来歴・人物
広島県立忠海高等学校ではエース。卒業後は1959年に巨人に入団し内野手に転向する。1961年に土屋正孝が国鉄にトレードされたため、藤本伸・塩原明らと二塁手の定位置を争い15試合に先発出場。しかし、打撃面で伸び悩み、肘の故障もあって1963年限りで引退した。通算46打数7安打、打率.152[1] 。
引退後、当時巨人のスカウトだった(沢田幸夫)が競輪ファンだった縁で、競輪選手養成のために、養成塾を開いていた(小林三郎)(期前)に弟子入りし、競輪に転身。日本競輪学校第20期生となる。なお、スピードスケートから転身した伊藤繁(日本競輪学校第21期生)も、小林養成塾の門下生で、一緒に競輪選手を目指して練習に励んだ間柄だった。
同校卒業後、(日本競輪選手会)神奈川支部に所属していたが、同期の代表的選手である吉川多喜夫も同じく神奈川支部にいた。後に、同選手会静岡支部に転籍した。
1973年と1974年の(競輪王)戦において決勝進出(いずれも7着)の実績がある。1982年の高松宮杯競輪が最後の特別競輪参加となったが、その頃まで、常時特別競輪への出場機会を得ていた。1984年2月8日に選手登録削除された。
逸話
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 | 球 団 | 試 合 | 打 席 | 打 数 | 得 点 | 安 打 | 二 塁 打 | 三 塁 打 | 本 塁 打 | 塁 打 | 打 点 | 盗 塁 | 盗 塁 死 | 犠 打 | 犠 飛 | 四 球 | 敬 遠 | 死 球 | 三 振 | 併 殺 打 | 打 率 | 出 塁 率 | 長 打 率 | O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1960 | 巨人 | 1 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 |
1961 | 47 | 43 | 41 | 6 | 6 | 0 | 0 | 0 | 6 | 1 | 4 | 3 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | 8 | 1 | .146 | .186 | .146 | .332 | |
1962 | 22 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | ---- | ---- | ---- | |
1963 | 10 | 4 | 4 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | .250 | .250 | .250 | .500 | |
通算:4年 | 80 | 48 | 46 | 10 | 7 | 0 | 0 | 0 | 7 | 3 | 7 | 6 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | 11 | 1 | .152 | .188 | .152 | .340 |
背番号
- 48 (1959年 - 1963年)
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
- 個人年度別成績 西野忠臣 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手通算成績 - KEIRIN.JP
- わきもと茂紀|44 忠高野球部の活躍(2)
- 内外タイムス2009年8月4日付記事