紺野 与次郎(こんの よじろう、1910年(明治43年)3月9日 - 1977年(昭和52年)12月19日)は、日本の労働運動家、政治家。元衆議院議員(日本共産党公認、1期)。日本共産党政治局員、幹部会委員、書記局員などを歴任。
来歴
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戦前
山形県西置賜郡荒砥町(現・白鷹町)出身。旧制山形高校(現・山形大学(文理学部))在学中、社会科学研究会への参画が発覚し放校処分となる。山形高校中退後18歳にして単身上京し、(東京合同労働組合)向島支部などに籍を置くかたわら、1929年(昭和4年)日本共産党(第二次共産党)へ入党。同年モスクワで開かれたプロフィンテルン第5回大会に日本代表として加わる。
1931年(昭和6年)1月、風間丈吉とともにソ連から帰国[1]すると、党中央委員として地下活動を行う。当時の共産党は非合法政党ゆえ三・一五事件や四・一六事件など、官憲からの弾圧が強まっていた時期であったが、紺野は岩田義道らと共に風間丈吉を中心とする新指導部(いわゆる「非常時共産党」)を立ち上げる[2]。しかし翌年治安維持法違反で検挙、懲役12年に処せられる(出獄は1943年)。
戦後
農民運動を主導しながら1947年には政治局員に就任するが、1950年6月にレッドパージにより公職追放となり、7月に団体等規正令違反で逮捕状が出たことにより地下に潜行。地下に潜行した紺野は所感派と行動をともにし、密出国の形で中華人民共和国に渡航。北京機関のメンバーとなった。帰国後、1964年から1970年まで東京都委員会委員長に就き、1967年東京都知事選挙における革新都政誕生に力を尽くす。この間1966年には幹部会委員及び書記局員となる。
1972年の衆院選で東京1区から出馬し初(トップ)当選を果たす。再選を期して1976年の衆院選に挑むも落選。議員時代の1976年10月には、本会議での矢野絢也衆議院議員(当時)に対する不規則発言「反共のイヌ、イヌがほえている」が懲罰事犯にかけられたが[3]、審査未了廃案となる。
1977年12月19日、心筋梗塞により東京都新宿区の東京女子医科大学病院で死去。67歳。
著書
- 『共産党員の品性』(新日本出版社、1966年)
- 『日本農村の階級分析』(新日本出版社、1961年)
- 『日本の夜明けとともに』(紺野与次郎後援会、1972年)
脚注
参考文献
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