愛知 和男(あいち かずお、1937年7月20日 - )は、日本の政治家。日本国際フォーラム参与[1]。旧姓は中田。
愛知 和男 あいち かずお | |
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防衛庁長官就任に際して | |
生年月日 | 1937年7月20日(85歳) |
出生地 | 東京府(現東京都) |
出身校 | 東京大学法学部卒業 |
前職 | 日本鋼管(現、JFEスチール)従業員 |
所属政党 | (自由民主党(田中派→竹下派→羽田派)→) (新生党→) (新進党→) 自由民主党(二階派) |
称号 | 旭日大綬章(2010年) 法学士(東京大学、1961年) |
配偶者 | 妻・愛知絢子 |
子女 | 次男・愛知治郎(元参議院議員) |
親族 | 義父・愛知揆一(大蔵大臣) |
公式サイト | 愛知和男 公式ウェブサイト |
第54代 防衛庁長官 | |
内閣 | 細川内閣 |
在任期間 | 1993年12月2日 - 1994年4月28日 |
第25代 環境庁長官 | |
内閣 | 第2次海部改造内閣 |
在任期間 | 1990年12月29日 - 1991年11月5日 |
選挙区 | (旧宮城1区→) (宮城1区→) 比例東京ブロック |
当選回数 | 9回 |
在任期間 | 1976年12月10日 - 2000年6月2日 2005年9月12日 - 2009年7月21日 |
衆議院議員(9期)、防衛庁長官(第54代)、環境庁長官(第25代)、新進党政策審議会長(第2代)等を歴任した。
富山県知事を務めた中田幸吉はおじ。義父は衆議院議員を務め大蔵大臣や外務大臣、内閣官房長官などを歴任した愛知揆一。元参議院議員の愛知治郎は次男。
来歴
東京府(現東京都)出身。東京都立日比谷高等学校卒業を経て、1961年、東京大学法学部を卒業し、日本鋼管(現JFEスチール、JFEエンジニアリング)に入社。1968年から1972年までニューヨーク事務所に駐在[2]。
1964年、愛知揆一の養女絢子と結婚し愛知家に婿入り、以後愛知姓を名乗る。ニューヨーク駐在中の1969年に次男・治郎が誕生した。1972年12月、義父・愛知揆一が第2次田中角榮内閣で大蔵大臣に任命され、日本鋼管に在籍したまま大蔵大臣秘書官に就任[3]。
1973年、翌年の仙台市長選挙への立候補を表明したが、この選挙における愛知は当初泡沫候補扱いであった[3]。同年11月、義父の愛知揆一が蔵相在任のまま急逝し、選挙戦の様相は一変したが、現職の島野武仙台市長が僅差で逃げ切り、愛知は惜敗した[3]。
1976年12月、第34回衆議院議員総選挙に義父の地盤を引き継いで旧宮城1区(定数5)から出馬し、同区トップで初当選した(当選同期に鳩山邦夫・中村喜四郎・中島衛・西田司・池田行彦・堀内光雄・相澤英之・津島雄二・鹿野道彦・塚原俊平・中西啓介・与謝野馨・渡辺秀央・中川秀直・甘利正らがいる)。以後、1983年の第38回衆議院議員総選挙まで、4度連続でトップ当選する。当選後は田中派に入会し、後に竹下派の結成に参加。1980年の鈴木善幸内閣で外務政務次官、1982年の第1次中曽根内閣で労働政務次官に就任。1989年、宮城県知事選挙への立候補を模索するが、前年に発覚したリクルート事件に関連し、愛知も同社から政治献金を受け取っていたため自民党内の説得により、出馬を断念する。
衆議院議院運営委員会・社会労働委員会・文教委員会各理事、自民党地方行政部会長、衆議院文教委員長などを経て[4]、1990年、第2次海部内閣で環境庁長官に任命され、初入閣した。1992年の竹下派分裂に際しては羽田孜・小沢一郎らと共に改革フォーラム21に参加し、羽田派の政策責任者を務める。1993年、自民党を離党し、新生党結党に参加した。1993年12月、中西啓介防衛庁長官の辞任に伴い、細川内閣で後任の防衛庁長官に任命される。1994年、新生党解党に伴い新進党結党に参加した。1995年、新進党政策審議会長に起用される。小選挙区比例代表並立制導入に伴い、1996年の第41回衆議院議員総選挙では宮城1区から出馬。旧民主党前職の岡崎トミ子らを破り、8選。
1996年頃から新進党党首の小沢一郎に対する批判を強め、1997年7月14日に新進党を離党。4年ぶりに自民党に復党する。愛知の復党により自民党は単独過半数を回復、復党した愛知には花束が贈呈された。しかし、2000年の第42回衆議院議員総選挙では宮城1区で民主党新人の今野東に敗れ、比例復活も叶わず落選(1区現象)。2002年、病気を理由に政界からの引退を表明した。引退後は関西大学や東京農業大学で客員教授を務める。
2005年、二階俊博の誘いを受けて第44回衆議院議員総選挙に立候補。比例東京ブロック単独で、下位登載(26位)であったものの自民党の圧勝により愛知も当選し、5年ぶりに国政に復帰した。当選後は二階派に入会し、2007年12月には日朝国交正常化を目指す議員連盟「自民党朝鮮半島問題小委員会」の立ち上げに参加し、同議連の顧問に就任した。2009年の第45回衆議院議員総選挙にも再び比例東京ブロック単独で出馬したが落選し、再び政界引退を表明した。2010年4月29日、春の叙勲において旭日大綬章を受章した[5]。
人物
家族・親族
所属団体・議員連盟
著書
- 『各界首脳と語る』不昧堂出版、1986年11月1日。(NDLJP):11924786。
- 『地球環境の視点に立った世直し論―日本を変える、世界を変える』 プレジデント社、1992年5月
- 『共生世界論―どうする、これからの世界と日本』 プレジデント社、1994年10月
- 『ここを変革すれば日本は必ずよくなる』 かんき出版、1995年9月
- 『次世代の日本へ-野に在りて国を思う-』 恒文社21、2002年10月
- 盛山正仁と編著『エコツーリズム推進法の解説』 ぎょうせい、2008年10月
- 評伝
- 森田実『愛知和男 元防衛庁長官・元環境庁長官』 論創社、2022年8月
- 副題:しがらみ多き保守政界で自己の信念を貫いた自由人政治家
CD
脚注
関連項目
外部リンク
- 2006年以前まで更新されていたもの