松井 常松(まつい つねまつ、1960年9月8日 - )は、群馬県高崎市出身の音楽家。本名は松井 恒二(まつい こうじ)。
松井常松 | |
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出生名 | 松井恒二 |
別名 | 松井恒松 |
生誕 | 1960年9月8日(62歳) |
出身地 | 日本・群馬県高崎市 |
学歴 | 群馬県立高崎商業高等学校卒 |
ジャンル | J-POP、ロック |
職業 | ベーシスト |
担当楽器 | ベース ギター |
活動期間 | 1978年 - |
レーベル | EMIミュージック・ジャパン(1989年 - 2001年、2009年) ハドソン・ミュージックエンタテインメント(2009年) JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント(2014年 - 2015年) ドリーミュージック(2017年 - ) |
事務所 | ソリッドサウンズ |
共同作業者 | BOØWY |
公式サイト | MATSUI TSUNEMATSU.com |
群馬県立高崎商業高等学校卒。日本のロックバンド、BOØWYのベーシストとして知られる。
BOØWY時代は松井恒松と名乗っていたが、1992年頃に常松と改名。身長170cm、体重57kg(2017年現在)。血液型はA型。ソリッド・サウンズ所属。既婚。1女1男の父。
略歴
アマチュア時代、同級生の氷室京介らと共にバンド、デスペナルティに在籍。1979年には同バンドでEastWestコンテストに入賞。ビーイングにスカウトされ上京するが、「実力不足」を理由に強制解散される。その後、織田哲郎のバンド「」にベーシストとして加入するが、メンバー間の不和によって解散[1]。その後、1980年に氷室と布袋寅泰がバンドを結成しようとしていることを知り合流。BOØWYのメンバーとしてデビューから解散まで活動。1988年にBOØWYでの活動終了後、スタジオ・ミュージシャンや布袋のライブサポートの後、1989年に初アルバム『よろこびのうた』を発表。以降、マイペースな活動を続ける。BOØWY解散後も氷室や高橋まことのアルバム・レコーディングに参加等、元メンバー同士との交流が一番多い。
『よろこびのうた』『SONG OF JOY'』ではInstrumentalや女性ボーカリストをフィーチャーした楽曲を中心とし、『月下氷人』より自身がメイン・ボーカルを執る。他アーティストのサポートでステージに立っても、自身のライヴを行うことはなかった。『あの頃僕らは』よりライヴを意識した楽曲へと変貌を遂げていく。
2004年、オオエタツヤ、岸利至と共に「Groove Syndicate」名義で、日本武道館で行われたデヴィッド・ボウイ日本公演のオープニングアクトを務めた。
近年は「ベースだと(はなわのように)一人で活動できないが、ギターだと一人でも演奏ができる。より多くの人と、音楽を通じてコミュニケーションしたい。」として、アコースティック・ギターでの演奏が多い。
2009年、ソロ活動20周年記念アルバム『HORIZON 〜20TH ANNIVERSARY〜』をリリース、ライブツアーを敢行。オールディーズロックナンバーのカバー・アルバム『RAVE ON』もリリース。こちらでは原点回帰として久々にベースの8分弾きをメインとしたステージを披露。年末の「RAVE ON」ツアーではPERSONZと共演。同年11月、徳間書店より自叙伝「記憶」を上梓。
2012年10月14日より、ラジオ高崎にてラジオ番組「松井常松 SOLID SOUNDS」を開始[2]。
2014年発売アルバム『Reverie』から、再び『よろこびのうた』の方向性に回帰。自身の打ち込みによるInstrumental作品を手がけている[3]。
人物・エピソード
家族は、両親と4歳上の姉。BOØWY時代に結婚。娘と息子を授かる。メンバーの中で最初に父親になった。娘の誕生を当時のインタビューで嬉しそうに語っている。
最初に持った楽器はベースではなくギターで、後にバンドのベーシストが抜けたのがきっかけ。ちなみに、氷室は当時ボーカルではなくドラムであり、またこのバンドには後にBOØWYのメンバーとなる諸星アツシもいた。
BOØWY時代、ライブのメンバー紹介で氷室から「渋い男です」と紹介されることが多く、実質解散ライブとなった『1224』では「ずっとずっと昔から知ってるけど渋い男です。オン・ベース、松井恒松!」と紹介。表情を一切変えず直立不動で「(ダウンピッキング)の8分弾き」というスタイルが代名詞となっているが、実際はスラップなども巧みにプレイする。活動初期はステージ上を動き回っていた。この件に関しては本人と渡邉貢から「そういうのウィキペディアに書いてあるらしいけど、真に受けちゃだめだよ(笑)」と否定されている[4]。そして「活動初期は新宿ロフトという狭いステージで当時6名で活動していたわけで、動き回りようがないんだけどね」と、ラジオ『東京ミュージカムステーション』ゲスト出演の際にコメント。BOØWY初期の頃は、現在より激しく肩を揺らしてベースを弾いていた[5][6]。
BOØWY初期、六本木のスクエアビル内にあったゲームセンターで働いていた際、店長に「髪立ててメイクしてバイトに来るのやめてくれない?」と言われ[7]、後に阿佐ヶ谷にあった「ミント」というカフェバーのマスターとなったが、店がバンドの連絡所も兼ねていたため、熱心なファンが通いつめ、売上が上がらず、その店は潰れた。
使用ベース
様々な種類・メーカーのベースを使用しているが、代表的なモデルのみを本項目で記載。
- フェンダー・プレシジョン・スペシャル
- 1980年頃、「織田哲郎&9th Image」時代に織田哲郎から「プロならフェンダーのベースを持ちなよ」と言われて購入したもので、色は購入時は「キャンディ・アップル・レッド」と呼ばれる濃い赤色だったが、ザ・クラッシュのベーシスト、ポール・シムノンに触発され、松井自身がまだローンが残っているこのベースの塗装を剥がして、ヘッド部分も含めたボディを白に塗りかえ、その上に青・黄・赤色のペンキをまき散らしている。このベースは通常のフェンダー・プレシジョン・ベースとは異なる点があり、通常2個であるコントロール・ノブが3個あり(3個目のノブでトレブル・ベースのブースト・カットが可能)、アクティブ回路を搭載しており、ボディの裏側には9V電池を入れる箇所がある。更にアクティブ回路とパッシブ回路を切り替えるミニスイッチが搭載されており、金属パーツはゴールド仕様になっている。本ベースはフェンダーで製造された期間が1980年ごろから1983年ごろまでと非常に短く、そのため松井と同仕様のベースを現在見つけるのは非常に難しい。ボディはアッシュ。レコーディングではほぼ一貫してメイン・ベースとして使用された(佐久間正英がプロデュースした作品では、佐久間所有のフェンダー・ジャズベースも併用した)。ライヴでは「織田哲郎&9th Image」時代から、BOØWY時代は結成から1985年の「BOØWY’S BE AMBITIOUS TOUR」までと、1987年の「Dr. FEELMAN'S PSYCHOPATIC HEARTS CLUB BAND TOUR」、1988年の「LAST GIGS」で使用。同仕様で複数本所有していた(サブベースはフェルナンデス製で、ピックアップカバーの色がメイン・ベースは白、サブベースは黒)。メイン・ベースは後に盗難に遭うが、後にゾディアック・ワークスから(ボディやネックはフェンダー・ジャパンで制作)同仕様のモデルが限定35本(実際に製作された本数は、松井自身の物も含めて36本)で発売された。
- フェルナンデス・オリジナル・ベース
- 複数のベースを制作している。最初に作ったものは白いボディにバナナヘッドを持ったもので、1985年の「BOØWY’S BE AMBITIOUS TOUR」と1986年の「わがままジュリエット」のMV、当時のテレビ出演時等で使用。次にフェルナンデスの看板モデルである、黒色の「リボルバー・シリーズ」を1986年の「JUST A HERO TOUR」で使用した(後述のヘッドレス・ベースのプロトタイプとも言われている)。その後、「フィリップ・クビキ・ファクター」というメーカーのベースを参考にしたオリジナルのヘッドレス・ベースを製作。色は黒色でスルーネック構造。1986年の「ROCK’N ROLL CIRCUS TOUR」から使い始め、その後もテレビ出演時や1987年の「"GIGS" CASE OF BOØWY」、「Marionette」のMV等で使用している。松井自身の要望で、ライブでの使用を前提として製作されたベースで、軽量・コンパクトな造りが特徴で、松井自身は「(このベースは)スケールもちょっと短かったと思うんですよ(実際にはロング・スケール仕様)。ステージでは(軽くて小さいので)凄く弾き易かったけど、音に関しては(フェンダー・プレシジョン・スペシャルと比べると)少し物足りなかったですね」と解散後のインタビューで述べている。ピックアップは当初はフェルナンデス製のアクティブ・ピックアップ「F.G.I.TECHNOLOGY」が搭載されていたが、後にEMG製に交換されている。現在このヘッドレス・ベースはゾディアック・ワークスで販売されており、同仕様で入手することが可能。ボディはマホガニー、ネックはメイプルを使用。指板はフェルナンデス製ではローズウッドが使用されていたが、ゾディアック・ワークス製はエボニーが使われている。
- アリアプロ・サイバーアロー
- 松井のシグネチャー・モデルで、(矢羽)のような左右対称のボディが特徴で、ボディの色は赤地に白ライン。のちに黒地にシルバーラインの物も製作された。コントロールはピックアップのオン・オフスイッチがあるだけのシンプルなモデルで、腕が当たる部分に窪みがあるなど、自身のプレイスタイルに合わせた造りになっている。主にソロライブで使用された。
作品
シングル
- TEARS (1991.10.16)
- あの頃僕らは (1993.9.29)
- GLACIER (1994.9.21)
- LAST ANGEL (1995.10.4)
- SHADOW OF THE MOON (1996.9.4)
- MIRAI (feat. DACHICO) (2013.1.23) - インターネット配信限定
アルバム
- よろこびのうた (1989.10.25)
- SONG OF JOY' (1991.8.30)
- 月下氷人 (1992.10.22)
- あの頃僕らは (1993.10.20)
- GLACIER (1994.10.19)
- DEEP SKY (1995.10.25)
- HEAVEN (1996.10.9)
- "DNA MIX" HEAVEN VERSION (1996.11.27)
- Bye Bye EXTREMER (1998.5.27)
- DECADE (2001.11.28)
- 2枚組ベスト・アルバム
- "1" (2003.9.25)
- GROOVE SYNDICATE名義
- Nylon nights (2006.9.23)
- Nylon nights 2 (2006.12.16)
- Lullaby of the Moon (2007.6.30)
- HORIZON 〜20TH ANNIVERSARY〜 (2009.10.21)
- ソロ活動20周年記念ベスト・アルバム
- RAVE ON (2009.12.24)
- Reverie (2014.12.24)
- 「SONG OF JOY'」以来23年ぶりのよろこびのうたシリーズ再始動作品
- Moments In Love (2015.12.23)
- Heart Rate (2017.2.22)
- liquid (2018.2.21)
DVD
- ナイロンナイツ in AOYAMA (2006.12.16)
- ナイロンナイツ at クラブ・イクスピアリ (2007.2.26)
著書
レコーディング参加
- 花田裕之『Riff Rough』(ツアーにも参加)
- 氷室京介『SHAKE THE FAKE』
- 高橋まこと『楽しき人生』
- 布袋寅泰『SCORPIO RISING』(ツアーにも参加)・『DOBERMAN』(ツアーにも参加)・『GUITARHYTHM VI』(ツアー最終公演にも参加)
- 吉川晃司『HOT ROD』・『PANDORA』・『TARZAN』・『Double-edged sword』(ライブにゲスト参加。「ザ・ベストテン」の特番に吉川が「モニカ」で出演した際には、Vo.Gt.吉川・Ba.松井・Drs.高橋まこと というラインナップ)。
- 鈴木けんじ
- Ame 『幻灯』(アドバイザーとして参加)
- 遠藤久美子『夢ロケッツ』
- GORILLA ATTACK『Awakening To Alive』(収録曲の「メメントモリ」をプロデュース)
脚注
出典
外部リンク
- 松井常松OfficialSite
- 松井常松 SOLID SOUNDS - ラジオ高崎