学ぶ。
- 1984年:秘曲とされてきた狂言・「越後婿」を万之丞個人の会「蝸牛の会」にて新たな形で上演する。この上演から38年後の2022年に甥の六世万之丞(虎之介)が「越後婿」を新たな形で上演した。
- 1990年:長男の太一郎が誕生する。この年、「楽劇大田楽」を初演する。
- 1995年:五世野村万之丞を襲名すると共に野村万蔵家八代目当主となる。
- 1996年:NHK大河ドラマ「秀吉」の芸能考証を勤める。また同年、日本楽劇人協会(ACT.JTの前身)を設立した。
- 1998年:長野オリンピックの閉会式の演出を担当する。
- 2000年:一門を統括する組織の「萬狂言」を設立。死去するまで代表を務める。なお、この年、父の七世万蔵は「初世野村萬」に改名した。
- 2002年:大河ドラマ「利家とまつ」にて田楽の指導をする。
- 2003年:「大田楽」に関する組織ACT.JTを設立し、初代理事長となる。
- 2003年:2005年1月に「八世野村万蔵」を襲名する事が公表された。
- 2004年4月:文化芸術交流団団長として北朝鮮を訪問し平壌にて狂言と「楽劇大田楽」を披露する。尚、この旅には父の野村萬も同行している。
- 2004年:北朝鮮から帰国した直後、病に倒れる。
- 2004年6月10日:神経内分泌がんの為日本赤十字社医療センターにて死去。満44歳没(享年46)。辞世の句は「万蔵に万感の思いで千秋楽」であった。八世万蔵襲名を半年後に控えた中での早世であった。
- 2005年1月:弟・良介の九世野村万蔵襲名披露と同時に「八世野村万蔵」を追贈された。
- 2017年1月:甥の虎之介が「六世野村万之丞」を襲名。
活動
五世万之丞(八世万蔵)は楽劇五部作のプロデュース完成をめざし音楽家、振付家、衣装コーディネーター、俳優、ダンサーらと協同作業を重ね「楽劇大田楽」、「楽劇真伎楽」、「楽劇平和楽」を誕生させた。続けて取り組む予定だった歌垣、猿楽は五世万之丞の早世により未完となった。2004年の五世万之丞(八世万蔵)没後は「楽劇大田楽」は、「大田楽」として各地のお祭りや文化交流として催し五世万之丞(八世万蔵)の遺志を継いだ弟・九世野村万蔵による新しい演出やコラボレーションにより、展開している。「楽劇真伎楽」はもともと完成した形ではなくこれから公演するそれぞれの国の芸能とコラボしながら創り上げていくという五世万之丞の発想の元に誕生した作品であった。
真伎楽について
五世万之丞(八世万蔵)は本職である狂言の仮面との出会いをきっかけに、仮面を追及し、たどり着いた「伎楽」を再生したいとアジアをフィールドワークした。構想から10年後の2001年、アジア各国の俳優やダンサー、音楽家を集め、ディスカッションとワークショップを重ね、新たな伎楽、真の伎楽の再生に着手した。「楽劇真伎楽」はこうして誕生した。
また、シルクロードを伝わって日本にきた芸能を、新たに再生した「真伎楽」で溯り訪ねた地の俳優や音楽家たちとコラボレーションしながら、その国その国の「真伎楽」を作って行こうというプロジェクト「マスクロードプロジェクト」をスタートさせた。
マスクロードプロジェクトは、2001年10月に東京都庁前広場で初演し、以降、奈良県の明日香、福岡県の太宰府での公演を経て韓国へ渡り、扶余とソウルで上演した。この道は、約1500年前に百済の味摩之が日本に伎楽を伝えた道の逆流で、まさに文化の里帰りといえるものであった。ソウル景福宮公演では日韓両国の子どもたちが多数参加し、盛り上がった。2002年にはワシントンスミソニアン博物館にて上演した。2004年には、日米和親条約締結150周年記念事業メインイベント「楽劇日本楽」の一部として、ケネディセンター大ホールで上演した。 2004年には北朝鮮の首都平壌における「4月の春親善芸術祝典」にて公演、パレードにも参加し喝采を浴びた。こうしてマスクロードは昔の高句麗へとその道を延ばしたのだった。しかし、公演の2カ月後の2004年6月10日に五世万之丞(八世万蔵)は44歳で世を去ることになる。
五世万之丞(八世万蔵)没後、志半ばで死去した万之丞の遺言でもあった中国公演を2007年に実施した。日中国交正常化35周年、遣隋使1400年記念事業の一環として、北京・西安・上海・揚州で上演する事になった。
大田楽と「楽劇」大田楽について
歴史
大田楽は、五世万之丞(八世万蔵)を中心に学術研究者、能楽師、舞踊家、若手の俳優ダンサーにより作られた。その後五世万之丞(八世万蔵)は「わざおぎ」という大田楽を学び継承するセミプロを設立し、さらに市民参加により一緒に作り上げる祝祭としての性格を強め、市民が躍る「番楽」が創作されていた。
プロから市民へと大田楽の担い手は移行していったものの、それは「文化とは形を変えて心を伝えるもの」という五世万之丞(八世万蔵)の信念に基づいた必然的な流れであった。演出、音楽、ソロパートなどはプロがフォローする形となった。
五世万之丞(八世万蔵)は、外部から守る目的で「楽劇大田楽」という名前を商標登録した。2004年の五世万之丞(八世万蔵)没後はその商標は妻の野村久美子が相続した。一時期、野村久美子はACT.JTの理事長でもあったが現在は、長男の野村太一郎とともに野村万蔵家からもACT.JTからも離れている(後任理事長は父の野村萬)。野村親子がACT.JTを離れた直後から、ACT.JTと弟の九世野村万蔵(野村万蔵家)は「楽劇大田楽」という名称は使用せず、「楽劇」の文字を外し、「大田楽」あるいは「〇〇(地域名)大田楽」などの呼称で大田楽を開催している。
「わざおぎ」について
1991年、大田楽の作者である五世万之丞(八世万蔵)が新しい次代の文化を継承していく人材を市民から育てたいと考え「楽劇わざおぎ塾」を開設したことに始まる。
それまで、能楽師や舞踊家、俳優といったプロ集団によって上演されていた大田楽は、多種多彩な講師陣の指導を受けた塾生で演じられるようになり、やがて、市民参加をした人たちから、地元の「わざおぎ」を結成するようになり、現在の形へと変化していった。現在わざおぎは全国七箇所に存在し、年間を通して様々なジャンルの講師の指導を受け、大田楽の中枢を担って、国内外に活動展開している。 また、「わざおぎ」の名づけ親は五世万之丞(八世万蔵)本人で、名前の由来となった「わざおぎ」は手振りや足踏みで面白おかしい技をして、歌い舞い楽しませる人を意味し、神を招く技をなすという「わざおぎ」の故事に基づいて名づけられた。
主な著作物
- 映画「萬歳楽」演出、監督(1999年)
- 「萬狂言の世界・七世野村万蔵の秘曲」総合監修(1999年)
主な出演作品
- ドラマ・「余命半年――生前給付3000万円の夢」(1998年)
家族・親族
受賞歴
- フランス芸術文化勲章であるシュヴァリエ賞を受賞(2001年)
- 「楽劇大田楽」にて文化庁芸術祭賞を受賞(1993年)
- 落語を狂言に仕立てた「死神」が文化庁芸術祭優秀賞と第一回織部賞を受賞(1997年)
脚注
出典
- ^ 中西正男 (2021年1月26日). “狂言界のホープ・野村太一郎が語る「今こそ響く」狂言の可能性”. 個人 - Yahoo!ニュース. Yahoo!. 2021年12月4日閲覧。
- ^ a b 野村太一郎. “”. 狂言師 野村太一郎. 有限会社コースケ事務所. 2019年12月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年12月23日閲覧。 “2001年 フランス政府から、日本におけるフランス文化の紹介、普及に貢献した人に贈られるフランス芸術文化勲章「シュバリエ」を受章する。”
- ^ “野村万之丞さんが死去/和泉流狂言師、幅広い活躍”. 四国新聞. 四国新聞社 (2004年6月10日). 2021年12月4日閲覧。