淺川 誠二(あさかわ せいじ、1967年12月20日 - 2001年7月25日)は、元ボクシング日本フェザー級チャンピオン、OPBFフェザー級チャンピオン。神戸拳闘会所属。兵庫県神戸市兵庫区出身。育英高等学校卒。
略歴
世界王座に2度挑戦しており、ジムの所在地から「新開地の貴公子」のあだ名で親しまれていた。兄の岳彦はキムラタンの社長を務める。島田紳助からも支援を受けた。「ゴンタ」(悪がき、暴れん坊の意味)と呼ばれていた。
1986年3月22日、デビュー戦を4RTKOで飾る。1987年2月21日、7連勝の西軍代表として後楽園ホールで行なわれた全日本新人王決定戦で東日本王者洲賀崎伸一と争い、6R判定で勝利。1989年2月11日、尾崎恵一との引分の後12戦10勝1敗1引分で、杉谷満が返上した空位の日本フェザー級王座決定戦を一度敗れている加納一也と行い、8RKO勝で雪辱すると同時に戴冠。
1989年6月17日、ダイナミックグローブで初の防衛戦を福田健吾と行う。ドラマや映画の出演経験のある人気ボクサーであった福田に対し、1Rにダウンを喫するがダウンを奪い返して、2RKO勝を収めた。福田とは1990年3月12日にダイヤモンドグローブ・チャンピオン・カーニバル_(ボクシング)で再戦をし、そのときも3RKOで下している。1990年6月9日、植田龍太郎を下し5度目の防衛に成功した。
世界前哨戦となる6度目の防衛戦を、(園寿和)(当時ランキング10位)と地元神戸市で行ったが、まさかの4RKO負けを喫し、タイトルを失うと同時に世界戦が遠のく。園は実家の都合でこの試合を以って引退と戦前から表明しており防衛戦を行わずに引退した。園が引退しタイトルを返上した為、1991年6月25日、王者決定戦でタイトルを奪取していた松本好二とのタイトルマッチで10R判定勝を収め王者に返り咲く。このタイトルは11月12日のノンタイトル戦後の11月25日返上した。
1992年1月25日、韓国仁川広域市でWBA世界フェザー級チャンピオン朴永均に挑戦。試合当日に軽量がソウルで行われていたが、運転手が故意か仁川に送迎するなどの不運に見舞われる。結局、軽量まで3時間半飲まず食わずの状態となり試合に臨むことになった。当時対日感情が悪化しており、罵声や怒声のみならず、飲食物まで浴びせられたこの試合は、9RKOで敗れタイトル奪取ならず。1992年7月19日、東洋太平洋フェザー級王者クリス・サギド(フィリピン)に姫路市で挑戦。12R判定まで縺れるもタイトル奪取に成功。1度防衛の後1993年5月6日に返上した。
1994年3月19日、朴からタイトル奪取したばかりのエロイ・ロハス(ベネズエラ)を神戸市のワールド記念ホールに迎えての世界戦では、5RTKOで敗れタイトル奪取はならず、この試合をもって引退した。生涯戦績28戦23勝(17KO)4敗1分。後輩(鈴木敏和)の日本タイトル初防衛戦の興行で引退セレモニーを行った。
引退後
1995年、所属ジムが阪神・淡路大震災で倒壊。再建運動の先頭に立って活動した。引退後は毎日放送で和泉修のラジオ番組にコーナーを持ち、明るいキャラで軽妙なトークが人気を博した。また、後輩の育成にも力を入れていた。
2001年7月25日、三木市のつくはら湖で趣味のバス釣りの最中に流されたゴムボートを取りに湖に入り行方不明となり、7月30日に遺体となって発見された。8月2日に執り行われた彼の葬儀には、500人以上の関係者や知人が訪れた。喪主の兄・岳彦は、「やるかやられるかの戦いをしてきた弟の試合は、いつも突然終わったが、人生も突然終わらせてしまった。だが大勢の人に見送られ、幸せだったと思いたい」と語った。
関連項目
外部リンク
- 浅川誠二の戦績 - BoxRec(英語)
前王者 杉谷満 | 第39代日本フェザー級王者 1989年2月11日 - 1990年11月16日 | 次王者 (園寿和) |
前王者 松本好二 | 第42代日本フェザー級王者 1991年6月25日 - 11月25日 | 次王者 松本好二 |
前王者 クリス・サギド | 第29代東洋太平洋フェザー級王者 1992年1月25日 - 1993年5月6日 | 次王者 クリス・サギド |