戸塚 彦介(とつか ひこすけ、文化10年〈1813年〉 - 明治19年〈1886年)4月15日〉は、江戸時代の柔術家。揚心古流(戸塚派揚心流)。号は一心斎、名は英俊(ひでとし)。
経歴
戸塚派揚心流の祖、(戸塚英澄)の長子。江戸出身。天保元年(1830年)より駿河国沼津藩に仕え、天保8年(1837年)に25歳で家を継ぐ。文久年間に徳川家茂に謁し、揚心古流を演武した。 万延元年(1860年)から幕府講武所の柔術教授方を務める(ただし、1年5か月で柔術は廃止された)[1]。この時、東京芝区愛宕町に道場を移し、その門に入る者は千六百人に至ったという。[2][3]
維新の後、下総国千葉に道場を移し、千葉県警察(千葉県巡査教習所)、監獄両署の師範となり多くの門弟を育てた。
明治18年(1885年)に千葉県柔術師範となるが、程なく病死する[1]。跡目は子の戸塚英美が継いだ。
門下には、高弟の柏崎又四郎、相澤重次郎、養子の英美のほか、照島太郎、西村定中などの逸材がいた。
また、乱捕中興の祖と伝わる。
人物・逸話
神道楊心流の松岡龍雄[注釈 1]が父から聞いた話として、戸塚彦介の荒稽古は江戸中で大変評判となっており、戸塚彦介は身長5尺9寸(178㎝)体重23貫(86㎏)の大男で少々腕自慢の者でも軽く向う脛を蹴られただけで道場の羽目板まで飛んでしまう有様であったという[4]。戸塚彦介は幕府講武所で教授方を務めており、天神真楊流免許皆伝の松岡克之助は戸塚彦介との三本勝負の乱捕でどう頑張っても二本は取られてしまったという[4]。また藤原稜三によると幕府講武所の乱捕稽古は怪我人が出るのは当たり前で胸に入った蹴りを受けそこねて絶命した話や大男が絞め落とされて蘇生しなかった話が伝わっていると記している[5]。
戸塚彦介の弟子である渋川流の久冨鉄太郎が明治時代に語った柔道談には、当時でも今日でも乱捕で戸塚彦介より上の人はいないと評している[注釈 2]。また久富によると戸塚彦介の他流の門人への指導方針は「流派は構わない。下地は出来ているから着色し、これまでに習ってきたことを変えてはならない。」というものであった。戸塚が教えるのは投手であり、「徹頭徹尾呼吸が盡るまで講修すれば自然名人上手になれる。」と言っていたとされる。
脚注
注釈
出典
出典
- 林寿祐、林寿祐 編『房総の偉人 』 p121 戸塚彦介
- 吉岡精一郎 著『天源淘宮術講義』松成堂, 1912 「戸塚彦助」
- 小沢治郎左衛門 著『上總町村誌』
- 大日本人名辞書刊行会 編『大日本人名辞書. 下卷』大日本人名辞書刊行会 1926年、p1800
- 岩崎英重 編『維新日乗纂輯. 第3』日本史籍協会、大正14-15、p306