三浦 光雄(みうら みつお、1902年10月25日 - 1956年10月24日[1])は、日本の撮影技師である。日本映画撮影者倶楽部(現在の日本映画撮影監督協会)が1956年(昭和31年)に制定した「三浦賞」に名を残す[1][2]。初期名三浦 光男(読み同)[3]。
人物・来歴
1902年(明治35年)10月25日、宮城県に生まれる[1]。
旧制・私立商工中学校(通称東京商工中学校、現在の日本大学第三高等学校)を卒業し[1]、1920年(大正9年)、開業とともに日活向島撮影所に入社した[1][2]。1923年(大正12年)、撮影技師に昇進[2]、記録に残る最初の技師作品は、1925年(大正14年)5月31日公開、五所平之助監督の『(空は晴れたり)』で、当時は「三浦光男」名義であった[3]。
1931年(昭和6年)9月、鈴木傳明、岡田時彦らとともに松竹キネマを退社、不二映画社の設立に参加、鈴木重吉監督の『(栄冠涙あり)』の撮影を務めるとともに「三浦光雄」と改名した[3][4]。1933年(昭和8年)、日活太秦撮影所に移籍、おなじ蒲田出身の牛原虚彦監督の『(未来花 前後篇)』の撮影を務める[3]。1934年(昭和9年)、日活太秦の現代劇部の移転に伴い、日活多摩川撮影所(現在の角川大映撮影所)に異動、鈴木重吉監督の『(潮)』を手がけるが、間もなく鈴木とともに日活を退社、新興キネマと提携する入江たか子の入江ぷろだくしょんで3作の撮影に参加する[3]。
1937年(昭和12年)、入江ぷろだくしょんがP.C.L.映画製作所と提携製作した成瀬巳喜男監督の『女人哀愁』を手がけたのを機にP.C.L.に移籍[3]、1937年(昭和12年)9月10日の合併による東宝映画の設立以降も、東宝映画東京撮影所(現在の東宝スタジオ)に所属した[3]。
1947年(昭和22年)、五所平之助監督の『今ひとたびの』が多くの賞を受けるなか[2]、(第2回毎日映画コンクール)で三浦自身も撮影賞を受賞した。1954年(昭和29年)には、(第4回ブルーリボン賞)撮影賞を『煙突の見える場所』(監督五所平之助、1953年)、『雁』(監督豊田四郎、1953年)で受賞した。
1956年(昭和31年)10月24日、死去した[1]。満53歳没。
同年、(第11回毎日映画コンクール)ならびに(第7回ブルーリボン賞)で、同年発表の『白夫人の妖恋』、『猫と庄造と二人のをんな』(いずれも監督豊田四郎)を対象に撮影賞を没後受賞した。同年、(第7回芸術選奨)を没後受賞した。
同年、新人の撮影技師を対象とした「三浦賞」を日本映画撮影者倶楽部が制定、同倶楽部の後身・日本映画撮影監督協会がこれを現在も引き継いでいる[1][2]。
おもなフィルモグラフィ
- 『(空は晴れたり)』 : 監督五所平之助、1925年
- 『新女性鑑』 : 監督五所平之助、1929年
- 『親父とその子』 : 監督五所平之助、1929年
- 『(栄冠涙あり)』 : 監督鈴木重吉、1931年
- 『(未来花 前後篇)』 : 監督牛原虚彦、1933年
- 『貞操問答 高原の巻』 : 監督鈴木重吉、1935年
- 『貞操問答 都会の巻』 : 監督鈴木重吉、1935年
- 『女人哀愁』 : 監督成瀬巳喜男、1937年
- 『良人の貞操 前篇 春来れば』 : 監督山本嘉次郎、1937年
- 『良人の貞操 後篇 秋ふたたび』 : 監督山本嘉次郎、1937年
- 『藤十郎の恋』 : 監督山本嘉次郎、1938年
- 『ハワイ・マレー沖海戦』 : 監督山本嘉次郎、1942年 - 三村明・鈴木博と共同
- 『今ひとたびの』 : 監督五所平之助、1947年
- 『煙突の見える場所』 : 監督五所平之助、1953年
- 『雁』 : 監督豊田四郎、1953年
- 『(母の初恋)』 : 監督久松静児、1954年
- 『夫婦善哉』 : 監督豊田四郎、1955年
- 『白夫人の妖恋』 : 監督豊田四郎、1956年
- 『猫と庄造と二人のをんな』 : 監督豊田四郎、1956年
註
関連事項
外部リンク
- Mitsuo Miura - IMDb(英語)
- 三浦光男・三浦光雄 - 日本映画データベース
- 三浦光雄 - KINENOTE
- 三浦光雄 - allcinema
- 三浦賞 - 日本映画撮影監督協会