この記事は(検証可能)な(参考文献や出典)が全く示されていないか、不十分です。(2013年11月) |
護 雅夫(もり まさお、1921年〈大正10年〉3月30日 - 1996年〈平成8年〉12月23日)は、日本の東洋学者・歴史学者。専攻はトルコ民族史・内陸アジア史・トルコ学[4]。東京大学名誉教授。勲二等瑞宝章受章。日本学士院会員。
経歴・人物
生い立ち
滋賀県長浜町(現長浜市)真宗大谷派一心寺 11世住職 釋雅亮・春枝の長男として生誕[2][注 2] 。旧制県立虎姫中学校(現滋賀県立虎姫高等学校)から1938年第三高等学校文科甲類へ入学、「自由寮」での寮生活を始める[6][注 3]。
1941年(東京帝国大学)文学部東洋史学科入学、1943年9月卒業[注 4]と同時に同大大学院入学即日休学、10月に三期兵科予備学生として広島県江田島の海軍兵学校に入校、同年末まで教育・訓練をうけ[注 5]、1944年より海兵教官として国史を担当する[14]。
1945年3月中尉任官、8月敗戦、9月復員後大学院に復学し、和田清により(特別研究生)に採用される[15]。1946年3月に前田直典の提唱により組織された北方史研究会主催の柴田武(当時は言語学科助手)による現代トルコ語講習会に参加 [注 6]。ペルシア語、ロシア語、モンゴル語も学ぶ[16]。在学中は和田清、榎一雄から指導を受ける。
高校時代の安部健夫・大学時代の和田清両師の影響でアジア遊牧民の歴史的研究を志すようになる[17]。
歴史学者として:トルコ学
1948年、和田清の推挽により北海道大学法文学部助教授に任ぜられる[18]。1956年に東京大学文学部助教授となり、かつて自身も在籍した講座を受け継いだ。山本達郎の推輓により[19]ロックフェラー財団研究員として[20][21]1958年3月-1959年10月、トルコ(アンカラ・イスタンブル両大学)とドイツ(ハンブルク大学)へ留学。イスタンブル大学の(ラフメティ・アラト)、ハンブルク大学の(フォン・ガベン)[注 7]より古代テュルク語(突厥語・ウイグル語)の個人教授を受ける[23][24][注 8]。イスタンブル大学では日本史について講義した[4]。
1962年、東京大学より文学博士の学位を取得 ((学位請求論文):「古代北アジア遊牧民族史の研究」) [27]。1966年3月-5月には交換教授としてレニングラード大学 東洋学部、旧ソ連科学アカデミー所属アジア諸民族研究所で古代トルコ民族史の講義・講演を行う [21][28]。
1968年に東京大学文学部教授に昇任。1970年には日本学士院賞を受賞。1976年、トルコ イスタンブル大学客員教授となり、トルコ民族史と古代テュルク語についてトルコ語で講義を行う[注 9][注 10]。1981年4月東京大学を定年退官、5月名誉教授の称号を受ける[2]。
1981年から1991年まで日本大学文理学部教授に就く[4]。 この間、1982年3月-5月日本学術振興会の援助を得てアンカラに滞在し、梅村坦とともに「日本学術振興会 西アジア地域研究センター」の再建・設立に携わる[2][31][注 11]。1986年8月、ハンブルクでの第32回 国際アジア・北アフリカ研究会議(ICANAS)に日本学術会議と東方学会を代表して参加[33][注 12]。9月、トルコ アンカラ大学に日本学科を開設する任務を帯び、国際交流基金・日本大学から派遣され、1年間客員教授をつとめる[注 13]。北アジア史、シルクロード史とともに、日本史・文化入門、日本語講義を担当した[36]。
1992年、日本学士院会員となる。選定にあたり日本学士院は、専攻学科目として、それまでになかった「トルコ学」部門を新設しその研究領域とした[38][39][40]。
(1980-1981)史学会理事長、(1981-1986)東洋文庫附置ユネスコ東アジア文化研究センター所長、(1985-1988)日本学術会議第13期会員、(1985-1991)東方学会理事長[41]、(1986-1987)東洋文庫研究部長、(1987-1993)中近東文化センター理事長、トルコ共和国科学アカデミー(アタテュルク文化センター)名誉会員、 古代オリエント博物館理事、日本中国文化交流協会常任理事、出光美術館評議員、東方学会評議員、内陸アジア史学会顧問などを歴任する[4][2][42]。
晩年は神奈川県藤沢市に居住し[43][44][注 14]、約6年におよぶ闘病生活の間も執筆活動は続けたが[45] [46]、1996年12月肺炎のため相模原市の病院で没した[2]。没後同日づけで正四位に叙せられる[4][47]。
没後、トルコ人作家(アズィズ・ネスィン)[注 15]の作品、加えてネスィンのインタビュー記事[注 16]の翻訳原稿がみつかり林佳世子、(粕谷元)[注 17]、新井政美らが「出版のための体裁を整え」、2013年藤原書店より刊行となる(護 2013)[51]。
受賞・栄典
研究内容・業績
主著
単著
- 『近代以前の東洋』三省堂〈社会科歴史文庫 4〉、1956年。(全国書誌番号):(45021412)。
- 『古代トルコ民族史研究』(全3巻)山川出版社。 [注 18]
- 『遊牧騎馬民族国家-蒼き狼の子孫たち』講談社〈講談社現代新書 116〉、1967年。ISBN (978-4061155169)。[注 21]
- 『よくわかる世界史 新課程』旺文社〈よくわかるシリーズ〉、1973年。
- 『李陵』中央公論社〈中公叢書〉、1974年。NCID BN0260235X/〈中公文庫〉1992年。ISBN (978-4122019348)。
- 『古代遊牧帝国』中央公論社〈中公新書 437〉、1976年。ISBN (978-4121004376)。
- 『中央アジア史:シルクロードに興亡した国々』旺文社〈テレビ大学講座 現代アジア論 I〉、1981年。 NCID BN11699760。
- 『草原とオアシスの人々』三省堂〈人間の世界歴史 7〉、1984年。ISBN (978-4385406572)。
- 〈トルコ語〉 Prof. Dr. Masao Mori’nin Göktürkler : Ders Notları. Prof.Dr.Gülçin Çandarlıoğlu, ed., Türk Dünyası Araştırmaları Vakfı(『護雅夫博士の突厥:講義ノート』ギュルチン・チャンダルルオウル編、トルコ世界研究財団). (2019). ISBN (978-9754982541). NCID BB2863152X
訳書
- 『ナスレッディン・ホジャ物語-トルコの知恵ばなし』平凡社〈東洋文庫 38〉、1965年。ISBN (978-4582800388)。/ワイド版 2007年。ISBN (978-4256800386)。[注 22]
- カルピニ/ルブルク『中央アジア・蒙古旅行記』桃源社〈東西交渉旅行記全集 1〉、1965年。 NCID BN05122576。<執筆:巻末「モンゴル人と西方世界 — 両修道士派遣にいたるまで」>
- ※両者は修道士で、詳しくはプラノ・カルピニと、ウィリアム・ルブルックの項目を参照。
- S・ランシマン 『コンスタンティノープル陥落す』みすず書房、1969年、1983年(新装)、1998年(新装)。ISBN (978-4622049302) 。
- 『騎馬民族史 - 正史北狄伝』平凡社(全3巻)〈東洋文庫 197,223,228〉、1971年-73年。NCID BN01068945/ワイド版 2007年。NCID BA8839110X。- 共訳注者の一人
- デイヴィド・ホサム『トルコ人』みすず書房、1983年。ISBN (978-4622006008)。 [注 24]
- アズィズ・ネスィン『口で鳥をつかまえる男』藤原書店、2013年。ISBN (978-4894349155)。 ※初邦訳・16篇の短篇小説+A.ネスィンのインタビュー記事 [注 25]
共著
- 筑摩書房編集部編『東アジア文明の形成』筑摩書房〈世界の歴史 3〉、1960年、新版1968年、新訂版1978年。NCID BN01850844。<執筆:「匈奴:古代遊牧帝国の形成」>
- 筑摩書房編集部編『イスラム文化の発展』筑摩書房〈世界の歴史 7〉、1961年、新版1968年、新訂版1978年。NCID BN08704421。<執筆:「イスラム世界帝国の完成」「タンズィマート」[注 27]「座談会:イスラム国家における君主の問題 (板倉勝正・嶋田襄平・護雅夫) 」>
- (別枝達夫)『絹の道と香料の島』文藝春秋〈大世界史 9〉、1968年。 NCID BN0278266X。<執筆:1-8章>
- 嶋田襄平編『イスラム帝国の遺産』平凡社〈東西文明の交流 3〉、1970年。NCID BN01848343。<執筆:「オスマン帝国の遺産」>
- (三上次男・(佐久間重男))『中国文明と内陸アジア』講談社〈人類文化史 4〉、1974年。 NCID BN0188399X。<執筆:「第二部 内陸アジア遊牧民の世界」「第三部 新しい体制への歩み 3「タタールの平和」」>
- (牟田口義郎)『アラブの覚醒』講談社〈世界の歴史 22〉、1978年。 NCID BN02413266。
- (加藤九祚・長沢和俊)『シルクロード』筑摩書房〈読書マップ〉、1983年。 NCID BN04223986。[注 28]
編著
- 『日土会話練習帖』大学書林、1966年。 NCID BA41778900。
- 『漢とローマ』平凡社〈東西文明の交流 1〉、1970年。 NCID BN01905888。
- 『内陸アジア・西アジアの社会と文化』山川出版社、1983年。 NCID BN01452003。[注 29]
共編著
- 『(岩波講座 世界歴史)』岩波書店、1969-71年。- 全30巻中6巻に執筆
- 第6「北アジア・古代遊牧国家の構造」pp.359-386。1971年。NCID BN02399482。
- 第8「西アジア世界 総説」pp.3-32。1969年。NCID BN01797683。
- 第9「内陸アジア世界の展開I 総説」pp.3-17。1970年。NCID BN01859929。
- 第21「オスマン帝国の改革運動 1トルコの改革運動」pp.386-410。1971年。(全国書誌番号):(73015989)。
- 第25「トルコ革命」pp.451-475。1970年。NCID BN0186884X。
- 第30「西アジアにおける歴史意識」(別巻 現代歴史学の課題) pp.35-77。1971年。NCID BN0185721X。
- 『内陸アジア史論集』(全2巻:国書刊行会 1979-80年)。NCID BN00478307。[注 30]
- (神田信夫)『北アジア史(新版)』山川出版社〈世界各国史 12〉、1981年。NCID BN01429001。<執筆:「まえがき」「序説」「第二章 遊牧国家の成立と発展」「第三章 遊牧国家の「文明化」」>
- (前嶋信次・杉勇)『オリエント史講座』(全6巻)學生社、1982-86年。NCID BN00154451。<執筆:「序説」『第3巻 渦巻く諸宗教』1982/「コンスタンティノープルの征服」『第5巻 スルタンの時代』1986>
- (岡田英弘)『中央ユーラシアの世界 民族の世界史 4』江上波夫・岡正雄監修、山川出版社、1990年。ISBN (978-4634440401)。<執筆:まえがき pp.i-v>[注 31]
監修
- 護雅夫[監修] ; 並河萬里[写真] ; 高橋昭一・護雅夫訳『トプカプ宮殿博物館』 全5巻+別冊1巻『トプカプ宮殿博物館概論』ケマル・チュー(Kemal Çığ) 著;護雅夫 訳、トプカプ宮殿博物館全集刊行会、1980年。 NCID BN04925134。
海軍兵学校
- 「海軍兵学校・研究室・みづほ館」『戦中戦後に青春を生きて 東大東洋史同期生の記録』神田信夫・山根幸夫編、山川出版社、1984年、117-143頁。ISBN (978-4634640702)。[注 32]
- 「三角形と蚯蚓-解説にかえて-」『江田島教育』豊田穣著、集英社〈集英社文庫〉、1983年、252-260頁。ISBN (978-4087506976)。[注 33]
エッセイ・寄稿
- 「「勤勉さ」からの決別」『道 昭和の一人一話集』 9巻、上山義雄 編、中統教育図書、1984年9月、105-111頁。(全国書誌番号):(85014076)。
- 「外国語は少しでも油断すると忘却の彼方へ」『私の外国語上達法』安原顯 編、メタローグ〈リテレール・ブックス 2〉、1994年5月、28-33頁。ISBN (978-4839810023)。
- 「死ぬまで直らぬ蒐書癖と無精」『私の「本」整理術』安原顯 編、メタローグ〈リテレール・ブックス 8〉、1994年8月、28-31頁。ISBN (978-4839810085)。
- 「癌告知を契機に、人生を濃密に生きる日々」『私の死生観』安原顯 編、メタローグ〈リテレール・ブックス 10〉、1994年9月、36-39頁。ISBN (978-4839810108)。
- 「男の社交場 トルコのカフェ」『想い出のカフェ:ドゥマゴからの贈り物』井上俊子 編、Bunkamura、1994年9月、8-11頁。 NCID BA31361776。
- 再録 「男の社交場 - トルコのカフェ」『世界カフェ紀行:5分で巡る50の想い出』中央公論新社編、中央公論新社〈中公文庫〉、2023年2月、110-113頁。ISBN (978-4122073241)。
- 「旅の醍醐味は、異国の人と話し、理解しあうこと」『私の海外旅行術』安原顯 編、メタローグ〈リテレール・ブックス 12〉、1994年10月、80-83頁。ISBN (978-4839810122)。
- 「学生も教師もつまらぬことで多忙すぎる」『日本の大学どこがダメか』安原顯 編、メタローグ、1994年12月、144-147頁。ISBN (978-4839820046)。
脚注
注釈
- ^ 門脇願珠(広島高等師範学校 英語学 教授[1])二女として生誕、1948年4月に結婚[2]。歌集『道程』を上梓[3]。
- ^ 1957年に父が急逝、釋雅夫として12世住職をほぼ4年間継承[5]。「住職とは名ばかりであったが、それでも、休暇には帰郷して法要はもとより葬儀での導師もつとめた」:護 1994, p. 38
- ^ 三高時代の19歳、『自由寮報』や全校の『嶽水会雑誌』によく投稿していた [7]/寄稿:「「孤独」と「共在」-一年生の人々に」『自由寮報』24 8面、1940.5/「小さい研究-陶淵明に於ける儒教的なるもの」『自由寮報』26 4-5面、1940.10[8]。
- ^ 卒業論文のテーマは探馬赤、和田清の勧めを受け論文の一部を2編に分け手渡したものが、兵学校時代に公刊された[9]:「元初に於ける「探馬赤部族」について」『北亞細亞學報』3輯、1944年。NCID BA77783414/「探馬赤部族考序說」『史學雜誌』55編1號、1944年。論文原文は敗戦後の混乱で焼失[10][11]。
- ^ 同期予備学生に布目潮渢、山田信夫、佐伯彰一らがいる[12][13]。
- ^ 講習テキストにナスレッディン・ホジャの逸話があったことが、訳書上梓(護 1965)のきっかけとなり「いろんな意味で、柴田さんは私の先生なのである」:護 1996, pp. 23, 26–27
- ^ 2度来日し、ウイグルに関する講演・講義・セミナーなどを行う:1962年・1975年。1962年の講演は護雅夫 訳により発表される:「ウィグル王国における品位のある姿勢(講演要旨)」『東洋学報』第45巻第3号、東洋文庫、1962年12月、378-388頁。[22]
- ^ 37歳で最初に一年近く留学したのはアンカラ大学 言語歴史地理学部。当時アンカラ在住の日本人は「大使館員をのぞくと私一人であった」[25]。当時外務省トルコ語在外留学生であった高橋昭一と懇意にする [20] 。イスタンブルでは牟田口義郎(当時カイロ在住 朝日新聞中東特派員)と出会い交流を続け、20年後に共著(護 1978)を刊行[26]。
- ^ 1年間の講義内容が、G.チャンダルルオウル博士[29]により書籍化され、2019年刊行:Prof. Dr. Masao Mori’nin Göktürkler.
- ^ 大学での講義に加え、トルコ・日本婦人友好文化協会の要請によりイスタンブル総領事館一室で日本語講座を開く[30]。
- ^ ケマル・アタチュルク伝記執筆のための資料収集も目的のひとつであった[30][32]。
- ^ イェニセイ碑文に関する発表を英語で行う[34]。
- ^ トルコでの日本学教育は、日本留学から帰国したプラト・オトカンPulat Otkan (1942-2014)[35] により、1978年言語歴史地理学部 中国学科の選択科目として日本語教育が開始され、1986年公的教育機関として初めて日本語日本文学科の設立となり、17名の一年生が入学する[36][37]。
- ^ 72歳の12月、写真家中野六郎により自宅書斎デスクの前で撮影が行われ、翌年刊行される:『文化を創る人たち-湘南:中野六郎写真集』湘南写真工房、1994.8, p.34。 NCID BA66977419。※小倉遊亀、城山三郎、團伊玖磨ら各界の湘南在住112名の肖像。
- ^ ※A.ネスィンとの交流はナスレッディン・ホジャが縁となり1960年代に始まる:翻訳(護 1965)を思いたった際イスタンブルの一古書肆から「ホジャ研究の第一人者であるだけでなく、かれ自身が現代トルコのホジャである」とネスィンを紹介され、以後文通を交わす。1982年アンカラ滞在時に書店で出逢い、ネスィン基金財団本部へも赴く[48]。
※D.ホサムも『トルコ人』の中で(護 1983a, pp. 227–234)ネスィンとホジャについて記述している[49]。 - ^ 1987年アンカラ滞在時に新聞掲載されたもの[50]。
- ^ “粕谷元(kasuya Gen)教授”. 日本大学 文理学部 史学科. 2022年12月22日閲覧。
- ^ 遺著は『古代トルコ民族史研究 III』。
なお各・新書判は、多数増刷。 - ^ 古稀を迎える1991年3月に第I巻の続編を刊行しようと提案・企画され取りかかるが、体調不全により古稀翌年の刊行となる。佐藤次高・梅村坦・片山章雄らにより論文の収集・選択がなされた[54][55]。
- ^ 編集全般担当は佐藤次高・梅村坦・片山章雄[56][57]。
- ^ 1993年刊(第22刷)には副題なし
- ^ 文通をしていたA.ネスィンに訳本を送ると、自身の編集雑誌で紹介した:「日本でナスレッディン・ホジャ物語が翻訳・刊行された。これは、恐らく、日本ではもちろん、東アジアでも最初の出版であろう」:護 1982b, p. 300。
- ^ 原本(護 1979)から「附録 ポーランド人ベネディクト修道士の口述」を削除:p.452〈原本と表記について〉。
- ^ David Hotham はイギリスのジャーナリスト、1966年まで8年間トルコに滞在。原著は1972年刊 英語版(護 1983a, p. 321 訳者あとがき, p.328 著者略歴)。
- ^ pp.7-198:小説16篇。pp.199-223:「アズィズ・ネスィン、半生を語る」:当時72歳のネスィンへのインタビュー記事。原文の見出しは「72歳のアズィズ・ネスィンによれば、人間は何歳になっても恋愛できる『私の恋人が望むならディスコへだって行く』」/PAZAR SOHBETİ 1987。pp.224-229:解説 林佳世子。
- ^ “目次”. 三省堂. 2022年12月22日閲覧。
- ^ この2論文にて「おそらくわが国ではじめて、オスマン朝を歴代イスラーム諸王朝の「完成形態」とする考えが表明」された[58]。
- ^ 1979年から数回の対談・鼎談を経、まとめた原稿の整理推敲・加筆に歳月を要し、1983年の刊行となる[59]。
- ^ 定年退官の記念に企画し、内陸アジア・西アジアの研究成果の一端をまとめる目的で39名の論文を自身で収録・編集した900頁を超える歴史学論集[31]。
- ^ “各巻論文タイトル・著者/出版物一覧”. 内陸アジア史学会. 2022年12月22日閲覧。
- ^ “著者”. 山川出版社. 2023年2月12日閲覧。
- ^ 海軍兵学校時代から敗戦を経、北海道大学教員に任じられるまでの5年間を回想(1943年10月-1948年9月)。
- ^ 「三角形と蚯蚓」とは当時の兵学校校長 井上成美が三期予備学生教育修業の12月に行った訓話から。(阿川弘之 1992, pp. 513–514) にも記されている。
出典
- ^ 外務省報第二百八十六号(昭和八年十一月一日)/出張及留学 JACAR:B13091697400
- ^ a b c d e f g 先學を語る 2004, 略年譜.
- ^ 『道程』短歌新聞社〈立春叢書 第95篇〉、1990年2月。 NCID BA43781440。
- ^ a b c d e f 著者略歴 1997.
- ^ 「一心寺歴代の歩み」『寺院建立の志念-住職継承記念- 長福山 一心寺』、一心寺第十三世住職 釋星嵓、平成二十四年十月二十一日。
- ^ 護雅夫 1984a, p. 106-107.
- ^ 岸田達也 1997, pp. 19–20.
- ^ 著作目録 1997, p. 85.
- ^ 岸田達也 1997, pp. 21, 32.
- ^ 護 1996, pp. 7–8.
- ^ 梅村坦 1997b, p. 106.
- ^ 護 1984, p. 118.
- ^ 阿川弘之 1992, pp. 509, 514.
- ^ 護 1984, pp. 118–121.
- ^ 護 1984, pp. 127–128.
- ^ 護 1996, p. 21-28.
- ^ 護 1992, p. 14 序文.
- ^ 護 1984, p. 143.
- ^ 護 1983a, p. 319 訳者あとがき.
- ^ a b 高橋昭一 1997, p. 1.
- ^ a b 山本達郎 1997, p. 143.
- ^ 梅村坦「<彙報>アンネマリー=フォン=ガベン教授(1901.7.4.-1993.1.15.)」『東洋学報』第77巻3・4号、東洋文庫、1996年3月、80-86頁。
- ^ 護 1981, pp. 122-124〈トルコとドイツとで〉.
- ^ 護 1967, pp. 2, 8 序文.
- ^ 護 1983a, p. 319.
- ^ 牟田口義郎「トルコと私」第40回トプカプさろん/1996年11月8日、『Köprü 通信』第27巻、1997年冬号
- ^ 博士論文 CiNii
- ^ 護 1981, p. 126.
- ^ “Prof.Dr.Gülçin Çandarlıoğlu”. 2023年2月12日閲覧。
- ^ a b 護 1982a.
- ^ a b 梅村坦 1997b, p. 107.
- ^ 護 1982b, p. 299.
- ^ 神田信夫 1997, p. 141.
- ^ 先學を語る 2004, p. 140 柳瀬廣.
- ^ 〈トルコ語〉“Pulat Otkan 業績”. Türkiye İş Bankası Kültür Yayınları(出版社). 2023年2月12日閲覧。
- ^ a b 護 1987.
- ^ 国際交流基金. “トルコ(2020年度)日本語教育の実施状況”. 2022年12月22日閲覧。
- ^ 山本達郎 1997, p. 144.
- ^ 森安孝夫 1997a, p. 439.
- ^ a b “専攻学科目/物故会員一覧”. 日本学士院. 2022-12-22 閲覧。
- ^ “財団法人東方学会 歴代理事長”. 東方學會. 2022年12月22日閲覧。
- ^ 梅村坦 1997a, p. 101.
- ^ 護 1996, p. 36.
- ^ 「私の書斎 120(護雅夫)/ 撮影:鈴木勝太郎」『中央公論』、中央公論社、1976年8月。
- ^ 護 1994, p. 36.
- ^ 荒松雄 1997, p. 147.
- ^ 梅村坦 1997a, p. 102.
- ^ 護 1982b, pp. 299–309.
- ^ 護 1982b, p. 303.
- ^ (E.チョラシャン) (1987年3月1日). “PAZAR SOHBETİ(日曜閑話)”. ヒュッリイェト紙. 2022年12月22日閲覧。
- ^ 護 2013, p. 229 解説 林佳世子.
- ^ “第60回(昭和45年5月29日)授賞一覧”. 日本学士院. 2022年12月22日閲覧。
- ^ 「秋の叙勲 勲三等以上および在外邦人、帰化邦人、在日外国人、外国人の受章者」『読売新聞』1991年11月3日朝刊.
- ^ 護 1992, pp. 15-16 序文.
- ^ 護 1992, pp. 641-643 跋文:佐藤次高・梅村坦・片山章雄.
- ^ 護 1996, p. 35 謝辞.
- ^ 佐藤次高 1997, p. 148.
- ^ 永田雄三 1997, p. 118.
- ^ 護 1983b, pp. 347-349 あとがき 長沢和俊.
参考文献
- 護雅夫「歴史を学ぶということ-若き学徒への手紙」『中央公論』、中央公論社、1981年5月、116-129頁、NAID 40002394965。
- 護 雅夫 (1982年7月9日). “トルコの日本研究:育ち始めた芽を大樹に”. 『読売新聞』夕刊 2版 7面
- 護 雅夫「トルコの作家 アジズ・ネシンのこと-諷刺文学の伝統を受け継ぎ権力を痛烈に揶揄する作家は日本をどうみるか」『中央公論』、中央公論社、1982年10月、299-309頁、NAID 40002395475。
- 護 雅夫 (1987年11月19日). “トルコの熱いまなざし:日本学講座開設から帰って/伝統と近代化の両立に関心:日本語コースの盛況に驚く”. 『朝日新聞』夕刊 5面
- 岸田達也 (1997年3月24日). “通える夢は崑崙の高嶺の此方ゴビの原-在りし日の三高の青春(護雅夫さんの学問形成と三高との関係) (PDF:1204 KB)”. 三高自昭会. pp. 13-37. 2022年12月22日閲覧。
- 護 雅夫『古代トルコ民族史研究 III』
- 護 雅夫「序文に代えて」(一九九六年六月二七日 藤沢の寓居にて)『古代トルコ民族史研究 III』、1-36頁。
- 佐藤次高・梅村 坦・片山章雄「跋文」『古代トルコ民族史研究 III』、577-579頁。
- 「著者略歴」『古代トルコ民族史研究 III』、586頁。
- 片山章雄 編「護雅夫著作目録」『古代トルコ民族史研究 III〈別冊〉』、pp.53-85頁。
- 高橋昭一(常任理事)「護 雅夫先生逝く」『アナトリアニュース』第87号、日本・トルコ協会、1997年3月、1頁。
- 梅村坦「追悼 護 雅夫先生」『内陸アジア史研究』第12巻、内陸アジア史学会、1997年3月、99-102頁、NAID 40004580999。
- 森安 孝夫「護 雅夫博士の訃」『史学雑誌』第106巻第3号、史学会、1997年3月、436-439頁、NAID 110002367552。
- 梅村坦「護雅夫先生を偲んで」『東洋学報』第79巻第1号、東洋文庫、1997年6月、105-111頁、NAID 40002651695。
- 永田雄三「護雅夫先生とイスラーム世界」『イスラム世界』第49号、日本イスラム協会、1997年7月、118-119頁。
- 「護雅夫博士追悼錄」『東方學 第九十四輯』、東方學會、1997年7月、140-151頁、NAID 40002633722。
- 佐藤次高 (司會・文責者)・片山章雄・森安孝夫・志茂碩敏・小山皓一郎・松村潤・柳瀬廣「座談会 先學を語る - 護雅夫博士〈含 略年譜・主要著書目録〉」『東方學 第百八輯』、東方學會、2004年7月、122-149頁。
- 阿川弘之『井上成美』新潮社〈新潮文庫〉、1992年7月。ISBN (978-4101110141)。
外部リンク
- 〈トルコ語〉"Prof. Dr. Masao Mori'nin Anısına"(護雅夫博士を偲んで)Mücteba İlgürel(ミュジュテバ・イルギュレル),Ağustos 1998,Belleten,Türk Tarih Kurumu(トルコ歴史協会)/(PDF版:1700KB) 含 肖像写真
- 護雅夫 東洋学文献類目 京都大学人文科学研究所付属 東アジア人文情報学研究センター
- CiNii
- JAPAN SEARCH