正力 亨(しょうりき とおる、1918年10月24日 - 2011年8月15日)は、日本の実業家。正力松太郎の長男で、読売新聞グループ本社社主、読売ジャイアンツオーナーなどを務めた。
人物
慶應義塾幼稚舎、慶應義塾普通部を経て、1942年に慶應義塾大学経済学部卒業。
略歴
- 1918年(大正7年) - 東京府で生まれる。
- 1942年(昭和17年)
- 1943年(昭和18年) - 海軍経理学校卒業
- 1944年(昭和19年)5月 - 海軍主計大尉
- 復員後、王子製紙に復帰。湘南振興取締役などを務める。
- 1956年(昭和31年) - 読売新聞社に入社。
- 1958年(昭和33年)10月 - 株式会社よみうりランド取締役
- 1959年(昭和34年) - 読売新聞社監査役
- 1960年(昭和35年) - 読売新聞社取締役
- 1964年(昭和39年)
- 1968年(昭和43年)10月 - 日本テレビ放送網代表取締役副社長
- 1970年(昭和45年)5月 -読売新聞社社主、日本テレビ放送網取締役、後楽園スタジアム取締役
- 1981年(昭和56年) - アメリカ合衆国・フロリダ州ベロビーチ名誉市民、グアム名誉大使、名誉市民
- 1996年(平成8年)12月 - 球団名誉オーナー[1]
- 2002年(平成14年)7月 - 読売新聞グループ本社社主
- 2011年(平成23年)8月15日 - 敗血症のため東京都港区の北里研究所病院で死去[2]。92歳没。
エピソード
- 慶應義塾普通部では野球部で投手兼4番を務めた。慶應義塾体育会野球部では、1年間選手を経験した後、マネージャーに転向した。
- 長嶋茂雄を最も愛した読売関係者の一人でもある。
- 王貞治の監督としての能力を非常に評価しており、1988年に王監督が退任した時には報知新聞などの記者に「君、王君に言ってくれないか、僕は王君にもう一度監督をさせたかった」と語ったとも言われている。
- 慶大野球部の後輩である藤田元司にも目をかけていた。経営評論家の針木康雄によると、正力がオーナーとして一番喜んだのは、1988年に藤田が2度目の一軍監督に就任したことだったといわれる。1度目の監督就任期間が好成績ながらわずか3年に終わったのを、悪いことをしたと気にかけていたからである[3]。
- 週刊少年ジャンプの創刊編集長であった集英社の長野規とは親しい飲み友達だった。その縁で巨人軍の漫画化権を認めたり、ジャンプ連載漫画のアニメ化に協力するなど色々と便宜を図っていた。
- 父・正力松太郎の死後、日本テレビにいた異母弟の(正力武)を追放した。武は、自身の人生を呪う様に酒を浴びるほど飲み続け、51歳で死んだ。しかし武の葬儀には亨も参列し、大声を上げて泣いたという[4]。
- 1970年代から1980年代にかけて毎年正月に日本テレビで放送されていた球団所属選手出演のバラエティ番組にて、場面冒頭ファンに対して年始の挨拶を行うのが恒例行事だった。
- 実父の正力松太郎の別称:大正力(だいしょうりき)に対比して、小正力と呼ばれる。
- 1996年(平成8年)12月に、長年務めた球団オーナーを渡邉恒雄に譲る形で職を退き、名誉オーナーへと就任。
- 2006年(平成18年)2月10日、前日74歳で死去した藤田元司(慶大野球部の後輩でもある)の自宅へ弔問に訪れた。2月15日に球団と藤田家の合同葬として営まれた葬儀・告別式にも参列。
- 読売新聞グループ本社社主のほか、よみうりランド・日本テレビの取締役、報知新聞社社長も務めた。
- 王が一軍監督としてレギュラーシーズン優勝を果たした1987年にホテルの一室でベッドの上で飛び跳ねて優勝を喜ぶという行動が目撃されるなど、その言動から「変人」扱いされることもあったが、『巨人という幻想』(東邦出版、(ISBN 4809405052))の著者である(宮崎満教)(元内外タイムス記者)は「正力は純粋に巨人のことが大好きだった」と評している[5]。
晩年の役職
親族
脚注
参照文献
報道資料
- 『読売新聞』1996年12月12日東京朝刊
関連項目
- 徳光和夫 - 日テレ出身のフリーアナウンサーで、徳光の後ろ盾でもあった。
- 福留功男 - 徳光の元同僚アナウンサーで、福留の日テレ退職後もいろいろ便宜を図った。
- BIG-1物語 王貞治 – 製作総指揮