» www.Giftbox.Az - Bir birindən gözəl hədiyyə satışı
ウィキペディアランダム
毎日カテゴリ
共有: WhatsappFacebookTwitterVK

戸塚彦介

戸塚 彦介(とつか ひこすけ、文化10年〈1813年〉 - 明治19年〈1886年4月15日〉は、江戸時代柔術家揚心古流(戸塚派揚心流)。号は一心斎、名は英俊(ひでとし)。

とつかひこすけ
戸塚彦介
生誕1813年????
(文化10年)
江戸
死没1886年4月15日
(明治19年)
千葉町
死因病死
国籍 日本
別名戸塚英俊
戸塚彦助
職業柔術家
流派揚心古流
身長5尺9寸(178㎝)
体重23貫(86㎏)
子供戸塚英美
戸塚彦右衛門英澄

経歴

戸塚派揚心流の祖、(戸塚英澄)の長子。江戸出身。天保元年(1830年)より駿河国沼津藩に仕え、天保8年(1837年)に25歳で家を継ぐ。文久年間に徳川家茂に謁し、揚心古流を演武した。 万延元年(1860年)から幕府講武所の柔術教授方を務める(ただし、1年5か月で柔術は廃止された)[1]。この時、東京芝区愛宕町に道場を移し、その門に入る者は千六百人に至ったという。[2][3]

新選組入隊前の篠原泰之進などが居候をしていたこともある。

維新の後、下総国千葉に道場を移し、千葉県警察(千葉県巡査教習所)、監獄両署の師範となり多くの門弟を育てた。

明治18年(1885年)に千葉県柔術師範となるが、程なく病死する[1]。跡目は子の戸塚英美が継いだ。

門下には、高弟の柏崎又四郎、相澤重次郎、養子の英美のほか、照島太郎、西村定中などの逸材がいた。

また、乱捕中興の祖と伝わる。

人物・逸話

神道楊心流松岡龍雄[注釈 1]が父から聞いた話として、戸塚彦介の荒稽古は江戸中で大変評判となっており、戸塚彦介は身長5尺9寸(178㎝)体重23貫(86㎏)の大男で少々腕自慢の者でも軽く向う脛を蹴られただけで道場の羽目板まで飛んでしまう有様であったという[4]。戸塚彦介は幕府講武所で教授方を務めており、天神真楊流免許皆伝の松岡克之助は戸塚彦介との三本勝負の乱捕でどう頑張っても二本は取られてしまったという[4]。また藤原稜三によると幕府講武所の乱捕稽古は怪我人が出るのは当たり前で胸に入った蹴りを受けそこねて絶命した話や大男が絞め落とされて蘇生しなかった話が伝わっていると記している[5]

戸塚彦介の弟子である渋川流の久冨鉄太郎が明治時代に語った柔道談には、当時でも今日でも乱捕で戸塚彦介より上の人はいないと評している[注釈 2]。また久富によると戸塚彦介の他流の門人への指導方針は「流派は構わない。下地は出来ているから着色し、これまでに習ってきたことを変えてはならない。」というものであった。戸塚が教えるのは投手であり、「徹頭徹尾呼吸が盡るまで講修すれば自然名人上手になれる。」と言っていたとされる。


脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ 松岡龍雄の祖父である松岡克之助は戸塚彦介の門人である。また父の良太郎は戸塚彦介の高弟の息子であり松岡家の婿となった人である。
  2. ^ 久富は久留米藩に伝わった渋川流師範である。武者修行で沼津藩を訪れ戸塚彦介から乱捕を学んだ。安政6年に久留米藩の良移心頭流、下坂五郎兵衛の門人として天神真楊と試合をしており、天神真楊流の強豪で後に嘉納治五郎の師となる福田八之助と引き分けている。明治以降に警視庁武術世話掛となり、横山作次郎中村半助山下義韶田辺又右衛門等の試合審判を務めた。

出典

  1. ^ a b 日本大百科全書(ニッポニカ)
  2. ^ 川内鉄三郎『日本武道流祖伝』日本古武道振興会
  3. ^ 大日本人名辞書刊行会 編『大日本人名辞書. 下卷』大日本人名辞書刊行会 1926年、p1800
  4. ^ a b 「松岡龍雄VS藤原稜三(ニ)」、『近代空手』1985年9月号 ベースボールマガジン社
  5. ^ 「松岡龍雄VS藤原稜三(三)」、『近代空手』1985年10月号 ベースボールマガジン社

出典

  • 林寿祐、林寿祐 編『房総の偉人 』 p121 戸塚彦介
  • 吉岡精一郎 著『天源淘宮術講義』松成堂, 1912 「戸塚彦助」
  • 小沢治郎左衛門 著『上總町村誌』
  • 大日本人名辞書刊行会 編『大日本人名辞書. 下卷』大日本人名辞書刊行会 1926年、p1800
  • 岩崎英重 編『維新日乗纂輯. 第3』日本史籍協会、大正14-15、p306
ウィキペディア、ウィキ、本、library、論文、読んだ、ダウンロード、自由、無料ダウンロード、mp3、video、mp4、3gp、 jpg、jpeg、gif、png、画像、音楽、歌、映画、本、ゲーム、ゲーム。