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揚心古流

揚心古流(ようしんこりゅう)は、柔術流派である。戸塚派揚心流(とつかはようしんりゅう)、正式には揚心流または楊心流と言ったが、秋山四郎兵衛の楊心流(揚心流と言う場合があった)と区別するため、揚心古流(楊心古流)と呼ばれた。楊心流と同じく、文書上、楊、揚どちらの字の使用例も見られる。

揚心古流
ようしんこりゅう

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別名 楊心流、揚心流
戸塚派揚心流、戸塚流、江上流
発生国 日本
発生年 江戸時代
創始者 三浦楊心
中興の祖 江上観柳司馬之助武経
派生流派 神道六合流神道揚心流
主要技術 柔術、殺法、活法、捕縄術乱捕
棒術杖術剣術十手、鎖
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乱捕を早くから取り入れ、幕末期、江戸を中心にかなりの修行者がいた。明治初期の講道館のライバル流派の一つとして小説や記録に登場する。

歴史

流祖は肥前の国長崎漢方医であった(三浦楊心)である。徳川初代の頃の人とされている。

三浦楊心は人が病になるのは坐食するからでこれを未然に防ぐために適度の運動をするのがよいという考えから、高弟二人と相談し居捕五行の型を作り上げた。これを試みたところ心身爽快を覚えた。さらに、起合、行合の手型を工夫し、これに習熟したところ健康を保全することができたという。

三浦楊心が没した後、高弟二人が相談し、多年施して効果のあった型を秘すべきではなく、天下に普及し医の本分を盡すべきと一人は楊心流(揚心流)と称し、一人は三浦流と称して人々に教授した[1]

その後、豊後の人である阿部観柳が楊心流の奥義を窮めて門弟が多かった。楊心流中興の祖とされる江上司馬之介武経(豊後の人、龍造寺山城守三男の江上下総守の末孫)は阿部観柳の甥である。阿部観柳が没した時、名を江上観柳と号し楊心流を継いだ。江上は21歳頃、江戸に来て演武場を芝赤羽根心光院の傍に開設し楊心流を教えた。その門に入るもの千五百有余人に及んだ。寛政七年六月七日(1795年)に48歳で没した。

江上の弟子である戸塚彦右衛門英澄は、柔術場を芝西久保八幡山下に開いた。門人は九百有余人であった。師の江上観柳が沼津藩で楊心流を教授していたことから、戸塚彦右衛門も沼津藩に出入りし柔術を教授していた。生前は江上流を称したとされる。

別名戸塚派揚心流と呼ばれるのは、江戸時代後期に沼津藩での当流の師範であった戸塚英俊が、講武所柔術師範として活躍したためである。嘉納治五郎とともに最初の柔道範士に選ばれた戸塚英美は戸塚英俊の子である。

明治以降も多くの修行者を擁した。香取神道流杉野嘉男なども揚心古流を学んでいる。ただし他の古流と同じく、第二次大戦後は著しく修行者が減り、現在の伝承状況は不明である。雑誌『極意』(1997年)に最後の継承者の一人で金谷元朗の弟子、元(日立高等学校)校長保立謙三のインタビューが掲載されていた。

また、神道六合流には大竹森吉門下の深井子之吉が関わっており、揚心古流を元に作り上げた形と乱捕技が取り入れられた。神道六合流の道場で直接この技術を学んだ椎木敬文が創始した一技道でも楊心古流由来の形が伝わっている。

戸塚彦介

神道楊心流松岡龍雄[注釈 1]が父から聞いた話として、戸塚彦介の荒稽古は江戸中で大変評判となっており、戸塚彦介は身長5尺9寸(178㎝)体重23貫(86㎏)の大男で少々腕自慢の者でも軽く向う脛を蹴られただけで道場の羽目板まで飛んでしまう有様であったという[2]。戸塚彦介は幕府講武所で教授方を務めており、天神真楊流免許皆伝の松岡克之助は戸塚彦介との三本勝負の乱捕でどう頑張っても二本は取られてしまったという[2]。また藤原稜三によると幕府講武所の乱捕稽古は怪我人が出るのは当たり前で胸に入った蹴りを受けそこねて絶命した話や大男が絞め落とされて蘇生しなかった話が伝わっていると記している[3]

戸塚彦介の弟子である渋川流の久冨鉄太郎が明治時代に語った柔道談には、当時でも今日でも乱捕で戸塚彦介より上の人はいないと評している[注釈 2]。また久富によると戸塚彦介の他流の門人への指導方針は「流派は構わない。下地は出来ているから着色し、これまでに習ってきたことを変えてはならない。」というものであった。戸塚が教えるのは投手であり、「徹頭徹尾呼吸が盡るまで講修すれば自然名人上手になれる。」と言っていたとされる。

戸塚彦介と柏崎又四郎

戸塚彦介の門下に柏崎又四郎という人がいた。柏崎は体格小兵で弱かったが幼少から武術を嗜み志を決して戸塚彦介に入門した。しかし、当時の戸塚派楊心流は大兵ばかりであったため柏崎は戸塚に「先生、自分はこれまで非常に御恩顧に預かりましたが、ご覧の通り小兵者でありますから、到底西郷山岡などという剛の者を挫ぐ事はできません。それ故今日限り柔術を辞めたいと存じますから、どうぞお許し願いたい。」と言った[4]。その時、戸塚は「汝よく聞け、柔術には体格の大小を論ずる必要はない。柔能く剛を制するという。卵は三歳の小児がこれを転がすも大人が転がすも同じことである。また物には重心というものがある。されば、かの絹針一本でも能く物の重心に中った際には、その物はたとえ何貫重かろうがこれを支えることができる。汝よくこの理を納得して勉めよ。」と教えた。そして柏崎は、その理を悟り粉骨砕身その奥儀を極め「戸塚派の柏崎」、「柏崎の戸塚派」と言われるほどになった。柏崎又四郎は近世無類の達人で「鬼又」と言われていた。

他流試合

楊心流は幕末から明治時代にかけて多くの他流試合を行った。

明治時代の講道館柔道との試合が有名である。

熊本藩柔術との試合

幕末には柔術の他流試合が盛んに行われていた。

ある時、江戸の戸塚彦介の道場に熊本藩士11人が押し寄せ試合を挑んできた。戸塚彦介の門弟が次々出て試合をしたが皆全敗し、一人も熊本藩士に勝てた者がいなかった。そして、熊本藩士達は戸塚彦介に試合を求めた。この時、戸塚彦介門弟の柏崎又四郎が外出より帰ってきて、戸塚彦介に代わって熊本藩士11人と試合を行った。柏崎又四郎は熊本藩士11人を悉く投げ倒して勝利し、皆呆然として謝り道場を去ったとされる[5]

不遷流 武田物外との試合

柏崎又四郎は1860年(万延元年)に沼津藩を辞し、芸州広島の宮浦松五郎の家に寄食して道場を開いた。ある時、尾道済法寺住職の武田物外から試合を挑まれた。武田物外は不遷流柔術の創始者であり、150人力と言われた怪力の持ち主で数多くの逸話がある人であった。

武田物外は「常に言う柏崎何人ぞ。一拳の下に打ち据えんのみ。」と言って藩主に請い柏崎又四郎と試合をすることを望んだ。当日藩中一般観覧の下に雌雄を決することになったが、僅か一二合で柏崎又四郎が武田物外を倒したとされる[5]。これにより柏崎の名誉が上がり広島藩主が藩士として召し抱えようとしたが、沼津藩の者だったのでやむを得ず捨扶持70俵を付与して特別待遇を与えた。


天神真楊流との試合

『渡辺一郎先生自筆 近世武術史研究資料集』に掲載された天神真楊流の他流試合の記録に、楊心流と天神真楊流との試合が記されている。天神真楊流の記録では全試合で無勝負(引き分け)か戸塚派の敗北となっている。

嘉永七年の試合

嘉永7年4月6日(1854年)に松平甲斐守の屋敷で行われた楊心流と天神真楊流の試合である[6]

楊心流は戸塚彦介門人の今田七郎の道場で天神真楊流は磯道場である。今田道場からは8人、磯道場から8人が出て10組、13試合が行われた。

試合結果は、無勝負(引き分け)4、今田道場の負け9であった。

安政四年の試合

安政4年(1857年)に戸塚彦介の道場で行われた楊心流と天神真楊流の試合である[6]。楊心流から5人、天神真楊流から小出見之助の二人が出て6組、10試合が行われた。

試合結果は、無勝負4、負6であった。

慶応元年の試合

慶応元年(1865年)に行われた楊心流と天神真楊流の試合である[6]。戸塚彦介の門人と天神真楊流で9組、20試合が行われた。

試合結果は負20であった。

戸塚彦介と松岡克之助

黒田藩士松岡克之助尚周は、天神真楊流柔術を磯正智から戸塚派楊心流を戸塚彦介から学び二流を合流して神道楊心流柔術を開いた人物である。松岡克之助は1855年(安政2年)に磯正智から免許皆伝を授かり、磯道場の師範代を務めていた。身長5尺8寸(175㎝)体重23貫(86㎏)であり、他流試合を一手に引き受け磯道場の猛虎と恐れられた。

1858年(安政5年)浅草観音寺境内に天神真楊流道場を開き、1860年(万延元年)黒田藩から呼び出しを受け幕府講武所の修行人を命じられた。

この講武所で柔術教授方の戸塚彦介と立ち合ったところ、三本勝負の乱捕でどう頑張っても二本は取られてしまったという[2]。この時の戸塚彦介は49歳、松岡克之助は24歳であった。

これにより松岡克之助は戸塚彦介を第二の師匠と定め、講武所と愛宕山の戸塚派道場に通って楊心流を修行した。


延岡藩の磯貝恒久と鈴木千左衛門

講道館柔道十段の磯貝一の父である磯貝恒久は延岡藩の鈴木千左衛門より関口南蛮流を学んだ。ある時、師の鈴木千左衛門が全国を風靡していた千葉の戸塚楊心流へ出稽古へ行き晴の錦衣を故郷へ飾るのに出会った。血気盛んな磯貝恒久は戸塚派楊心流を学ばないことには師範の格式なしとされたことが面白くなかったのか、延岡藩に帰ってきた鈴木に試合を挑んだ。

九州の僻地で関口流の末流を習った磯貝恒久と楊心流の本場の千葉で本格的に修行してきた鈴木とでは段が違っており、足払を軽くすかされて敷居に足を打ち付け骨折したとされる。

戸塚英美と天神真楊流の試合

嘉納治五郎との試合

講道館柔道との試合

楊心流との関係

柔術史の研究家達によると、揚心古流は秋山四郎兵衛の楊心流から出た流派だと言われている。

秋山楊心流、大江千兵衛の弟子の三浦定右衛門三浦楊心が同一人物であるとする説がある。 三浦定右衛門の弟子には手嶋観柳がおり、楊心古流六代目の阿部観柳や七代目の江上観柳と同じ観柳という号であることから何かしらの関係があると考えられる。

技法も楊心流系に見られるしんの位(真之位、心之位)、むとう別(無刀別、無當別)、膳越袖車車劔應太刀抜身ノ目附などがある。

流派の内容

乱捕を重視し、形稽古の前にまず乱捕で体をほぐしたという。形稽古も、非打ちを入れる、と言って技の効きが不十分なら返し技をかける事がおこなわれていた。この稽古法が発展し乱捕となったと考えられている。

形は双方が立っている起合(たちあい)、お互いが歩いて行き違う際の攻防である行合(ゆきあい)、座った状態から行う居合(いあい)、の三つに大きく分けられる。特に居合は楊心流と同じ名前の形が多い。

他流と同じく、大刀、小刀、手ぬぐい(鎖)などの武器を使用した形や、こちらから攻めて取り押さえる捕手術的技法も多く見られる。殺法(当身)は20本伝えていた。起合の壁副は、明治頃に警視流柔術に採用されている[7]

起合
指捕、手車、相捕、袖車、腕車、帯引、衣紋崩、甲廻、臑押、帯車
小裾返、引廻、大殺、松葉殺、小廻、伏鹿、巖石、壁副(壁添)、當曲尺、心車
行合
小當、小返、紅葉亂、紋所、外掛、内掛、突附、大當、虎走、瀧落、脇山影、向山蔭、後山影
劔之位、浦風、龍飛前、關留、電光、引廻、小膝廻、後廻(後篇)、磯ノ浪、小車、突身、下リ藤
居合
心之位、無當別、袖車、膳越、車劔、抜身ノ目附、應太刀、釣固、甲廻、打込
猿猴、大堅、貫、玉霞、関留、樊噲、樊噲搦、突子、刀縛、小車、龍虎
見分形五本    口伝之事
高上手形七本   中免許口伝之事
殺法廿本(当身) 免許口傳之事
活法八本     免許口傳之事[8]

系譜

阿部観柳武貞は流祖の三浦楊心の直門ではなく楊心流六代目であるとされている。

三浦楊心から阿部観柳までの系譜は解明されていない。

例として一部の系譜を以下に示す。


戸塚彦介の門人

江戸時代の楊心流には3000人以上の門人がおり諸藩に戸塚の弟子がいた。 下記は諸藩の傑出した門人である。

旗本
片山清十郎、佐藤保次郎、中條金之助、牧野三之助、井上鍵次郎、堀七之助、渡邊健三
御家人
眞野大貮、荒木佐一郎、久保榮太郎
丹南藩
金谷七次郎元良、西村定中
久留米藩
久富鉄太郎渋川流)、古賀芳之助
徳島藩
笠原恒亮
佐賀藩
立川千兵衛、原敬四郎、前山十内
長州藩
佐久間勝太郎
郡山藩
岩田民次郎、野口庄三郎
鳥取藩
安住百太郎
薩摩藩
川北新九郎
赤穂藩
疋田元治
西尾藩
坂田平一郎、小島兼蔵
浜松藩
藤田銀八郎柴新流)、大山吾助、柏井登
掛川藩
小澤稽三郎
岡山藩
吉田直蔵(起倒流)
松前藩
武川市三郎、三浦健三郎、梶原啓太郎
新庄藩
天野昭太郎(汲心流
館林藩
川村清太郎、大類元四郎、林虎次郎、井上亀八郎
土浦藩
館野芳郎
佐倉藩
笹沼八郎、島田繁次郎、横山卓、加藤連之助、林好和、大川傳三郎
延岡藩
鈴木孫八郎、三宅仙蔵、内田千之助
膳所藩
細身欣之助
姫路藩
鞍貫藤三郎
府下處士
中川専介
尾張藩
(前田又四郎武崇)(真之神道流

史跡

  • 千葉県指定史跡、戸塚英俊と戸塚英美の墓(浄土宗光明山胤重寺)
  • 江上司馬之助武経の墓(妙善寺)
  • 今田七郎正儀の墓 (多磨霊園)
  • 千葉縣巡査鈴木清助殉職碑 (千葉県千葉市若葉区西都賀2丁目、夫婦坂)

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ 松岡龍雄の祖父である松岡克之助は戸塚彦介の門人である。また父の良太郎は戸塚彦介の高弟の息子であり松岡家の婿となった人である。
  2. ^ 久富は久留米藩に伝わった渋川流師範である。武者修行で沼津藩を訪れ戸塚彦介から乱捕を学んだ。安政6年に久留米藩の良移心頭流、下坂五郎兵衛の門人として天神真楊と試合をしており、天神真楊流の強豪で後に嘉納治五郎の師となる福田八之助と引き分けている。明治以降に警視庁武術世話掛となり、横山作次郎中村半助山下義韶田辺又右衛門等の試合審判を務めた。
  3. ^ (1748~1795)、妙善寺に墓がある。

出典

  1. ^ 川内鉄三郎 著『日本武道流祖伝』日本古武道振興会、1935年
  2. ^ a b c 「松岡龍雄VS藤原稜三(ニ)」、『近代空手』1985年9月号 ベースボールマガジン社
  3. ^ 「松岡龍雄VS藤原稜三(三)」、『近代空手』1985年10月号 ベースボールマガジン社
  4. ^ 深井子之吉著『奥秘龍之巻』帝國尚武會、1911年
  5. ^ a b 静岡県駿東郡役所 編『静岡県駿東郡誌』静岡県駿東郡役所、1917年
  6. ^ a b c 渡辺一郎先生を偲ぶ会 編『渡辺一郎先生自筆 近世武術史研究資料集』前田印刷、2012年
  7. ^ 井口松之助 著『早縄活法柔術練習圖解 一名警視拳法』魁眞棲、1898年
  8. ^ 藤原稜三 著『格闘技の歴史』ベースボール・マガジン社、1990年
  9. ^ 日本力行会 編『現今日本名家列伝』日本力行会出版部、1903年
  10. ^ 維新日乗纂輯. 第3  p306
  11. ^ 『千葉県印旛郡誌: 後編, 第3巻』p38
  12. ^ 警察監獄學會発兌『警察監獄學會雑誌 第一巻第七號』p29 「鈴木清助氏の履歴」


参考文献

  • 井口松之助 著『早縄活法柔術練習圖解 一名警視拳法』魁眞棲、1898年
  • 日本力行会 編『現今日本名家列伝』日本力行会出版部、1903年
  • 藍澤勝之 著『練體五形法』藍澤勝之、1903年
  • 深井子之吉著『奥秘虎之巻』帝國尚武會、1911年
  • 深井子之吉著『奥秘龍之巻』帝國尚武會、1911年
  • 野口清 著『柔術修業秘法』帝國尚武會、1912年
  • 天源淘宮術研究會 著『天源淘宮術講義』松成堂、1912年
  • 北川由之助 編『東京社会辞彙 完』毎日通信社、1913年
  • 静岡県駿東郡役所 編『静岡県駿東郡誌』静岡県駿東郡役所、1917年
  • 林寿祐 編 『房総の偉人』多田屋支店、1925年
  • 内田良平 著『武道極意』黒龍會出版部、1925年
  • 岩崎英重 編『維新日乗纂輯 第三』日本史籍協會、1926年
  • 川内鉄三郎 著『日本武道流祖伝』日本古武道振興会、1935年
  • 岡山市史編集委員会 編『岡山市史 学術体育編』岡山県、1964年
  • 伊藤一男『続北米百年桜』北米百年桜実行委員会、1972年
  • 綿谷雪・山田忠史 編 『増補大改訂 武芸流派大事典』 東京コピイ出版部、1978年
  • 日本柔道整復師会 編『日整六十年史』社団法人日本柔道整復師会、1978年
  • 藤原稜三 著『格闘技の歴史』ベースボール・マガジン社、1990年
  • 渡辺一郎先生を偲ぶ会 編『渡辺一郎先生自筆 近世武術史研究資料集』前田印刷、2012年
  • 「講道館〃最大のライバル〃戸塚派楊心流の実像を求めて」,『月刊空手道別冊 極意』1997年春号, p22,福昌堂
  • 帯刀智「水戸第三高校"やわら"クラブの技法」,『月刊秘伝』2016年12月号,p108,BABジャパン
  • 「松岡龍雄VS藤原稜三(一)」、『近代空手』1985年8月号 ベースボールマガジン社
  • 「松岡龍雄VS藤原稜三(ニ)」、『近代空手』1985年9月号 ベースボールマガジン社
  • 「松岡龍雄VS藤原稜三(三)」、『近代空手』1985年10月号 ベースボールマガジン社
  • 「松岡龍雄VS藤原稜三(四)」、『近代空手』1985年11月号 ベースボールマガジン社
  • 「松岡龍雄VS藤原稜三(五)」、『近代空手』1985年12月号 ベースボールマガジン社
  • 「松岡龍雄VS藤原稜三(最終回)」、『近代空手』1986年1月号 ベースボールマガジン社 
  • 『類聚伝記大日本史, 第16巻』
  • 『東洋文化』東洋文化學會, 1967年
  • 『佐倉市史, 第 1 巻』
  • 加藤寬『武道 (日本史小百科)』 東京堂出版 p178
  • 『史談会速記録』 1916年 第281~300号
  • 『明治人名辞典第2巻』
  • 『史料明治武道史』 新人物往来社, 1971 p725
  • 今村嘉雄[ほか]編『日本武道大系』同朋舎出版 1982.6
  • 『名古屋市史 第2巻』p64
  • 大日本人名辞書刊行会 編『大日本人名辞書. 下卷』大日本人名辞書刊行会 1926年、p1800
  • 沼津市史編さん委員会、沼津市教育委員会 編『沼津市史史料編近世第1巻』
  • 警察監獄學會発兌『警察監獄學會雑誌 第一巻第七號』 p29


関連項目

外部リンク

  • 浄土宗光明山胤重寺 戸塚英俊と戸塚英美の墓があり、千葉県指定史跡となっている。
  • 妙善寺 江上司馬之助武経の墓がある。
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